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【社会科講師対象】安保条約の締結と闘争のわかりやすい指導法!【高校日本史】

高校生

2021/12/17

安保闘争

前記事「安保闘争までに何があったのか」(URL:http://www.juku.st/info/entry/986)では、今から約55年
前に起こった「安保闘争は何故あれほど大きな政治闘争となったのか」ということを考える土台の部分として、そもそも何故起こったのかという社会的背景を生徒にどう理解させるか、
について説明させていただきました。

安保

簡単におさらいをします。

1951年、サンフランシスコ講和条約の締結により、日本は独立を取り戻します。
当時日本を間接統治をしていたアメリカは、東西冷戦が深まる中で、ソ連を筆頭とする社会主義陣営に対して「巻き返し」政策を方針としていました。
そこで、来る世界情勢の不安に備え日本の非軍事化よりも、戦時中の日本軍とは異なる範囲内での「再軍備」へと力点をシフトします。

それを、具体的な形に表したものが「日米安全保障条約」でした。しかし、サンフランシスコ講和条約と
同時に締結したこの安保条約には、米軍の日本防衛義務については明記がありませんでした。つまり、
アメリカに対して日本は基地を提供するだけとも取れる内容に、日本は従わざるを得ませんでした。

しかし、日本の「独立性」を高めるために、岸信介内閣は「新安保条約」を締結し、日本に駐留する米軍に日本が侵略を受けた場合には支援義務がある内容に変えました。

ここまでが前稿でお伝えした「新安保条約」の中身までの指導法でした。
前稿の「どうして安保闘争が起こったのか」を受けて、本稿では

安保闘争はどのような展開を経たのか

について、授業後に生徒が自分の言葉で説明できるような指導法をご紹介します。

条約の効力

最初の部分は、中学校公民分野の復習にもなるのですが、「条約が効力を持つには」という点から考えていき
ましょう。

条約は外国との関係を示すものですが、これを発効するには国内での承認も得なければなりません。
岸信介首相はアメリカ政府と結んだ「新安保条約」を実際に効力を持たせるために動き出します。
新安保条約に限りませんが、条約を結ぶ順番としては、まず政府の外交担当や代表者が相手国と条約の
内容を確認し、契約同意のサインをします。

サイン
しかし、代表者個人の意思で条約は結べません。国内でも承認が必要となるのです。
この国会での最終的な承認の手続きを批准と呼びます。つまり、流れとしては具体的に
①国会で批准
②条約を結ぶ両国が批准書を交換する
のプロセスを踏まなければ条約は効力を持つことができないのです。

日本では、この新しい安全保障条約の批准手続きをするために、1960年2月、新安保条約を審議する
安保特別委員会が衆議院に設置されます。
安保条約をめぐり、この審議会では社会党議員が非常に激しく政府を追及します。
審議は難航します。
これに対して、先行きが中々見えない状況に、条約批准を目指していた自民党は次の行動に出ます。
いよいよ安保闘争の中身へと入ります。

安保条約批准へ

1960年5月19日の深夜、安保特別委員会において、野党の猛反対や議員同士の激しい押し合いへし合いの中で安保条約の批准を強行採決します。
正誤問題などで、「安保闘争は安保条約締結を巡る政治闘争」という言葉が出てきますが、実際は、批准
巡って大きく揺れていたので生徒に間違えないようしっかり意識させましょう。

中身に戻ります。
ここで1つ疑問を持たなければなりません。それは「何故強行採決をする必要があったのか」という事です。
承認採決を行うために丹念にじわりじわりと目標へと向かう方法も合ったはずです。
これには国際的な条約という背景が隠されています。

世界

当時、新安保条約を結ぼうとしていたアメリカの大統領アイゼンハワーが6月19日に来日することが決まっていました。
外交として「新安保条約」をアメリカと締結することをすでに話し合っていたのに、来日した際に
「まだ実は日本国内では承認できていません」というわけにはいかないと考えていました。
アイゼンハワーの来日の目的は、新安保条約をベースに今後の日米の関係を確認することも含まれていたのです。

これも公民分野の復習になるのですが、「衆議院の優越」が認められている関係で、条約の批准に関しては、衆議院で可決されたことが、参議院で否決されても30日後には自然に承認となります。
こうした思いから、アイゼンハワー来日の1ヶ月前の5月19日に強行採決をする必要があったのです。

国民の反応

この時の強行採決は、反対渦巻く中で警官隊を利用し、野党の議員を締め出し、深夜に賛成は与党議員のみで
可決に持ち込むというやり方でした。
これをきっかけに世論は政府への批判に動き出します。

この国会での強行採決のやり方に、多くの国民が「民主主義の危機」を感じました。
こうしたやり方を許してしまったら、他の政策も国民の意思など関係なく決められてしまう
=民主主義の崩壊を招くという不安に陥ったからです。
そして、間もなくその批判は行動へと移ります。

反対
本稿は、冷戦の指導法の記事ではないので詳述は避けますが、
1950年朝鮮戦争やハンガリー動乱などこの10年は戦後の世界体制を巡るソ連を筆頭とする東側
社会主義陣営とアメリカを筆頭とする西側資本主義陣営の対立が世界各地で起こっていました。

こうした背景があったため、安保改定反対派は「新たな戦争に巻き込まれるのではないか」という危惧を持ちます。上述した前稿の記事をご確認頂きたいのですが、新安保条約では日米の相互防衛義務が追加されています。
これがあることで、日本への防衛義務がある反面、アメリカ軍が他国との争いをする際にも相互に防衛する、つまり日本も巻き込まれてしまうと捉えたのです。

安保反対派の行動

さて、ではいったい政府に対して反対をどのように行動で表現していたのか、見て行きましょう。
まず先述したアイゼンハワー大統領の訪日に関連した行動です。
大統領補佐官のような立ち位置にいたジェームズ・ハガティーが羽田空港に到着します。
9日後に控えたアイゼンハワー大統領の訪日に関してのスケジュールなどの最終確認をするためでした。

しかし、安保改定反対派はアイゼンハワー大統領が訪日することにも反対していたため、ハガティーの
訪日時にもデモを繰り広げます。
具体的に空港に到着したハガティーはデモ隊に囲まれ、身動きがとれなくなります。なんとかアメリカ軍のヘリコプターが一行を乗せて連れ出すという状況でした。

へり
日本政府は悩みました。大統領の補佐官でこれほどの規模のデモだとすると、大統領が来た時にはどうなって
しまうのか。しかし、憂慮しているところでさらに政府を悩ます出来事が起こります。

国会突入

1960年6月15日、アイゼンハワー大統領訪日予定日より4日前、全学連主流派というグループが、国会を取り巻くデモではなく、大胆な行動で岸内閣に打撃を与えるべきと考えます。
その考えは「国会突入」という形になります。

国会
この情報を聞きつけた政府は対応に追われます。国会だけでなく、アメリカ大使館などにも突入する反対派がいるかもしれないと考え、警備をそちらにも回します。

この日、国会の周りにデモのために約8000人の学生が集まります。
全学連主流派のうちの3大学の学生が先頭に立ち、ついに国会の南通用門から突破をはかります。
警備隊はアメリカ大使館などにも配置されていたため、必要最低限の人数で突破してきた学生から国会を
守る「内張り」という作戦を用いていました。

この押し合いの中で、女子学生に1人死者が出るなど、大規模かつ、悲惨なぶつかり合いとなってしまいます。ここで警備にあたったのは警察でしたが、自衛隊も治安出動する寸前までの状況だったと言われています。

まとめ

さて、約8000人の学生が国会を取り囲むほど規模の大きかった「安保闘争」を巡る動きを
ここまでご紹介してきましたがいかがだったでしょうか?

この安保闘争はその後日本経済にどう影響を与えたかを述べて本稿の締めとしたいと思います。
経済
最終的に、新安保条約は6月19日に自然承認となり、アメリカ政府とは6月23日に批准書を交換し、正式に新安保条約が発効します。

これが済んでから、岸信介首相は安保闘争の責任をとって辞任します。
この時期、新安保条約を締結したことでその後日本は日本独自の軍事予算を削減させることが出来、
その分経済の発達につぎ込むことが出来たと言われています。
事実1960年代から日本は高度経済成長を迎えます。

新安保条約を積極的に肯定するというわけではありませんが、
現代の日本を作り上げた1960年代の高度経済成長につながる背景としてこの安保闘争を指導すると、生徒もその位置づけが明確になると思います。指導の際に参考にしていただけたらと思います。
本稿は以上です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!

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