日韓条約をどう教えるか
拙稿「【高校日本史】日韓条約締結までの議論を分かりやすく紹介【論述にも応用可】」では、
- 双方の主張を提示する際の留意点
- 日韓条約への険しい船出
- 第2次世界大戦後の朝鮮半島
- 日韓関係改善の光が差し込みかけたが
の4点をご紹介しました。
日韓が戦後の国交樹立に向けて努力するも、なかなか事態が良い方向に向かわない・・・
そんな内容をお伝えしました。
本稿では、前記事に続き、日本と韓国が交渉の難航をいかに打開し、国交を樹立したかを、わかりやすく解説します!
目次
1.日本と韓国の境目はどこか?
2.日韓会談の変化
3.日韓基本条約
4.両国民の条約への反応
5.条約をどう解釈するか
1.日本と韓国の境目はどこか
日本は国交以外にも、韓国と交渉しなければならないことがありました。
それは、日本と韓国の境界線についてです。
日本と韓国の国境は、戦後マッカーサーによって引かれました。(海の上)
これがマッカーサー・ラインと呼ばれるものです。
しかし、1952年になって、韓国の李承晩大統領が、
マッカーサー・ラインより日本に近い部分の水域まで「平和線」を設定しました。
そのラインが韓国の領海だと宣言します。日本はこのラインを「李ライン」と呼びました。
李ラインを越えた日本の漁業船はマッカーサーが設定したラインより日本側にいても、
韓国によって拿捕される事件が相次ぎました。
拿捕:(外国・敵国の)船を捕えること
拿捕された船に乗っていた乗組員は、韓国で裁判にかけられ、韓国内の収容所に抑留されます。
韓国のこうした動きやがてエスカレートし、韓国軍の銃撃で死亡してしまう漁船員も出てしまいました。
日本国内でも韓国の対応への批判が高まり、政府はその対応策に迫られます。
その対応策こそが韓国と協力関係を結び、問題を発展的に解決する事でした。
<ここがポイント>
「マッカーサー・ライン」と「李ライン」の主張違いで日韓の関係が悪化した
2.日韓会談の変化
こうした背景から、1952年2月に第1回日韓会談が始まりました。(会談内容は前稿をご確認ください)
しかし交渉は難航し、互いに納得できる妥協点を見つけることができません。
しかし、会談が始まって約10年の月日が過ぎる頃、ついに事態は進展しました。
きっかけとなったのは、1961年5月に起こった軍事クーデターです。
このクーデターは、朴正煕陸軍少尉が勝ち上がり、政権を握ることに成功します。
そして翌1963年に大統領の位置を手に入れると、日韓交渉は新しい展開を迎えます。
朴正煕大統領は日本との関係を改善する動きに出ます。
難航していた日韓関係を動かしたのは、
- 韓国の近代化をするために、経済開発の資金を日本から得ること
- 再び朝鮮戦争が起こった時のために、日本との関係を良くしておくという安全保障
2つの理由があったからです。
3.日韓基本条約の締結
日韓関係の改善に動き出した両国は、165年6月22日に日韓基本条約を締結します。
日韓基本条約の正式名称は「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」といいます。
この条約を締結したことで、戦後日本と韓国の間で正式な外交関係が始まりました。
また、締結に際して、
- 「日韓併合条約」が失効していること
- 韓国政府が朝鮮唯一の合法政府であることを認める
- 日韓間の貿易の回復
- 民間航空路の開設
- 資金の供与
- 「李ライン」を解消すること
- 在日韓国人の法的地位の確定
の協定を結びます。
さらに、韓国に対して漁業協力資金一億ドルを払い、韓国周辺での日本側の漁獲量を定めます。
これによって漁業も一応の解決を迎えました。(李ライン」を撤廃することも決まります。)
<ここがポイント>
1965年6月22日に日韓基本条約が締結され、戦後の外交関係がスタートした
4.両国民の条約への反応
さて、日本国民と韓国国民はこの条約締結にどう反応したのでしょうか。
結論から述べると両国共に反対運動が起こります。
韓国国民は、条約内容に日本の植民地支配の責任を明らかにする文言がないことへの不満が高く、
政府の決定に「屈辱外交反対」を掲げ、激しい学生デモを行いました。
事態は中々収まらず、韓国政府は軍隊を出動させて鎮圧にあたります。
一方、日本国内では、社会党・共産党の反対がありました。
この条約では、北朝鮮を国家として認めていないことから、
今後、日韓は共同で北朝鮮と敵対していくことになるのではないか。
と、反対の声をあげたのです。
しかし、最終的には数で勝る自民党が衆参両院で可決に持ち込み、12月11日に発効します。
その後の日韓関係にも深く関わってくる部分です。
両国ともに納得のいくスタートにはならなかった、ということをおさえましょう。
<ここがポイント>
韓国国内で、日本の植民地支配への責任を追及しないことへの抗議運動がおこった
5.条約をどう解釈するか
さて、なぜ難航を極めた交渉の中で、条約締結にたどりつくことができたのでしょうか?
もちろん、双方の努力によるところも大きいですが、実はもう1つ大事な理由があります。
その理由とは、
複雑な部分にはあえて解釈の余地を持たせて、双方都合の良い解釈ができる状態にしていた
ことです。
例えば、先ほど紹介した日韓条約の中身に、
「韓国を朝鮮半島唯一の合法政府であることを認める」
とありました。
韓国政府は、これを「韓国が朝鮮半島の唯一の合法の国家であると了解を得た」と捉えます。
それに対して日本は「韓国政府は北緯38度線以南において合法的に統治していることを認めた」
としています。
これは、北朝鮮との外交における両者の解釈の違いを意味しています。
具体化しましょう。もし日本が北朝鮮と何かしらで交渉を行ったりした場合、
韓国は「日韓基本条約では、合法政府と認めたのは韓国だけなのになぜ国と国の交渉を行うのか」
と反感を持つことになります。
これに対して日本は「北緯38度より北のことについては何も約束してないから問題はない」
という反論もあり得るわけです。
こうして、妥協点が見えにくい部分は、双方に解釈上の余地を与えて乗り越えたのです。
<ここがポイント>
日韓基本条約は、双方に解釈の余地がある形式で締結された
まとめ
本稿は、交渉が難航していた段階から、日韓基本条約の締結・条約の内容についてお伝えしました。
この日韓基本条約が起点となって、戦後の日韓関係は歩みが始まりました。
- 交渉の背景には国家間でどのようなやりとりがあったのか
- なぜ交渉は進展することになったのか
という事の因果関係をつかめたと思います。
ただ、現在の日韓関係を見てもわかるように、これで全て解決ということにはなりませんでした。
その後の動きについては、また稿を改めてお伝えできればと思います。
長くなりましたが以上です。ここまでお読みくださりありがとうございました!
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