現代につながる歴史
筆者はこれまで、拙稿「日韓条約をどう教えるか①『交渉の難航』」(URL:http://www.juku.st/info/entry/994)、
そして、「日韓条約をどう教えるか②『条約の締結』」(http://www.juku.st/info/entry/1015)において、戦後日本と韓国がどのような交渉過程を経て、日韓条約を締結したのかという事の指導法をお伝えしてきました。
本稿は、歴史を基にして「現代社会」を考える指導法の記事なので、簡単におさらいをします。
1945年8月15日、日本は連合国からのポツダム宣言に対して無条件降伏をし、ついに終戦を迎えます。
このポツダム宣言の中には、朝鮮を日本から切り離し、独立させるという中身が含まれていました。
日本は無条件で降伏をしていたので、韓国は1910年から36年に渡って続いていた植民地支配から解き放たれます。
しかし、戦後の世界情勢はアメリカを筆頭とする西側資本主義陣営とソ連を筆頭とする東側社会主義陣営との対立の中で1950年に朝鮮戦争が勃発します。
韓国を支援していたアメリカは今後も東アジアで資本主義の勢力を保ち続けるためには、日本と韓国の協力関係が重要であると判断し、関係改善に動き出しますが、交渉は難航し、中々進展しませんでした。
しかし、韓国国内でのクーデターに拠って朴正煕陸軍少尉が政権をとると、日韓関係は動き出します。
それぞれにとってメリットがあるような内容にして、1965年についに日韓基本条約が締結されます。
詳しい内容については上記のURLから、拙稿を確認していただきたいのですが、この条約をもってようやく戦後の日韓の国交が開始しました。
しかし、昨今で言えば「従軍慰安婦」の歴史認識の違いなど、今現在においても両国の間で摩擦が絶えないことが多々あります。
そうした点については、授業でも説明することが容易ではないのですが、やはり現代につながる問題であるからこそ、取り上げる必要があると思い、本稿では
現代に生きる生徒が「在日朝鮮人」について主体的に考えられるような授業の指導法をご紹介したいと思います。
教材の選定
まずは、現代につながる日韓の間で起こっている問題の何を取り上げるべきかという事からです。
戦後戦争責任、「従軍慰安婦」問題、領土問題、「在日韓国・朝鮮人」などその項目は様々で一度に全てを取り扱うことは出来ないのですが、本稿では、拙稿「日韓条約をどう教えるか」の内容を活かしてご紹介したいので、日韓条約と密接な関係のある「在日韓国・朝鮮人」について取り上げたいと思います。
本稿は日本史の授業でも使える内容なので、日本史の講師の方にもご参照いただければと思います。
戦後日本と韓国の国交関係の出発点となった日韓条約の内容をもう一度確認しましょう。
・「日韓併合条約」が失効していること
・韓国政府が朝鮮唯一の合法政府であることを認める
・日韓間の貿易の回復
・民間航空路の開設
・資金の供与
・「李ライン」を解消すること
・「在日韓国人」の法的地位の確定太字で示した部分からお分かり頂けるように、日韓条約において「在日韓国人」の法的地位を確定することが決められています。ここで、法的地位についての内容を盛り込むということはもともと法的地位が確定されていなかったということです。
それでは、何故法的地が認められていなかったのか。
それを考えるためにも「在日韓国(・朝鮮)人」とは何なのかという入り口から授業を始めていきましょう。
「在日」とは
さて、まずは講師の皆さんに考えていただきたいことがあります。
「在日」という言葉を聞いてその後にどのような言葉を連想するでしょうか?
これは実際に筆者が授業においても試してみたことが有るのですが、9割以上の生徒が「朝鮮人」という
返答をしました。
本来であれば、「在日」とは日本に在る(=いる)つまり、日本人以外で日本に住んでいる人という意味ですから、中国人であっても、アメリカ人であっても「在日◯◯人」というような言い方ができるはずですが、多くの場合「在日朝鮮人」「在日韓国人」と考えてしまう、考えられてしまっているのが現状です。
呼び方がこのような状況になっているのは実際の数も関係しています。
日本が太平洋戦争に敗北した1945年の8月の時点で、日本には約240万人の朝鮮人が暮らしていました。
これは同じ時期の朝鮮の人口の約10%にも達する割合です。
「在日韓国・朝鮮人」と呼ばれる人たちは戦時中に様々な理由によって日本に移り住んできた朝鮮人が
日本が敗戦した後も朝鮮に帰らずに残った朝鮮人とその子孫を指していう言葉です。
現代でも、在日朝鮮人の数は1999年の時点で、約63万6000人(外国人登録者数)と日本に多くの在日朝鮮人がいることがわかります。1910年の「韓国併合」によって、日本の朝鮮の植民地支配が始まった時には
日本に住んでいた朝鮮人は外交官、留学生など790人程度に過ぎませんでした。
それが、何故1945年8月には240万人という数字まで膨れ上がったのか歴史的経緯を見てみましょう。授業では以下の様な表を提示すると生徒も見やすくなると思います。
◯在日韓国・朝鮮人数の歴史的推移
<第Ⅰ期>(1910~1919)
・「土地調査事業」により、多数の農民が土地を失う。
・朝鮮人労働力の導入開始
・約3万人
<第Ⅱ期>(1920~1929)
・職を求めて日本に渡る朝鮮人の数が増加
・約30万人
<第Ⅲ期>(1930~1939)
・満州事変以降朝鮮人流入激増
・約80万人
<第Ⅳ期>(1940~1945)
・太平洋戦争に突入、強制連行開始
・約240万人に (徐京植『皇民化政策から指紋押捺まで』岩波ブックレット128より)
その流れを日本の植民地支配政策との関連で簡潔に示すと上記のようになります。
当初は、日本の土地調査事業によって土地を奪われ、職を失った朝鮮人が働き口を求めて日本にやってくる
という動きでしたが、敗戦が近くなると日本国内で日本の男性が戦場に多く動員されたため国内での人手が
不足し、日本政府が強制連行によって朝鮮人労働者を強引に集めたのです。
戦後、日本に残った「在日韓国・朝鮮人」はどのような境遇を生きたのでしょうか。
戦後の差別
1947年5月2日「外国人登録令」を公布・施行し、朝鮮人と台湾人は「外国人とみなす」という規定が設けられます。これによって旧植民地出身は「外国人」のカテゴリーに含まれます。
翌日5月3日に施行される日本国憲法は「国民はすべての基本的人権の・・・」という文言が在るため、基本的人権の保証は「日本国民」に限定されることになります。
さらに1952年のサンフランシスコ平和条約発効日に、日本政府は朝鮮人、台湾人については「国籍を持たない」という理由から日本人に適用した軍人恩給や遺族年給、弔慰金などの戦時補償法令を適用しませんでした
当時、こうした問題は日本だけでなく戦後の世界各国で問題となっていました。
戦後西ドイツは在留外国人に対しては国籍の選択権を与え、戦後の補償をドイツ国民とほぼ同じように行ったのに対し、日本は朝鮮人は「外国人」であるということから補償の対象外としていました。
同じ敗戦国ドイツと比較することで、日本の対応をより客観視することが出来ます。
まとめ
本稿では、生徒がこれまで何かしらで耳にしてきたけれど、実はその歴史的背景や歩みを詳しくは知らない「在日韓国・朝鮮人」について、日本の植民地支配や憲法とも関連づけながら指導法をご紹介してきました。
今現在、日本の若い世代は在日韓国・朝鮮人に対して自然に会話をし、親しくする場面も多く見られるなど、まだまだ解決していない問題もあるものの、戦時中や戦後間もない時期に比べ、個人レベルでの差別や偏見はだいぶ減ってきたと言われています。
それでは「在日韓国・朝鮮人」は戦後本稿で扱ったような差別から、いかにして冒頭で述べた日韓条約で法的地位を獲得するようになったのか、そして社会進出をするようになったのか、ということの指導法を次稿でお伝えしたいと思います。
本稿は以上です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!