「冷戦」とは
今から26年前の1989年11月9日、ドイツ「ベルリンの壁」が崩壊しました。
この崩壊は戦後長らく続いたアメリカを筆頭とする西側資本主義陣営とソ連を筆頭とする東側社会主義陣営による「冷戦」の終結を意味する歴史的な出来事でした。
この「ベルリン」の壁はドイツを東西に分断したものであり、(別稿で詳しくご紹介しますが、国境ではありません)東側から壁を越えて西側に逃げようとして射殺されてしまった人もおり、多くの犠牲を残した冷戦の負のシンボルであったため、この壁の崩壊に世界は注目しました。
「冷戦」を象徴していた「ベルリンの壁」ですが、「冷戦」そのものはドイツに限った話ではなく、戦後世界各国を取り巻いて続いていた長い長い戦いでした。
その長期に渡る戦いは直接的にも間接的にも、関係する国々に大きな影響を与えます。
例えば、日本の隣国朝鮮で1950年6月25日より始まった「朝鮮戦争」時には国内にいたアメリカ軍がほぼ全て韓国軍を応援しに出動してしまったため、日本国内は「軍事的空白地」となってしまいます。
当時、日本を間接統治していたアメリカは、この軍事的空白時期を狙い、日本に侵攻してくるこということを恐れ、戦後徹底的に解体していた軍を再編するよう動き出します。これが「再軍備」であり、後の「自衛隊」の発足につながります。(拙稿「自衛隊を考える①」URL:http://www.juku.st/info/entry/957)
あくまで日本の一例ですが、このように
世界各国を巻き込んで混乱を招いた「冷戦」とは何だったのかを生徒が授業後にしっかり説明できるような指導法を本稿でご紹介したいと思います。
冷戦はいつ始まったのか
まずは、「冷戦」そのものの言葉の意味について確認しておきましょう。
「冷戦」とは「冷たい戦争」の略語です。
これは軍隊同士が激しくぶつかる戦争を「熱い戦争」とした場合に対して、直接軍隊と軍隊が戦うというわけではないという意味で「冷戦」とされています。
しかし、実際に軍隊と軍隊がぶつからなかったのはアメリカとソ連だけであって、先述した朝鮮戦争然り、
アジアなどでは各地で代理戦争が繰り広げられてしまったということを、生徒たちに誤解が無いようにしっかり伝えましょう。
それでは、この「冷戦」はいつから始まったのでしょうか?
その点についてここから確認していきましょう。
「鉄のカーテン」
1946年3月、当時のイギリス首相チャーチルは世界が「冷戦」に向けて動き出している事を以下の様な有名な言葉で表現しました。
「バルト海の主徹点からアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中部ヨーロッパおよび東ヨーロッパの歴史ある国々の首都は、全てその向こうにある」これ以降、「鉄のカーテン」という言葉が用いられるようになります。
ソ連が自らの影響下に入れた東ヨーロッパの国々からの情報が遮断され、中で何が起こっているのか
わからないような状況を比喩してこの言葉で表現したのです。
もともと、アメリカ、イギリス、ソ連の3国は、第2次世界対戦では協力関係を結び戦っていたいわば「同志」でした。戦後体制については、3国で協力してヨーロッパの復興を進めようとしていたのです。
しかし、ソ連だけはアメリカ、イギリスと違う方向を向いて何か不穏なことをしている。そのような気味の悪さも込めての表現でした。
アメリカ・イギリス・ソ連の約束
先ほど「同志」ということについて少し触れたのですが、具体的にどのような関係を結んでいたのかという事
について見て行きましょう。
これは、戦時中1945年2月にソ連の黒海沿いで締結された「ヤルタ会談」が深く関わっています。
アメリカ(ルーズベルト)、イギリス(チャーチル)、ソ連(スターリン)との間で行われました。
すでに第2次世界大戦におけるドイツの敗北の見通しが立っていたため、この時の会談では、
戦後のヨーロッパについて意見交換をします。
この会談でルーズベルトは「解放ヨーロッパに関する宣言」というものを提案します。
その内容は戦後、敗戦する(であろう)ドイツの占領から開放されたヨーロッパ諸国において国民のすべてのグループを代表する暫定政権を作り、自由選挙を出来る限り早く実施して国民を代表する民主的な政府を作る
ことでした。そしてそのために3国で協力し合って行くということについて、3国間で合意に至ります。
ソ連の単独行動
しかし、戦後その蓋を開けてみるとソ連だけはヤルタ会談での約束を守りませんでした。
ドイツが解放した国々でソ連は「解放ヨーロッパ宣言」の通りに動かず、ソ連寄りの共産党政権を次々に
作っていきます。アメリカやイギリスからしてみれば、当然「話が違うじゃないか」という事になりますね。
具体的にはソ連が占領したポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアでは自由な選挙は実施されず
共産党員がソ連軍と行動を共にするような動きが出ます。
さらに、ユーゴスタビアとアルバニアでは共産党の主導する反ドイツ闘争の組織が政権を握るようになりました。これもソ連が主導したことによる結果です。
そして冒頭でも述べたように、1948年にソ連はドイツの西ベルリンを閉鎖します。
このように、ソ連のスターリンはソ連軍が占領下においていた国々を次々にソ連の影響下に組み入れます。
これをソ連の「衛星国」とする呼び方があります。
衛星国とは、地球の周りを回る衛星、例えば地球を中心として離れることなく回る月のように、ソ連という中心軸から離れることが出来なかった東側の国々に対して西側諸国が批判を込めた呼び方です。
東側の国々は、西側資本主義諸国との交流を断ち、出入国も自由にできない状態になりました。
まさに「鉄のカーテン」と呼ばれるにふさわしい状況です。
アメリカの「封じ込め政策」
さて、こうしたヤルタ会談での約束を守らないソ連に対してアメリカは当初戸惑いを見せていました。
その戸惑いはやがて、警戒や怒りへとシフトしていきます。
当時、モスクワ米国大使館に所属していた人物がアメリカ国務省へ送った1通の打電が、アメリカの政策を変えます。
その人物とは、ジョージ・ケナンです。彼は現地にいながら気づき考えたことなどを、現状報告も踏まえて以下のようなことを報告します。
<内容>
・ソ連との間で(約束を守らないなど)摩擦が続いているということについて
・ソ連には強行突破を企むような冒険主義的な面はなく、強力な抵抗にあえば後退するということ
・西側資本主義陣営諸国が強固な意思を持って反撃するべき
というような内容です。
何故ここでこれを取り上げたかというと、前述の通り、この電報によってアメリカは政策転換をするからです。
アメリカはそれまでは第2次世界大戦を共に戦ったソ連とは協調関係を築く方針を続けていました。
しかし、ケナンはアメリカがソ連に対していくら善意を示しても、ソ連が衛星国を拡張しようとする動きと
敵対する姿勢を変えないということから協調路線よりもソ連を「封じ込め」る政策に転換することを
主張したのです。
もし、ソ連がこれ以上西側諸国に対しても影響力を広げる姿勢を見せようものなら、断固たる対抗措置を行っていくということを求めます。
論文の形でもこのことを発表したため、国民にも大きな影響力を持ちいよいよアメリカの対ソ戦略が
決定しました。
まとめ
さて、本稿では「冷戦」の指導法としていよいよアメリカとソ連が対立していく戦後の世界体制が出来上がるまでの「冷戦開戦前夜」とでも言うべき歴史的背景の指導法をご紹介してきましたが、いかがだったでしょうか?
歴史の中身としてお伝えしたかったのは、「戦時」と「戦後」は一刀両断に区別する事はできないということです。ここでご紹介したヤルタ会談のように、第2次世界大戦終戦後の次の時代をどうするかというのは大戦中の当事国が深く関わっているからです。
「冷戦」は近現代日本史にとっても非常に重要な部分ですので、引き続きこの次の動きの部分の指導法もご紹介していきたいと思います。本稿は以上です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!