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【戦争を振り返る】 第2次世界大戦の歴史から学べる事③「終戦までの道のり」

高校生

2021/12/17

歴史との向き合い方

前記事「【戦争を振り返る】第2次世界大戦の歴史から学べること②「戦時中」」では、

  1. 総力戦体制へ
  2. 国民統制
  3. 国民(臣民)の本当の気持ち
  4. アメリカの準備

について、お伝えしました。

本稿では、

アジア・太平洋戦争において日本が敗戦に追い詰められるまでのプロセス

をわかりやすく解説します!

目次

1.本土攻撃はじまる
2.空襲激化
3.沖縄地上戦

1.本土攻撃はじまる

1942年4月18日、16機のB25爆撃機が東京上空で爆弾を投下し、東京への空襲がいよいよ始まります。

本格的に始まるのは1944年11月からだったので、その後しばらくは空襲がありませんでした。

アメリカ軍はのちのち本土攻撃を本格化するため、偵察する必要があったのです。

偵察

この時期のアメリカの動きをもう一度確認しましょう。

アメリカは日本が占領していたサイパン・テニアン・グアムを奪還し、3島で7つの飛行場を整備します。

この3島は、日本本土との往復が可能な距離にあり、本土空爆の際の拠点となりました。

中でもマリアナ基地には約1000機のB29を配備し、何度も日本への空襲を行います。

アメリカが空爆対象としていた本土の地域は、東京、川崎、横浜、大阪、名古屋、神戸の6都市でした。

何故この6都市を狙ったと思いますか?これは現代にも通ずるとても重要な部分です。

戦争ではあてずっぽうに爆弾を投下することはありません。都市を選ぶのにも必ず理由があります。

結論から述べると、これらの6都市にある軍需工場、軍事関係施設を破壊することが目的でした。

戦いに勝つためには、まず相手の武器を奪うことが必要です。

そのためにも、軍事関係の施設が集中している6都市を狙う必要があったのです。

しかし、戦局が進むと次第に住宅地の在る市街地にも攻撃を仕掛けるようになります。

労働者が多く住む住宅地を攻撃して労働力不足を招き、戦争意欲を失わせることがその目的でした。

これは絨毯を敷き詰めるように満遍なく攻撃することから「無差別じゅうたん攻撃」と呼ばれています。

絨毯

住宅地なども攻撃対象であったため、被害者は一般民衆にも多く及びました。

<ここがポイント>

 アメリカは、軍事が関係施設のある都市から空爆を開始した

2.空襲激化

1945年3月9日の深夜から10日未明にかけついにアメリカ軍による大型空襲が始まります。

これがいかに大規模な空襲であったか、数字で検証してみましょう。

東京上空に現れた戦闘機は約300機、東京の下町周辺一体に爆弾を投下します。

この爆撃により、約10万人が死亡し、罹災者は約100万人、家屋は27万戸が焼失しました。

tokyo

あまり知られていませんが、短い時間の攻撃でこれほどの民間人が亡くなったのは、

1945年8月6日、広島での原爆につぐ規模なのです。

さらに、爆撃は続きます。

1945年5月24日から25日の2日間。

今度は、渋谷区、新宿区、目黒区などの山の手一帯が大規模な爆撃を受け、山の手の市街地の約半分が焼失しました。

こうした攻撃が繰り返しなされ、終戦までに東京を襲った爆撃は約130回にも上りました。

もちろん、空爆は東京だけでなくその他に名古屋や大阪、浜松にも大規模に行われています。

全国で数えると、終戦までに約200市町村が空襲を受け、67都市が壊滅的なダメージを受けました。

B29を含む戦闘機の出撃回数は3万3千回、落とされた爆弾や焼夷弾の数は16万トンにも及び、

犠牲者はわかっているだけでも約60万人と言われています。

ただ、こうした爆撃対象から外れた地域もありました。

それが京都です。今でも第2次世界対戦よりはるか昔に作られた清水寺はそのまま残っていますよね。

京都にはこうした重要文化財が多く眠っているという理由から、爆撃の対象外になりました。
金閣
これは余談ですが、京都にとっての「戦時」とは「応仁の乱」のことを言うそうです。

<ここがポイント>

東京大空襲によって、関東一帯焼け野原となった

3.沖縄地上戦

アジア・太平洋戦争の歴史を学ぶ中で、必ず知っておかなければならないのが沖縄地上戦です。

この時の沖縄での地上戦は、現代に至るまでの基地問題につながっています。

では、アメリカ軍は沖縄にどのように攻撃を仕掛けたか、見て行きましょう。

1944年8月より沖縄では本土に先駆けて集団疎開が始まっていました。

この時、沖縄から本土へ集団疎開する学童を載せた「対馬丸」がアメリカ軍の潜水艦攻撃を受け、沈没するという悲劇が起こっています。

アメリカ軍はがすでに日本のすぐ近くの海で潜水艦攻撃が出来る状態になっていることを示す出来事でした。

翌年1945年3月26日沖縄本島西方の慶良間列島からアメリカ軍が上陸します。

ここから約3ヶ月に渡り、住民の日常の生活の場が戦場となって悲惨な闘いが繰り広げられます。

追い詰められた住民が「集団自決」を行ったり、ひめゆり学徒隊鉄血勤皇隊など多くの少年少女が戦争によって犠牲となってしまいました。

最終的に6月23日に摩文仁の丘で日本軍の牛島満司令官が自決するまで沖縄では組織的な抵抗が続きます。
(以下の写真が実際の摩文仁の丘です。)

摩文仁
その後、戦後にどのような影響を残したかについては、拙稿「なぜ沖縄に米軍基地が集中しているのか」をご参照ください。

<ここがポイント>

アジア・太平洋戦争末期、沖縄は本土上陸防衛の最前線に位置づけられ、大きな被害が生まれた

まとめ

本稿ではここまで第2次世界大戦末期、アメリカ軍が日本にいかにして壊滅的なダメージを与えたのか、また日本はそのダメージを被ったのかという点について説明しました。

本稿でも示したとおり、具体的な数字を追って規模をはかると、その大きさが具体的にわかってきます。

本稿は日本の被害面を中心に述べましたが、その中にも爆撃の対象と対象外があったこと、

米軍の地上戦によって、沖縄では少年少女にまでその被害が及んでいたことなど・・・

一言に「被害」とはくくれないことがお分かりいただけたと思います。

次稿は戦争の終結までを解説します。ここまで長文ご精読ありがとうございました!

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