70年前にあったこと
1945年8月、日本は第2次世界大戦の最終局面を迎えていました。
沖縄での地上戦も終わり、本土空襲も本格化し、いよいよ敗北を目前に控えていました。
前稿「第2次世界対戦の指導法『終戦への道のり』」でもご紹介した部分なのですが、簡単におさらいします。
日本が植民地支配をしていたサイパン、テニアン、グアムをアメリカ軍が奪還し、7つの飛行場から本土攻撃の下準備を整えました。
これらの島は戦闘機が往復可能な距離にあったため、1944年11月頃から本土空襲が本格化します。
初めのうちは、軍需関連施設の多い6都市への攻撃がメインでしたが、後に「無差別じゅうたん攻撃」により、その対象は住宅地、つまり一般民衆へも範囲が広がります。
労働者が多く住む住宅地を爆撃することで、労働力を不足させ、戦争継続を出来ないようにすることがその主な狙いでした。
同じ時期、沖縄では1945年3月から、アメリカ軍との地上戦が始まります。
日本にとってはアメリカ軍の犠牲者を少しでも多く出すことによって、降伏条件を有利にすること、来る本土攻撃に備える時間を少しでも稼ぐことがその目的でした。
沖縄は島をあげてアメリカ軍に徹底抗戦し、ひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊など若者に至るまで多くの犠牲が残ってしまいました。
今でも沖縄南部にある「平和祈念公園」に沖縄県民・日本軍・アメリカ軍の戦没者の名前が刻まれています。
ここまでが前稿まででご紹介した内容です。
本稿では、第2次世界大戦の最終局面、広島・長崎への原爆投下から日本が降伏をし、「終戦」という名の敗戦を迎えるまでの動きをいかに教えるか、1つ参考例を提示したいと思います。
本稿でも、上記の内容の指導を通して
生徒たちが70年前まで行われていた戦争を学ぶことで、歴史を今後にどうつなげていくかを考えられるような指導法をご紹介したいと思います。
原爆が作られた背景
1938年12月、ドイツがウランという、放射能を持つ金属元素の1つに核分裂反応を起こさせる実験に成功を
おさめます。これを知ったドイツから逃れていた科学者たちは、ウランの実験の成功をさらに発展させ、
「ドイツが原子爆弾に応用してしまうのではないか」という危惧を持ちました。
とてつもない破壊力を持つとされる原子爆弾の製造が成功してしまえば、すでに対立を深めていたドイツが有利になり戦局にも大きな影響が出るかもしれない、そのような可能性を含むほど衝撃的なものでした。
そこで当時からすでに名を馳せていたアインシュタインは当時の米国大統領ルーズベルトに対して「原子爆弾という武器の開発でドイツに遅れをとってはならない」という内容の書面を送ります。
戦局が不利になってしまうことだけは避けなければならないルーズベルトはこれに対して意見を同じくし、
1942年の8月より原爆開発に動き出します。これが「マンハッタン計画」と呼ばれるものです。
こうしてアメリカでは秘密裏に科学者を集め、原子爆弾開発実現へ向けて具体的な研究が始まります。
この研究結果がどうなったのかについては日本に住んでいる皆さんならお分かりのはずです。
生徒もおそらくこの原子爆弾について知らないという人は殆どいないと思いますが、原爆を投下したアメリカが原爆開発に急いだ背景にはこうした事情があった事を生徒にもしっかり理解してもらうようにしましょう。
原爆の完成、そして
この研究が「核爆弾」という形となったのは1945年の7月でした。広島・長崎に原爆が投下されるわずか1ヶ月少し前の出来事でした。
しかし、この実験に携わった研究者たちからは、この威力がどういう事態を引き起こすかは想像がついたので、日本に投下することは見送るようトルーマンに嘆願書を出していました。
しかし、ご存知の通りトルーマンは最終的に日本へ爆弾を投下する決定を下します。
そこには、日本が降伏する事への決定打を与えるという事よりさらに踏み込んで、戦後の世界体制において
ソ連よりも優位に立つことを原爆の威力によって示すためであったのです。
広島・長崎への原爆投下
ついに「やってきてはいけないその時」がやってきます。
1945年8月6日、先述したアメリカが日本から奪還したテニアンアメリカ軍基地から原子爆弾を積んだ戦闘機が広島をめがけて飛び立ちます。
そして、午前8時15分、高度約1万メートル上空から、原爆を投下します。
爆弾は広島市中区の上空600メートルで爆発します。エノラ・ゲイと呼ばれる爆弾です。
先述したように開発した科学者達が予想した通り、あるいはそれ以上のすさまじい威力でした。
爆発の威力を物語るものに、温度があげられます。
その爆弾爆発時の表面温度は約5000度と言われおり、爆心地に近い場所にいた人はあまりの高温に一瞬にして蒸発してしまったとされる写真が残っています。
この原始爆弾は放射能の影響により、即死を免れた人にも病という深い深い苦しみを残しました。
今も残されている原爆ドームはこの時の原子爆弾の存在を示すものとして、負の世界遺産として登録されています。
3日後の1945年8月9日、午前11時2分今度は長崎の上空約9000メートルから原子爆弾が投下されます。
場所は長崎市松山町の上空500メートル地点で爆発します。
これは我々大人にも意外と知られていないことなのですが、原子爆弾というのは落ちて爆発するのではなく、
上空で爆発します。その時の熱線、爆風により地上に大ダメージを与えるのです。
この時も多大な被害が出て、最終的に1950年12月までに即死の方も含め約14万人が亡くなりました。
3度目の原爆は起こり得た
戦後70年経った現代でも日本は世界で唯一の被爆国です。
しかし、実は3度めの原爆の投下が起こりかけたことがありました。
朝鮮戦争時にマッカーサーがトルーマンに対し、強敵の中国人民義勇軍を相手に原爆の使用許可を
求めていたのです。
しかし1945年に日本に2度落とした原爆によりあまりにその負の影響が大きすぎる事から、
アメリカのみならず世界全体が「原子爆弾を用いることには慎重になるべきである」と捉えていました。
そうした背景もあり、最終的にはトルーマンがマッカーサーを解任してでも使わないという選択をしていたのです。
さて、ここまで事実を伝えた上で戦後70年が経ち、今後主権者となって日本を動かしていく高校生は、
今も核爆弾が存在する国際情勢の中で唯一の被爆国である日本はどうあるべきだと考えるでしょうか。
歴史を学ぶ上で最も重要なのはこの現代に向けられた問いを考えることです。
生徒は、講師による発言だけでなく、生徒同士の発言でも大きな学習効果をもたらすものです。
皆さんも学生時代のご経験が在るかもしれませんが、同年代の仲間が授業を受けてどう考えているかを
知るのは、自分にはなかった視点を得られるなど良い意味で刺激になるのです。
次時の導入の部分でも「前回皆からこのような意見をもらいました」と提示する教材にもなりうるので、
リアクションペーパーで生徒の反応を聞いてみても良いかもしれませんね。
終戦へ
話を戻します。
アメリカをはじめとする連合国は原爆を落とす前からすでに戦後体制について議論を交わしていました。
第1回目がヤルタ会談です。
こちらはドイツの敗北の見通したが立った事で行われたアメリカ・イギリス・ソ連による戦後のヨーロッパ体制についての会談でした。この会談の内容については良ければ拙稿「冷戦をどう教えるか①」(URL:http://www.juku.st/info/entry/1023)をご参照ください。
そして第2回目がドイツのポツダムで行われたポツダム会談です。
日本が沖縄の地上戦に敗れていよいよ敗色濃厚となり再びアメリカ、ソ連、イギリスの間でドイツの戦後処理とともに日本の降伏を求める協議が行われます。
この会談に基づいて、1945年7月26日、ポツダム宣言が発せられます。
日本の無条件降伏、連合国による戦後の日本占領、戦争犯罪人の責任追及、日本の民主主義化などが内容に含まれていました。
この宣言を日本は無視してしまったため、それから間もなく上記の広島・長崎に原爆が落とされてしまいます。宣言を無視したからといって、原爆のようなものを落として良いとは決して思いませんが、この時の日本
の対応次第では原爆を回避することが出来たかもしれないのです。
まとめ
以上で第2次世界大戦開戦前夜から終戦に至るまでの指導法をシリーズでご紹介
させていただきました。
講師の方向けの記事なので、目標にも述べたとおり、
「生徒たちが70年前まで行われていた戦争を学ぶことで、歴史を今後にどうつなげていくか」を考えるためにはいかに教えたらよいかという点を意識してお伝えしてきました。
戦後70年を迎える今、どんどん遠い昔になっていく戦争にどう向き合っていくべきか、
生徒たちだけでなくそれを教える我々講師も考えていかなければならない問いですよね。
本稿ではこうした思いから講師の方にも考えてもらえるよう4稿執筆してまいりました。
長くなってしまいましたが、シリーズは以上です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!