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朝鮮戦争の指導法①「対立の背景」

高校生

2021/12/17

朝鮮の分断

第2次世界大戦後、日本の約36年における植民地支配を脱した朝鮮半島は今度はアメリカとソ連の対立による南北の分断が起こります。
朝鮮半島は現在でも北緯38度線を境界線として北緯38度線以南を大韓民国、以北を朝鮮民主主義人民共和国(以下「北朝鮮」)に分かれています。

朝鮮
この北緯38度の境界線のことを「軍事境界線」と呼ぶのですが、その境界線の南北2キロずつは非武装地域になっており、一般民衆の出入りが禁止されているため人の手が入っていない、それこそまさに「自然」の状態になっています。

もちろん、この緩衝地帯の役割を果たす非武装地帯の外側には鉄条網が張り巡らされており緊張状態は今現在でも続いているのです。

筆者は大学時代に留学した経験があります。そこで出会った韓国人は兵役義務による3年の徴兵を終えたばかりだと話していました。韓国では成人男性に対し、一定期間は軍隊に所属し国防の義務を遂行する「兵役」義務が課されています。これは現在でも北朝鮮と韓国の軍事的緊張があり、国防のために成人男性が一定期間兵役につかなければならないという社会背景が在ることを如実に物語っています。

昨今は国家間の摩擦が耐えない日韓関係ですが、今後互いのことをより深く理解していくためにも1950年代に朝鮮で起こったことを生徒が学習するのは大事な事なのです。
以上のような問題意識から、本稿では生徒たちが
朝鮮を南北に分断した「朝鮮戦争」とは何だったのかを授業後にしっかり説明できるような指導法をご紹介します。
※本稿でもアメリカとソ連による「冷戦」の対立軸が出てくるのですが、その背景につきましては良ければ拙稿「冷戦をどう教えるか①『開戦前夜』」(URL:http://www.juku.st/info/entry/1023)を参照いただけたら幸いです。

対立の背景

1945年8月15日、日本が連合国によるポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏することによって第2次世界大戦の終戦を迎えます。
このポツダム宣言には日本が植民地支配をしていた朝鮮半島を解放するという内容も含まれていました。日本はこの宣言を「無条件」で受け入れていたため、当然この条件も飲むことになっていました。

サイン

しかし、日本が武装解除した後の朝鮮を、今度は連合国が占領をします。
その先駆けとなったのが、朝鮮半島の北側から南下してきたソ連でした。
かなりのペースで北朝鮮側から乗り込み、その影響力を伸ばしていったため、アメリカはこれを見て焦ります。なぜなら、朝鮮半島全てがソ連の影響下に入ってしまうと、戦後の世界体制において東アジアで大きな影響力を持てなくなってしまうことを恐れたからです。
そこでアメリカは対抗して南側からアメリカ軍を投入し、北上を目指します。

結局、この段階では最終的にソ連との交渉の場を持ち、北緯38度を境界線としてその南をアメリカ、北をソ連の軍隊が分割占領することを提案し、ソ連もこれを受け入れ南北の分断がなされました。

朝鮮戦争も今やすでに約65年前の出来事になっており、生徒たちは朝鮮半島の内乱による結果韓国と北朝鮮に分裂してしまったと思っている子も多くなっています。
朝鮮半島の内乱も見方によってはそう言えないこともないのですが、この戦争の背景には当時の世界情勢=「冷戦」の波が押し寄せていたのだということを今一度しっかり確認するように指導しましょう。

韓国と北朝鮮の誕生

もともと、日本、ドイツ、イタリアとの戦争に勝利した連合軍は、戦後朝鮮半島をアメリカ、ソ連、中国、イギリス4カ国によって、朝鮮に独立政権が誕生するまでの間統治することを計画していました。
約束

しかし、戦時中に戦後体制についての話し合いの場で(ヤルタ会談、ポツダム会談)戦後体制について約束していた事を破るなど、戦後ソ連は違う方向を向いて「鉄のカーテン」を降ろすなどアメリカとソ連の対立は深まっていました。
この点については良ければ拙稿「冷戦をどう教えるか①『開戦前夜』」(URL:http://www.juku.st/info/entry/1023)をご参照ください。
そのため、この計画においてもアメリカとソ連の意見はまとまらず、話し合いは国際連合に持ち込まれました。

この話し合いの場で国連は南北で総選挙を実施し、統一政府を樹立する決定を下しました。
南北統一の可能性が残されていたのですが、これにソ連は反対を表明し、最終的には総選挙が出来るところに限って選挙を実施しようということで決定がなされます。

投票

総選挙を先に行ったのは、現在の韓国側でした。
総選挙によって選ばれた国会議員によって、大統領を李承晩に選出します。
その後、第2次世界大戦の終戦からちょうど3年後の1948年8月15日に大韓民国の成立を宣言します。

北朝鮮はというと、1946年1月人民委員会の選挙が行われます。
現在でもそうですが、北朝鮮は一応選挙によって政治家を選んでいます。
とは言っても各選挙区の候補者はたった1人だけ。
支持するか支持しないかだけを監視されている中で記入し、投票するという形式です。もちろん「支持しない」など選べない状況の中での選挙です。
ですがそれでも形の上では行われた選挙で、翌月2月8日ソ連軍で大尉も務めた金日成を北朝鮮のトップとして、北朝鮮臨時人民委員会が作られます。これが事実上の政権とされています。
そしてこの政権を基に大韓民国成立の翌月1948年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国が成立します。

南北の分断が国家の誕生によって決定的になった瞬間でした。
こうして異なる2つの軸を持つ国が2つ出来上がり、社会主義の北朝鮮を避けたい人は南側韓国へ、そして社会主義に憧れる人は北朝鮮へと渡る現象が起きます。

開戦

さて、ここまで説明した上で朝鮮戦争は一体どのようにして同じ民族が殺戮し合うようにまで発展してしまったのかを確認しましょう。
本稿ではその入口を確認します。

戦争が始まったのは上記の2つの国家が誕生してから2年後の1950年6月25日の事でした。
この日の明け方午前4時に北朝鮮軍が突如38度線で銃撃を開始し、その30分後には越境して韓国軍を
激しく攻撃しました。これをもって朝鮮戦争の火蓋が切られます。
それまでも韓国軍と北朝鮮軍による小さな衝突は何度かあり、大規模化していなかったため、韓国政府は今回の件もその小さな衝突の1つであると誤認してしまいました。

さらに、農業の収穫期であったためこの時期農業を営む家の兵士たちは農作業を行うために週末の休暇を用いて実家に帰っていました。開戦日の6月25日というのは日曜日だったのです。

農業
こうした要素が重なり、韓国側はその後展開する全面戦争の準備が遅れてしまいます。
一方の北朝鮮は戦後38度線以北を統治していたソ連軍の残した戦車を用いて進撃に成功します。戦争開始わずか3日後には首都のソウルを北朝鮮が占領するほどでした。

この状況を見たアメリカ大統領トルーマンはすぐさま韓国側に米軍を派遣します。
この時、日本に駐在していた約7万5000人の米軍兵士を朝鮮半島に派遣します。ここからいよいよ朝鮮全土を舞台とした激しい戦闘が繰り広げられることになるのです。

まとめ

本稿では、戦後の朝鮮半島に日本が直民視支配を終えた後に南下したソ連による支配を入り口として
それがその後の朝鮮戦争にどう発展していったのかの流れを詳しく説明する方法をご紹介いたしました。

最後の朝鮮戦争の勃発後に「日本に駐在していた約7万5000人の米軍兵士が・・・」という部分を強調したのは、この朝鮮戦争によって日本に駐在していた米軍がほぼ全ていなくなり、軍事的空白地になったことによって後の自衛隊となる警察予備隊が発足していたからです。

本シリーズで後々に詳しくご紹介していきますが、地理的な要因や戦時の歴史もあり、日本は隣国の不幸によって、こうした治安部隊が発足するなど政治的にも経済的にも様々な動きが起こります。
現代史に限らないことですが、このように日本史を教える際には世界史的な枠組みの中で日本史をどう位置づけるか、という点についても触れつつ指導をしていただけたら生徒の理解もより深まると思います。
本稿は以上です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!

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