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アリストテレスが考えたこと【倫理の偉人たち】

高校生

2021/12/17

倫理を学ぶ意義とは

倫理という科目は実にマイナーで、積極的に学ばれる科目ではありません。出題するところはセンター試験と一部の私立だけですし、比重もそんなに高くない。正直な話、倫理の単語集を見て、その字面をなんとなく覚えるだけでセンターの得点は80点を超えたりすることもあります。

そんな倫理ではありますが、塾講師という立場にたてば、倫理を教えなければならない場面があります。それは、生徒が倫理を教えて欲しいと言ってきたとき、あるいは倫理に関する質問をしたときです。

しかし、倫理を学ぶ意義は、入試に合格するためだけではありません。倫理に登場してくる哲学者や思想家は、思考のベースを提供してくれる偉人たちであり、その考えを理解するだけで数学や国語に応用できることも少なくはないのです。

何より、日常生活を豊かにしてくれます。今、あなたの目の前にあるパソコンあるいは携帯電話が今後社会にどんな影響をもたらすのか、それを考えさせるものでもあるのです。

倫理(あるいは哲学)を知ってほしいという思いでこの記事を書きました。この記事は、倫理によく登場してくる偉人たちを取り上げ、彼らがどのような思想を持っていたのかをより深く理解するために書かれています。

前回は、ソクラテスについてご紹介しました。

参照:(ソクラテスが考えたこと【倫理の偉人たち】http://www.juku.st/info/entry/1137)

それもふまえて読んでいただくと、本記事で取り上げるアリストテレスについての理解が深まるでしょう!

 

アリストテレスという人

ギリシャの哲学者の中でも最も偉大と言われる人物でもあるアリストテレス。確かに彼はすごいんですよ。万学の祖って呼ばれるぐらいに、あらゆる学問を打ち立てています。例えば、天文学、生物学、政治学、論理学、形而上学...小難しいことをたくさんやっていらっしゃる。しかも文理両方対応できるって時点でもうすごいですね。

アリストテレスが実際に現代に生きているとしたら、イメージとしてはずっと図書館にこもって、色んな難しい本を読んでいるようなイメージでしょうか。山川の倫理用語集曰く、「17歳からアカデメイアに入り、20年間研究を続けた」とあるぐらいですから...まぁ高校2年生が研究してるって感じでしょうか。恐れを抱いてしまうほどの頭の良さですね。

 

イデア論を批判する

アリストテレスもまたプラトンの弟子の一人ですから、プラトンのイデア論についてはよく知っていました。イデア論とは、この世の中にあるあらゆるものの存在には理想の形というのがあり、それはすべてイデア界にあるというものです。

しかしアリストテレスは、そんなイデア論を批判します。しかも批判がひとつじゃないというのがえぐいです。

美しいと醜い

よく言われるのは美しいと醜いの対比です。もしイデア界に「美しい」のイデアが存在するのであれば、「醜い」のイデアが存在するはずです。けれども、例えば、この現象界にある目の前の汚物をとりあげたとすれば、それは美しいのイデアに欠けているから醜いというのか、あるいは醜いのイデアがあるからこそ醜いであるのか、どちらの立場を取ればいいのかわからなくなります。(ここでのポイントは、人が想起を起こす場合、その性質が「あるかないか」の二択でしか考えないことを前提としているということです)

そもそもイデアいらなくないか?

「アリストテレスさん、さすがにそれはひどくないですか」という感さえある批判なのですが、至極ごもっともです。もしイデア論というのを誰かが言い出したら、「イデアはどうやって存在を証明するんですか?」という疑問が浮かびませんか?この世界とは別に、イデア界があるだとか、そこに善のイデアがあるだとか、どうやってそんなのわかるのか、というツッコミです。だからアリストテレスはイデア論という考え方を用いず、この現実世界において完結する形で、あらゆるものの性質・存在を説明しようとしたのです。

なんか複雑になってきてない!?
そういえばソクラテスってもともと「人のあるべき姿」について議論していたはずなのですが、プラトンがイデア論という話を持ち出してきてから、すこし話がこじれてきていますね。プラトンは「人のあるべき姿」を説明するためにイデア論を持ちだしたのですが、その話が「世界の構造」の話になってきています。そしてこの流れをアリストテレスが継承する形になってきています。ちなみにこの「世界の構造」の話を自然観と呼びます。
 

彼の考える自然観

それではアリストテレスはこの世界をどのように捉えたのでしょうか。少しややこしくなるのですが、ソクラテスはこの世界は4つの要素について出来上がっていると説明します。質料、形相、動因、目的です。

質料・・・材料のこと(原子にたとえます)

形相・・・形のこと(構造にたとえます)

動因・・・材料に及ぼす力のこと(熱にたとえます)

まずはこの3つで説明しましょう。この世界の存在はすべてこの3つで出来上がっているというのです。例えば水という存在があるわけですが、それは水素のHの原子2つとOの原子1つによって成り立っています。この「成り立ち」がすなわち形相であり、各々の原子が質料と思っておいてください。そしてこれらに、化学反応だとか熱だとかの力(これを動因といいます)を加えたら、水素が発生したりするわけです。

木という質料に対して、机の形相を加えたら実際に机が完成するわけですし、あるいは椅子という形相を加えたら椅子が完成します。もちろん木が机や椅子になるまでの過程に、木を切るだとか組み立てるだとかそういった動因が存在するわけです。そして、誰かがそれを求めるということが、目的として存在するわけです。つまり、その形が望まれるということですね。

ちなみに実際に完成する前の机の概念を可能態といい、実際に完成した机を現実態と呼びます。

 

この考え方は単なる物質にしか適用できなさそうですが、これは人間にも、世界にも適用することができます。

人間に適用した場合

質料・・・身体

形相・・・霊魂

動因・・・あらゆる身体の機能

物質の場合だと、動因は外部からもたらされています。椅子や机をつくろうとするときは、机という形相が自ら机になるわけではなく、人間がそれを達成してくれます。しかし人間の場合は、霊魂という形相が、身体を動かし、形作ろうとする動因を自ら生成することが可能というのです。

ちなみに、アリストテレスは人間には感覚能力・思考能力があるというのですが、それは「形相を認識できる力」というのです。個人的にはけっこうなるほど、と思いました。人間が机や椅子をつくろうとしたときは、目の前には机や椅子というのは存在しません。しかしその形相を認識し、それを達成するために質料に動因を働かせることができる能力というのが、感覚能力・思考能力だというのです。

世界に適用した場合

質料・・・全ての物質(水そのもの)

形相・・・全ての物質の未来(水から見た水蒸気、など)

動因・・・世界における因果関係

これがまた壮大なのですが、この世界はひとつの生物のように動きます。つまり、世界が内に秘めた質料と形相を使って、何かしらの運動を起こすのですが、それは世界が何かの目的を持って動いているというのです。少し壮大な話をしましょう。

 

138億年前に宇宙が生まれました。そしてそこから何かしらの作用が働き、46億年前に地球が誕生、そして6500万年前に霊長類が誕生し、10万年前にホモ・サピエンスが広がり、そして今があります。なんか不思議じゃないですか?宇宙の誕生から、今に至るまで、ある意味全てに因果関係があるのです。そしてその大部分は、誰の意思も働かずに、自動的に動いてきたものです。

 

宇宙誕生から今に至るまでの因果関係。なんか運命というか、神秘的なものを感じませんか?アリストテレスはこの動き、この自動的な流れを一つの動因とみなしたのです。つまり、世界の因果関係そのものですね。そしてその世界の因果関係において、私たち人間や、地球、太陽、銀河、あらゆる質料や形相がうごめき、世界はどこかに向かっているというのです。

この自然観を、目的論的自然観をいいます。世界そのものがある目的を持っており、それに従って世界が動いていくという感じですね。 

ところで、これを卑近な例にしますと、1つのボールを他のボールにぶつけると、そのボールが動いて他のボールにぶつかるといった動きになるわけです。因果関係ってそんなものです。結果には何かしらの原因があるわけですが、その原因が生まれるのにも、何かしらの原因があるわけなのですから。

そうなると、この世界には「はじまり」が必要になります。世界の因果関係のはじまり、ボールを突くステッキ、それは一体何だ?ということです。

アリストテレスはそれを”神”だとしました。あらゆる因果関係の始まりだというのです。

 

彼の考える善

さて、先程までは壮大な自然観を語ってきたわけですが、ソクラテスが立てた問いについてはアリストテレスはどのように答えたのでしょうか。

ソクラテス曰く、善とは幸福のことだと言います。そして幸福とは、中庸であるといいます。そして中庸のためには、知ることと習慣が大切だといいます。

善とは幸福のことだという理屈はけっこう単純です。人は本来あるべき姿になろうと目指します。ということは、その姿を達成されたら何の変化も起こらなくなるんですよね。常にその状態を維持しようとします。では皆さん、もし自分が幸福な状態にあったとしたら、そこから変化を求めようとしますか?たぶんしないと思うんですね。それ以上の変化がない状態、それはすなわち幸福なのだから、善とは幸福だというのです。

じゃあ幸福を達成するためにはどうしたらいいのか?

今度は中庸が必要だといいます。無謀と臆病の間が勇気であるように、すべては程々が良いというのです。ただし勘違いしてはならないのは、その性質の尺度が0〜100あったとしたら、50を目指すべきだ、というわけではありません。あくまで「適切な具合」が良いというのがアリストテレスの主張です。つまり自分を「適切な」性質に持ち込めば、だいたい幸せになれるというのです。

さて、全てほどほどにすることが大切ということですが、そのためにはソクラテスの言う「知る」だけでは足りないというのです。人は本来どうあるべきか、中庸の基準というのを知るだけでは、どうしてもそれを達成することはできない。お酒を飲みたいだとかカフェインをとりたいだとか。そんな欲望は、あるわけです。

本当なら、自分の健康のためにはそれらに手出しをしない(しすぎない)ほうがいいと「知って」はいるのですが、我慢できないことだってあるのです。アリストテレスはこの我慢、つまり習慣が大切だといいます。ちなみにあるべき姿を知っていることを知性的徳といい、それを習慣づけることを習性的徳といいます。

 

アリストテレスの何がすごいのか

実はアリストテレスのすごさを紹介するのは少しむずかしいのですが...

あえて言うならば、世界の根本を見つけようとしたこと、世界を体系づけようとしたことでしょうか。質料だとか形相だとかの説明がありましたが、あれはひとつの物質の話に限定されたものではなく、人間にも、世界にも適用できる原理の仮説と言えます。

アリストテレスはこのように、何にでも使える原理を編み出そうとした点にといて優れていると言えます。特に論理学。数学であっても物理であっても文学であっても、全ての学問において論理は必要です。そしてその論理を学問として取り上げたのが、アリストテレスです。

人間の善のみならず、世界の根本・原理について探求しようとし始めたアリストテレス

彼がいなければ、”哲学”という領域は生まれなかったでしょう。 

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