中国と台湾
前稿「日本と台湾はなぜ友好関係?②~第2次世界大戦直後の台湾~」
(URL: http://www.juku.st/info/entry/1149 )では、中国大陸から台湾に移動した中国国民党の「外省人」と日本の植民地支配の時代から台湾に住んでいた「本省人」の間でいかにして摩擦が生まれたかをわかりやすく指導する方法をご紹介しました。本稿にも繋がる内容なので簡単におさらいをします。
第2次世界大戦が日本の敗戦によって終了し、台湾は下関条約以来50年に及ぶ植民地支配から解放されることになりました。一度は中国に戻れることに対して歓喜する台湾住民でしたが、日本が去って、中国大陸からやって来た役人や軍隊に失望します。
蛇口をひねると流れる水や、デパートでのエレベーターなど台湾にとってはもはや常識となっていたものに1つ1つ驚いていることや、役人の行う腐敗しきった賄賂政治に呆れたからです。
日本が去って行って、中国大陸からやって来る国民党がやって来たことを「走了狗来了豚」(狗が去って豚が来た)というレトリックを用いて批判します。
一方、中国大陸内では戦後国共内戦が再開されていました。国民党は、大陸での戦いを支援するため、台湾から生活必需品や物資を強制的に買い上げて大陸に送りつけます。この時紙幣も増刷したため、台湾島内は物資不足とインフレーションが起こります。徐々に台湾の「本省人」は中国大陸からやってきた国民党の「外省人」に対して不満が募ります。
ここまでが前稿でご紹介した指導法の内容部分です。
この後、1949年に中国大陸では毛沢東が中華人民共和国成立を宣言し、中華民国としてあり続ける台湾と違う道を歩むことになります。
本稿では、この流れを丁寧に追い、引き続き、
日本と台湾が何故現在のような関係に至ったのか
を生徒がしっかり理解できる指導方法をご紹介します。
ニ・二八事件
「本省人」と「外省人」
さて、本稿でも中国国民党の影響力が及ぶ台湾の中での対立の構造を見ていくので、もう一度その中身について確認します。
戦後中国国内の国共内戦で、蒋介石率いる国民党はすでに政党としての中身が腐敗していたため国民から全く支持を得られませんでした。
支持基盤がないことで戦局は不利に進み、中国共産党との戦いでは連戦連敗を繰り返します。
こうした背景があって、最終的にその時点で唯一国民党の影響下にあった台湾に幹部や兵士の家族を含めた約200万人と共に台湾へ移動します。
このように中国大陸から台湾に逃れてきた国民党関係者を「外省人」と言います。
また、それ以前、戦前からすでに台湾にずっといた住民は「本省人」と呼んで区別されています。
比率にして「外省人」:「本省人」=16%:83%ほどの数の違いがあるにもかかわらず、台湾は中国大陸からの「外省人」が支配をしました。
本稿で度々台湾住民が中国国民党政府に不満を持ったというのは、言い換えれば「本省人」が「外省人」に対して持った不満という意味です。
このような不満が募っている中、ついにその思いが暴動へ発展する事件が起こります。
1947年の2月27日にヤミタバコという、非正規ルートを経由してタバコを売る女性を大陸からやってきた「外省人」の役人が取り締まる中で、銃で頭を殴りつけました。
この様子を見ていた通りがかりの男性3人はこの「外省人」の役人の暴挙に対して、強い嫌悪感を示し、取り囲みます。前稿でも扱いましたが、「外省人」は戦後台湾に入り込んできてから賄賂を横行させていたのに、
「ちょっとした非合法のものにこのような暴挙を働くのは何事か」という怒りがあったのでしょう。
島をあげての大暴動へ
取り囲まれた役人は取締官であったため、持っていた拳銃をその場で乱射しました。
この時の銃弾があたり、最終的に取り囲んだ男性の1人と殴られた女性は死亡します。
この事件を知った台湾の「本省人」は、対する大規模な抵抗運動を行うことを決定し、
台湾島内エリア全域で住民暴動に出ます。これが27日の事件の翌日に行われたため、「ニ・二八事件」と言います。
これまでの鬱憤を晴らすかのように、台湾の「本省人」が「外省人」の支配者を立て続けに襲撃しました。
さて、ここで1つ重要な事があります。この時、同じ民族であるにも関わらず「本省人」は「外省人」を識別することが出来ました。つまり、味方を攻撃しないように区別できたのです。
どのようにして見分けることが出来たと思いますか?
授業でも実際に生徒に問いかけていただきたい部分です。
これは、日本の植民地支配が深く関わっています。ここまでお伝えした授業内容を総動員して考えさせてみましょう。
実は、「本省人」であることを証明するのに使われた手段は日本語を話すことでした。
本シリーズ第1弾「日本と台湾はなぜ友好関係?①~日本と中国と台湾の歴史から~」
(URL: http://www.juku.st/info/entry/1143 )もご確認頂きたいのですが、日本は台湾の植民地時代に徹底した日本語教育を行っており、今でも高齢者の方で流暢な日本語が話せるという事をお伝えしました。
日本は中国大陸は植民地支配をしていませんし、まして日本語教育もまったく行っていなかったので大陸からの「外省人」がこれを使えるはずがありません。
よって、相手が「外省人」なのか「本省人」なのか区別がつきづらい際には、日本語を話せるかどうかでお互いを確認し合いました。言語というパスワードを「本省人」は持っていたのです。
あくまで一面ですが、日本が戦後も間接的に影響力を持っていたことがお分かり頂けたと思います。
中国国民党の対応
さて、このような状況を見た国民党政府は対策に迫られます。
この時、行政上の最高権力を持っていた陳儀という行政長官は、「本省人」の代表格の人物らと「交渉」の場を設けます。
「交渉」というと事態改善に向けた取り組みのような聞こえですが、実際はこの「交渉」は中国大陸から軍隊を呼び寄せるまでの間の時間稼ぎでした。
事件発生から8日後の3月8日、中国大陸から軍隊が到着し、暴動鎮圧に動き出します。
しかし、それは「暴動鎮圧」という名の「虐殺」でした。
陳儀と交渉をしていた「本省人」の代表者たち、そして島内の暴動を起こした人たちも含めわかっているだけで2万8000人が犠牲になりました。先ほど、お互いの確認に日本語を使っていたと述べました。
そして、ニ・二八事件はこのような本省人たちが中心となって動いていたため、軍隊による虐殺で大勢亡くなってしまいました。
まとめ~指導のポイントと日台への影響~
本稿では、戦後台湾内での動きを追うことで、その後にどう影響を与えたか説明してきました。
最後に指導のポイントと日台関係への影響を述べて本稿の締めとします。
テーマ:ニ・二八事件とその後の影響
◯台湾「本省人」の不満が行動へ
(1)「本省人」と「外省人」の違いについて
(2)1947年2月27日に起こったこと
(3)ニ・ニ八事件勃発ー敵をどう見抜いたか
(4)中国国民党の反撃
というポイントを抑えることができれば、生徒はしっかり因果関係をつかむことが出来ると思います。
しかし、本シリーズのタイトル「日本と台湾はなぜ友好関係?」の中で何故この「二・二八事件」を扱ったのか最後に言及します。
前稿でお伝えした通り、台湾の本省人は、戦後新たな支配者としてやってきた中国国民党の外省人は賄賂など自らの私腹を肥やす行いにうんざりします。
そしてついに暴動を起こし、逆に虐殺を受けました。同胞であるはずの中国国民党からの大変な目にあったために、日本の植民地時代の強権政治などの被害面は薄れ、相対的に「日本は産業発展の基盤である社会資本を残した」という意識が強くなったという面があるのです。
日本と台湾と中国、近代以降はこの3つはそれぞれ何かしらの関係性が在るということ、そしてそれは現在にもつながっていることであるという理由から本稿でご紹介させていただきました。
本稿は以上です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!