2手にわかれた台湾と中国
前記事「日本と台湾はなぜ友好関係③~二・二八事件の意義~」
(URL:http://www.juku.st/info/entry/1150 )では、本省人が外省人に対して抱いていた不満を爆発させる「ニ・二八事件」がいかにして起こったのか。そして、それはどのような意義があるのかという部分の指導法をご紹介しました。簡単におさらいをします。
1947年2月27日、ヤミタバコを販売していた女性を外省人である取締官が銃で殴りつけました。
この様子を見た通りがかりの男性3人は抗議の意思を込めてこの取締官を取り囲みます。
取締官はこれに対して、持っていた銃を乱射するという形で対応しました。
その内の1発があたり致命傷になった男性、そして殴りつけられた女性は死亡。翌日、この強圧的なやり方に抗議する暴動が台湾全島で起こります。これが有名な「ニ・二八事件」です。
支配をしていた中国国民党は、大陸から軍隊を呼んで到着するまで「交渉」という名の時間稼ぎをし、準備が整い次第約2万8000人を超える本省人を虐殺しました。今現在でも台湾で語り継がれる忌まわしい事件となりました。
上記の内容面に加えて、日本の現在との関係についても言及いたしました。
本稿では、1949年に中国大陸で毛沢東が中華人民共和国の独立を宣言してから2手にわかれた両者の動きを丁寧に追うことで、引き続き
日本と台湾がなぜ現在のような関係になったのか
を生徒がしっかり理解できる指導方法をご紹介します。
中華人民共和国成立後
国共内戦、決着
第2次世界大戦中、日本という共通の敵が現れたことで手を結ぶことになった中国国民党と中国共産党(国共合作)は、終戦後、再び中国国内での利権を巡って戦闘の火蓋を切ります。
しかし、本シリーズでも述べてきたように、国民党はもはや中国大陸の民衆の指示を得られないまでに、腐敗していました。そのため、蒋介石は唯一国民党の影響下にあった台湾へ移動した、という事でしたね。
こうした背景があり、中国大陸での国共内戦は共産党の勝利という形で決着が付きました。
勝利した共産党は1949年10月1日に中華人民共和国の成立を宣言します。
つまりこの10月1日を以って、正式に中国大陸の中華人民共和国と台湾島の中華民国という構図が出来上がったのです。別の言い方をするとしたら、中華民国の支配範囲が台湾のみになったということです。
しかし、中華人民共和国は当然台湾も「中華民国」から解放されていない中華人民共和国の1部とであると考えていたため、台湾も中華人民共和国の一部として「解放」させたい思惑がありました。(今でもそうです)周到な準備ができ次第、武力を用いてでも台湾の住民を中華民国から「解放」しようとしていたのです。
なぜ台湾は軍事攻撃を受けなかったか
しかし、実際には中国は台湾への軍事投入はしませんでした。当時の国際的な社会情勢から出来なかったと言う方が正確かもしれません。ここは生徒に、この時代の東アジア情勢を踏まえて考えさせてみましょう。
中国はこれほど「解放」に意気込んでいたにも関わらず、なぜ軍事投入しなかったのでしょうか?
先ほど中華人民共和国が成立したのが1949年10月1日と説明しました。
この翌年の1950年6月25日には中華人民共和国の隣国で朝鮮戦争が勃発します。
拙稿「朝鮮戦争の指導法②『開戦初期の動き』」(URL:http://www.juku.st/info/entry/1090)をご参照いただきたいのですが、1949年の段階で中国もすでに北朝鮮に対して兵器・装備や朝鮮系中国人を送り込むなど
戦争に向けて動き出していました。
その後の朝鮮戦争でも中国人民解放軍は参戦することになります。
また、朝鮮戦争が開戦したことによって、東アジアで少しでも社会主義勢力の拡張を抑えたかったアメリカは
台湾を中国の脅威から徹底的に守る方針に変わりました。
冷戦時の日本と同様に、西側資本主義陣営にとどめておくべき対象国として経済・軍事援助を行いました。
大きな冷戦という戦後世界体制の中に中華人民共和国と中華民国(台湾)もしっかり組み込まれたのです。
つまり、中華人民共和国が台湾に軍事投入しなかった(出来なかった)のは
①朝鮮戦争に関係していたためそちらに集中せざるを得なかった
②台湾にアメリカというバックがついたという2点があったからです。
中華人民共和国の内情
そして、その後も中国は国内での2つの大きな問題を多く抱えます。
第1に、1958年から毛沢東が行った「大躍進政策」というものです。
本稿は別の目的で書いているので詳述は避けますが、この政策は工業・農業の急速な発展を目指す事を、スローガンに掲げます。
しかし、農業・工業の実態や労働者の生産意欲という実態など踏まえずに実行したため、大失敗に終わり少なくとも約1500万人以上が餓死することになったといわれています。(研究によっては2~3000万といったり、5000万人とするなど諸説あります。)
第2に、これはこの大躍進政策ともつながりがあるのですが、「文化大革命」が挙げられます。
これは1960年~70年代初頭にかけての文化闘争・思想闘争という権力闘争でした。これによって中国国内の政治・経済・社会は大混乱に陥ります。
この2つの問題はまた別稿で詳しく述べますが、要するに中国国内の社会情勢が混乱に陥っていたことで、解放させようとしていた台湾に集中する余裕がなかったという面もあったのです。
国際連合の「中国」とは?
このように、中華人民共和国の方の「中国」は混乱をしている中、中華民国の方の「中国」(=台湾)は飛躍を見せます。
まず、農地改革を行う事によって自作農が大幅に増えます。
日本が植民地支配していた時代に港湾を整備していたため、貿易の下地ができていました。
自由貿易をおこなう事で農産物の輸出が拡大します。
このような需要の増加があるかつ、利益を追求できる資本主義体制だったため、労働者は生産意欲をもって生産に励むことができました。こうして台湾は戦後大きな経済発展を遂げます。
しかし、経済面でうまく行っても、国際政治は厳しい状況になりました。
戦後、新しい国際平和機構として発足した国際連合を思い出してみてください。拒否権という強い権限が与えられた常任理事国は、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・中国の5国でした。
この5国の中の中国は発足当時「中華民国」の事を指していました。中華人民共和国はすでに大陸は中華人民共和国として再出発しているのに「中華民国」のままであるのはおかしいという思いを持っていました。
加盟国の多くはこの意見に賛成し、1971年に国連の「中国」は中華民国から中華人民共和国となりました。(ちなみに日本は「中華人民共和国」の参加は阻止しないが、「中華民国(台湾)」の追放は反対するという立場にいました。この点についても次稿で詳しくお伝えします)
まとめ
本稿では、国共内戦での中国共産党勝利の後、中国大陸の「中華人民共和国」と台湾島の「中華民国」2つの立場がどのような道を歩んできたのかについてお伝えしました。
最後に指導のポイントをまとめます。
テーマ:台湾はなぜ台湾としていれたのか
○国共内戦、決着
(1)中華人民共和国の成立
(2)台湾への思いー中華民国から「解放」せよ
○中国が軍事投入出来なかった理由
(1)東アジア国際情勢ー朝鮮戦争の勃発
(2)アメリカ、台湾援助へ方針転換
○中華人民共和国の内情
(1)大躍進政策
(2)文化大革命
○国際連合の「中国」とは?
(1)発足当時の常任理事国
(2)1971年の国連決議
という順番で説明をすると、現代史における中国と台湾の因果関係がしっかりつかめると思います。
本稿では扱えませんでしたが、この流れを理解してこそ日本と台湾の現代の関係がよりはっきり見えるという事で紹介させていただきました。こうした歴史を踏まえての現代の日台関係についてシリーズ最終記事の次稿で指導法をお伝えしたいと思います。本稿は以上です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!