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【日本近現代史】湾岸戦争に日本はどう関わった?~現代を読み解く視点~

高校生

2021/12/17

湾岸戦争

1990年8月、イラクの軍隊がクウェートへと侵攻しました。
大戦車部隊、そして約10万人もの兵士を投入し、わずか6時間ほどで首都を制圧し、クウェート全域をあっという間に影響下に入れます。

これが、今から25年ほど前に起こった湾岸戦争の始まりとなっています。
日本からおよそ5000Km以上離れている場所で起こった戦争であるかつ、直接関与していないのにも関わらずその後の日本に大きな影響を及ぼす戦争となりました。

影響

そして、それは当時にとどまらず、今現在にも密接につながっているのです。
例えば、集団的自衛権で大きな話題になっている自衛隊の位置づけということに関して、日本国内でとても大きな議論を呼び起こしました。
さらに、他国での戦争に日本はどう向き合うべきなのかというようなことを改めてつきつけられた国際情勢でもありました。こうしたことは歴史を学ぶことでしか考えることが出来ません。
おそらく、高校の生徒であっても湾岸戦争が起こった際に生まれている生徒はいないと思いますが、
彼らが歴史を学ぶことによって現代の諸問題を考えるきっかけとなるような授業にしていきたいですよね。

本稿ではこのような問題意識から、

湾岸戦争はどうして起こったのか

ということを生徒がしっかり理解できるような指導法をご紹介したいと思います。

湾岸戦争が起こった背景~クウェートをめぐる攻防~

イラクがクウェートに侵攻したと冒頭で述べたのですが、そもそもイラクはなぜクウェートを狙おうとしたのか、授業ではそこから確認していきましょう。

日本 イラク

上に示した地図を御覧ください。
クウェートという国は見ての通り、面積も少なく人口約180万の小さな小さな国ですが、
石油資源に恵まれており、強い経済力を持つ豊かな国です。

それがイラクはもともとこのクウェートを自国の療護であると主張していました。
19世紀にさかのぼってみると、この辺り一帯はオスマン・トルコ帝国で確かにどちらの国も同一領土内に入っています。


しかし、20世紀になって情勢は大きく変化しました。
1913年、オスマン・トルコはイギリスと協定を結び、クウェートをイギリスの植民地とすることを決定します。そして翌年から起こった第1次世界大戦では、オスマン・トルコが今度は軍事衝突になったイギリスに敗れ、現在のイラクもイギリスの支配下に入りました。

その後、1932年にイラクはイギリスからの独立を果たしました。
クウェートが独立するのは1961年なので、クウェートに先駆けての独立ですがこの時点ではイラクはクウェートと別の国になることには反対をしませんでした。

しかし、これと同じ1961年にイラクのカセム大統領が「クウェートはイギリスがでっち上げた国である」という事を述べているように、イラクはクウェートの独立に対して態度を変化させていました。

 

サダム・フセインが目指したもの

その後、1979年にサダム・フセインが大統領に就任します。
サダム・フセインが就任したことで、中東の軍事情勢に大きな変化が現れます。
まず、彼はイラクを「古代バビロニア」のような帝国にすることを目指します。

王冠

古代バビロニアとは、世界史で学んだ通り、メソポ民からシリア・パレスチナにかけての”肥沃な三日月地帯”を支配し、紀元前538年にアケメネス朝のキュロス2世に滅ぼされるまで強大な勢力を誇った帝国です。
つまり、フセインはかつてのような大帝国にしたかったのです。

そこで、まずは翌1980年、隣国のイランを攻撃し、「イラン・イラク戦争」を開戦させます。
1979年にイランでは革命が起こっており、国内が大混乱になっている時期を狙いました。
戦争を仕掛けた側であるイラクが最初こそ押し気味の戦争でしたが、互いに譲らず、戦争は長期化します。
日本では、こうした状況と、双方の頭2文字を取って「イライラ戦争」と表現しました。
約8年間こうした状況が続き、1988年の8月に終息を迎えます。

 

イラクはどのような理由でイランに侵攻したか?

戦争を正当化できる理由というものは、基本的には無いと思うのですが、歴史上戦争が起こる時というのは大抵何かしらの理由をつけて始まります。
イラクはイラン戦争に当たってどのような理由をつけて踏み切ったのでしょうか?
実はこれがその後の湾岸戦争にもつながるとても重要な部分です。授業で生徒に対して最も力を入れて指導したい山場といえるでしょう。

授業

実は、イラクが作った理由は、民族の問題でした。
西アジアから北アフリカにかけて居住する民族のほとんどが、アラブ民族であり、
イラクやサウジアラビアなどの中東地域もほとんど、これに該当します。
それに対して、これに該当しないイラン国民はほとんどがペルシア民族で、数的には圧倒的にマイノリティーです。

フセインは、ここに目をつけました。イラクが軍事攻撃を仕掛けたのは「イランというペルシア勢力からアラブ勢力を守る」ためだとしたのです。

つまり、イラクとしてはイラクだけでなく、同じアラブ民族の他の中東にとっても必要な戦いである
他のアラブ民族の国も当然イラクを支援するべきである
という論理を持っていました。

しかし、現実はそう甘くはありません。他のアラブ民族の国家は、そもそも自分たちが関係者として巻き込まれることに迷惑な気持ちをもっている国がほとんどでした。

他の国からの支援をあまり受けられなかったイラクは、不満を持つと同時にその中でももう1つの隣国クウェートに最も強い矛先を向けます。同じアラブ民族で、石油資源などにより経済力を持っているにもかかわらず支援をしなかったことがその主たる理由でした。

 

イラクがこれだけ動けた理由とは

こうした事に加えて、以下の様な理由が加わって、イラクはクウェートへの軍事侵攻を決定します。

①地理上の理由
→イラクには、ペルシア湾に面した土地がほぼありません。(地図上で確認しましょう)
そのため、クウェートを自国の領土とすれば港湾をもっと活用することが出来ると考えました。
②資源的な理由
→クウェートの持つ豊富な石油資源はイランとの戦争で経済が底をついていたイラクには大変魅力でした。石油資源を確保し、イラン戦争で抱えた900億ドルにものぼる負債を返すことを狙います。

ここまで説明してきたイラン・イラク戦争との前後のつながりがあることがお分かり頂けると思います。
さて、入試ではあまり問われませんが、私が授業を行う場合ここでもう1つ生徒に発問します。
イラクは、イランとの戦争が終わって、すぐなぜこれほど積極的かつ、迅速に次の行動に移ることが出来たのでしょうか?実はこちらも当時の世界情勢が大きく関わる重要な部分です。

湾岸戦争が始まった1990年という時期をもう一度意識してみてください。
イラク戦争が起こる前年にソ連のゴルバチョフ大統領は敵対していた西側に歩み寄る姿勢を見せ、第2次世界大戦の後から長く続いていた冷戦にようやく終わりが見え始めていました。

希望

第2次世界大戦後の「冷戦」というのは、アメリカとソ連が持つ核爆弾が、戦争の抑止力になるなど
戦前とは違う新しい形での「秩序」になっていました。

仮に冷戦が続いている状態であれば、アメリカはソ連が裏でイラクを動かしているのではないかと考えて米ソの対立をより深くすることになったかもしれません。
冷戦であっても、アメリカとの直接対決に成るような対立を避けたいソ連はおそらくイラクの行動に歯止めをかける役割をしていただろうと分析されています。


このように、「冷戦状態」であるがゆえに逆に起こせなかった行動が、東西冷戦の雪どけによって起こせるようになっていた時期でもあったのです。

イラクがクウェートに侵攻して始まった湾岸戦争というのは、1中東地域だけの問題などではなく、世界情勢も実は深く関わっていたということをしっかり認識するようにしましょう。

まとめ

本稿ではここまで、湾岸戦争が起こった背景とそれを実行された背景には冷戦の終結という世界情勢が確認されていたことをご紹介しましたがいかがだったでしょうか?
最後に指導のポイントをまとめると

テーマ:湾岸戦争はどうして始まった?~ミクロとマクロの視点から~
◯湾岸戦争の対立構図とは
(1)イラクとクウェートの位置関係
(2)クウェートはどういう国?
(3)イギリスとオスマン・トルコ
◯サダム・フセインの登場
(1)フセインが目指したものとは何か
(2)「イライラ戦争」とは?
(3)アラブのために頑張ったのに・・・・
◯クウェートへの軍事侵略
(1)イラクにとってのクウェートとは
(2)冷戦という構造の別の側面とは?

という順番で説明をすると、なぜこの湾岸戦争が起こったのか、そして世界史的にもなぜこれが重要なのかが生徒はスムーズに理解できると思います。
冒頭でも述べたとおり、この湾岸戦争はこの後日本にも大きく関わってきます。本稿では扱いきれませんでしたが、次稿この点について詳しくご紹介したいと思います。
本稿は以上です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!

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