天安門事件とは?
日本はこれまで、隣国中国との間に、古代から近現代に至るまで、様々な関係を築いてきました。
遣隋使や遣唐使によって中国の先進的な知識、学問を持ち帰るという文化交流の面もあれば、近代における日中戦争という苦々しい記憶もあります。
昨今においても領土問題、環境問題、歴史認識問題など直面している課題はたくさんあると言えるでしょう。
中国は日本の隣国と言えます。
そのため、中国で起こった歴史的な問題は、たとえ中国国内で起こったものであっても、巡り巡って現在の日本との関係の遠因になっていることがあるのです。
本稿でこれからご紹介する「天安門事件」はまさにこれを象徴するような事件です。
天安門事件とは一言でまとめてしまえば、中国国内で民主化を求めた学生を天安門広場で鎮圧した事件なのですが、それが一体なぜ日本との関係に影響を与えたのでしょうか。
ここから詳しく述べていきますが、この事件は今現在の日中関係を構成する大きな要因の1つとなります。
よって、本稿では「天安門事件」を学ぶことを通して、高校生の生徒が
現代の日本と中国の関係を考察できる
ような指導法をご紹介したいと思います。
天安門
1989年6月4日、中国北京の天安門広場でハンガーストライキ(水分以外のものは一切口にしない)を行っていた学生たちを中国共産党の軍隊が取り囲みました。
そしてGOサインを意味する合図がかかり、広場に一斉に中国人民解放軍が突入します。
丸腰の民衆に対して装甲車や戦車などの、フル装備の軍隊が無差別で射撃を開始しました。
初めに、民衆に対して中国人民解放軍が突入したことの意味を考えてみましょう。
中国というのは不思議な国で、軍隊の所属は国家ではなく、共産党になっています。
それはつまり、国家の総意としてではなく共産党独自の判断によって軍事行使ができるのです。
よって、中国人民解放軍に指示を出し、動かすことが出来るのは共産党のみですね。
このハンガーストライキに弾圧を加えたのは共産党の意思によるものであることがお分かり頂けるのではないでしょうか。
それでは一体なぜ共産党は学生や若者を弾圧しなければならない必要性に迫られたのか、
歴史を紐解いていきます。
労働意欲とは
まず、拙稿「【重要テーマ】中国近現代史「文化大革命」とは?」で「文化大革命」とは何かをご確認いただきたいのですが、中国では1960年代から70年代にかけて起こった「文化大革命」という壮大な政治的闘争が起こっていました。
【重要テーマ】中国近現代史「文化大革命」とは?
URL:http://www.juku.st/info/entry/1190
しかし、1976年、毛沢東の死後に後任を務めた華国鋒が文化大革命を推進していた江青ら4人を逮捕したことで「文化大革命」を終わらせました。
この文化大革命の中で、わずかでも資本主義を認めようとする政策に不満を持っていた毛沢東が鄧小平(とうしょうへい)を失脚させていました。
しかし。毛沢東が死去したことによって1979年に鄧小平が復活を果たします。
鄧小平は、社会主義政策のもとで行っていた農業の集団化を廃止し、個人の農業を復活させることにしました。
また、1950年代に毛沢東が実施した「大躍進政策」によって、農民は集団生活をさせられ、給料も一定にさせられていました。
【重要テーマ】中国で起こった「大躍進政策」とは?~社会主義をどう捉えるか~
URL:http://www.juku.st/info/entry/1184
農業というのは、何を耕作するにおいても収穫してから出荷が終わるまで、24時間体制で仕事に臨まなければなりません。
天候や気温などに常に細心の注意を払わなければならないからです。
しかし、給料が同じであると人は労働意欲が湧かなくなってしまいます。
一生懸命働いてもサボっていても評価が同じであるならば、意欲的に取り組むことがばかばかしくなってしまうからです。
「経済の改革・開放」路線
こうした背景もあって、巨大な人口を抱える中国には需要に応えられる供給がありませんでした。
需要・供給のバランスが極端に悪いということは当然経済状態が悪いということも意味しています。
鄧小平はこうした状況を少しでも打開するために、個人農業を復活させ、定められた量の農作物を国に売れば、余った作物は自由に扱うことを認めました。
こうなると作り手としてはどのような気持ちになるでしょうか?
稲作の例で考えてみましょう。収穫する米のうち、50Kgは国に売らなければならない。
しかし、残りは自由に処分できるのなら、出来るだけ多くのお米を耕作して売ればそれだけ多くの利益を手にすることができます。
「大躍進政策」などの国による社会主義政策では上手くいきませんでしたが、部分的ではあっても個人に自由な経済活動を認めることで、農家の生産意欲が上がり、農業が発展することになったのです。
鄧小平はその他にも海外企業からの投資を認め、中国と海外の企業が互いに資金を出し合って会社を作る「合弁」も見られるようになりました。
こうした鄧小平による農業の改革、そして国内市場の開放をまとめて「改革・開放」路線と呼びます。
海外を知る若者たち
さて、海外との交流が増えると中国国内はどのような影響を受けるでしょうか。
日本も古代遣隋使や遣唐使を経由して交流することによって、中国から最新の思想や科学を輸入してきました。
海外に向けて市場を開放することは、意図せずとも海外の考え方や文化などが多かれ少なかれ入ってくるものです。
この時、こうしたものの中で特に、民主的な政治や自由主義の社会が若者や知識人に強い影響力を与えました。
中国は、(政党は1つではありませんが)共産党による事実上の1党独裁です。
野党の存在も認めていないため、政治において共産党の考え方を批判することは出来ない状態です。
海外の自由主義国家、民主的な政治を知った若者や知識人がこうした状況に不満を持ちはじめ、ついに民主化運動が開始されました。
特に象徴的であったのが、毛沢東による文化大革命を批判する論文であったり文章が公然と掲載されるようになったことです。
これはそれまでの中国からしたら考えられないことでした。
こうして中国国内に「言論の自由」が認められた事を「北京の春」と言い表すことがあります。
中国国内で民主化への動きが本格化する下地が整ったかと思いきや、この動きはその後の政府と民主化運動を求める若者との間での火種の原因となり、「天安門事件」という形で決着がつけられます。
この点については、次稿でお伝えします。
まとめ
本稿では、「天安門事件」が起こるまでの背景をいかにわかりやすく説明するか、ここまでご紹介してきました。最後に指導のポイントをまとめると、
テーマ:天安門事件はなぜ起こったのか?~事件前夜~
◯中国の軍隊は誰のもの?
(1)天安門に突入した「中国人民解放軍」
(2)「中国人民解放軍」の所属はどこか
◯中国の経済状態~農業~
(1)「大躍進政策」が失敗した要因
(2)同じ給料で評価されることの弊害
◯「改革・開放」路線
(1)農業を発展させるために
(2)海外に市場を開放します
◯海外との交流で入ってきたもの
(1)自由主義・民主的な政治を知った若者たち
(2)民主化運動へ
という順番で説明をすると、「天安門事件」が起こった背景の因果関係がしっかりと理解できると思います。
次稿ではいよいよ天安門事件の具体的な中身とそれがその後の日中関係にどう影響を与えたのかについてもお伝えします。
本稿は以上です。
ここまで長文ご精読ありがとうございました!