日本の政治をより深く知るために
戦後の日本政治を特徴付けた「55年体制」、
講師の皆さんはどのように説明しますか(していますか)?
「55年体制」は、政治経済や日本史などにおいても毎年頻出の重要テーマです。
また、「55年体制」を学ぶことは、現代までの日本の政治の歩みを知ることにもなりますし、
日本の民主主義を考えることにもつながります。
本稿では上記のような問題意識から、
「55年体制」とはいったい何か
ということを歴史的背景も踏まえながら生徒がしっかり理解できるような指導法をご紹介します。
政党の話もしていくのでよければこちらもご参照下さい。
⇒【塾講師必見・教養】"政党"をわかりやすく説明しよう!
戦後の総選挙
まずは、戦後日本の政治の出発点を考えるために、
第2次世界大戦後の政治状況にまで時間を戻してみましょう。
1946年4月、新選挙法に基づいて戦後初めて総選挙が行われます。
1945年の敗戦後、戦後の新しい政治へ向け、新しい政党がたくさん誕生していました。
そんな多党乱立の選挙でしたが、
鳩山一郎を総裁におく日本自由党が141議席を確保し、進歩党と連立政権を組むことになります。
ところが、総理大臣に就く前、鳩山一郎はGHQによる「公職追放」の対象となりました。
そのため、鳩山一郎は吉田茂に政権運営を任せ、一時的に政界を去っていきます。
そして、翌1947年の4月、2度目の衆議院議員総選挙が行われます。
その結果議席数は以下のようになりました。
<1947年衆議院議員総選挙>
社会党:143議席
日本自由党:131議席
民主党:124議席
国民協同党:31議席
選挙の結果、社会党が143議席で最も多くの議席数を確保し、第1党の座を獲得します。
こうして片山哲内閣という社会党政権が誕生しました。
吉田茂が政権維持にこだわらなかった理由
上の表をもう1度見て下さい。
社会党が最も議席数を獲得していますが、
それに続いて日本自由党と民主党もそれぞれ131、124の議席を獲得していますよね。
日本自由党も民主党も保守派であるため、
やろうと思えば連立を組んで政権運営を続けることが可能な状況にありました。
(131+121=252議席で過半数となるため)
しかし、自由党の総裁であった吉田茂は、連立を組まないことを決断し、社会党に政権運営を譲りました。
なぜなら、吉田茂は「憲政の常道」を重要視していたからです。
選挙によって国民から最も支持を得ていたのが社会党であるなら、
その支持を形にするべきではないかという思いがあったのです。
※「憲政の常道」・・・第1党が政権運営を行うこと
また、これに加えて「後々また自由党が政権を奪還する」という強い意志を持っており、
そのための準備期間と位置づけていたという理由もあるそうです。
いずれにせよ、戦後初めて日本に社会党の政権が誕生することになりました。
社会党は単独では過半数に達しないため、
民主党と国民協同党に協力を呼びかけ、連立政権を組むことになりました。
社会党内部での対立
しかし、社会党は政権運営を行うことになってから具体的にどうするか…。
実は、十分な準備をしていませんでした。
片山哲内閣がはじまって、社会党内部が分裂してしまう状況になったからです。
対立の原因は予算案でした。公共料金の値上げをしようとする政策に、社会党の左派が反対したのです。
そもそも、政党というのは、本来政治に対して同じような最善策を考える人達が組むグループのことです。
また、民主主義の政治では、最終的に多数決によって政策を決定しますし、
それらを進めていくためには、自らの党(あるいは連立を組む党)の持っている議席数を”賛成”にして、過半数を取らなければなりません。
ですから、もちろん、政党はグループ内において出来る限り意見を一致していかなければなりません。
しかし、社会党は後に”右派”と”左派”と呼ばれる2つのグループに分裂してしまいました。
与党内部での分裂を抱えてしまった片山哲内閣は政策を実行していくことができず、
総崩れとなってしまいます。
社会党の統一へ
芦田均内閣をはさみ、再び政権の座は吉田茂をトップにおく自由党に戻ってきます。
選挙において264人が当選し、圧倒的な議席数(264議席)を確保した上での返り咲きでした。
一方の社会党はというと、党内の分裂で国民の信頼を失ってしまいかわずか48議席です。
片山哲内閣において、分裂した「右派」と「左派」に分かれた社会党はその後もまとまることが出来ずにいました。
その対立は、東西の対立が深まっている最中のサンフランシスコ講和条約で表面化します。
1951年のサンフランシスコ講和条約において、
アメリカをはじめとする西側資本主義陣営とのみ講和をしようという「片面講和」と
ソ連を中心とする東側社会主義陣営も含めて講和すべきという「全面講和」を主張するグループがいました。
「片面講和」を良しとする右派と社会主義陣営と
「全面講和」を良しとする左派が激しく対立することとなりました。
政策の捉え方、考え方は違っても、どちらも自分たちが本当の社会党であると名乗っていたために、
”右派”と”左派”という区別がマスコミによってされたのです。
それぞれの考え方の軸は以下のものです。
右派社会党:「大衆政党」(社会民主主義。大衆の利益のために活動するという考え方)
左派社会党:「階級政党」(マルクス主義に基づき、労働者の階級闘争を代弁するという考え方)
両派社会党はその後の選挙において、支持基盤を広げようと競っていきます。
その結果、両派の議席数は伸びました。(合わせて158議席)
また、
ここまで、両派が議席を増やしたことで、
「左右両派が合体をすれば政権奪還を出来るのではないか」
という考えが出始めます。
こうして1955年、両派が手を組むことになり、社会党は統一されました。
両派のスローガンをまとめて「階級的大衆政党」として再出発を果たすこととなったのです。
保守派の合体
こうして、革新派である「社会党」が統一されると保守派も動かずに入られません。
「政治は数、数は力」という言葉があるように、
対抗する社会党の議席数が増えれば、
保守派の自由党や民主党も当然、議席数が減って政権を取られるリスクが高くなります。
また経済界からも、社会党が政権を握ったら社会主義の経済政策を取るのか、懸念する声が上がります。
こうした背景をもとに、保守側である自由党と民主党も合体して自由民主党が誕生したのです。
1955年に誕生した社会党と、自由民主党。
この二大政党制が出来上がり作られたのが「55年体制」です。
具体的にその中身はいかなるものなのか、
そして一体何がその2大政党の軸になっていたのかについては冒頭でもご紹介した
で述べているので合わせてご参照下さい。
まとめ
本稿では、
日本現代史を語る上で欠かせない「55年体制」がいかにして作り上げられたのか
をわかりやすく説明する方法をご紹介しました。
最後に指導のポイントをまとめると、
テーマ:戦後の日本の政治を色づけた「55年体制」とは何か!?
◯戦後初の総選挙
(1)社会党の勝利
(2)政権運営のあり方「憲政の常道」
(3)社会党連立政権へ
◯社会党内部分裂
(1)社会党内部での不具合
(2)サンフランシスコ講和条約をどう結ぶ?
(3)右派と左派
◯保守と革新の統一
(1)左右の社会党の議席数
(2)社会党の登場に保守側は
(3)「55年体制」
となります。
本稿は以上です。
ここまで長文ご精読ありがとうございました!