織田信長の躍進
前記事「【日本史講師対象】織田信長の天下統一過程を詳しく指導する方法①」では、
- 室町幕府の弱体化
- 守護領国制の崩壊
- 戦国大名の支配力
- 頭角をあらわした織田信長~将軍の役割との関連~
についてご紹介しました。
本稿では引き続き、織田信長の天下統一過程をするために重大な要因となった、
織田信長が、室町幕府を滅亡させるまでのプロセス
を生徒が、しっかり理解できる指導法をご紹介します。
コンテンツ
1.織田信長の立ち位置
2.足利義昭と織田信長の微妙な関係
3.諸武将を京都に呼びつけた狙い
4.姉川の戦い~反信長包囲網
5.室町幕府滅亡
1.織田信長の立ち位置
織田信長は、1567年に足利義昭を奉じて京都に入ることに成功しました。
まず、その後の動きを簡単に確認します。
<織田信長の天下統一過程②>
・1568年 足利義昭を奉じて入京
・1570年 姉川の戦い
・1571年 浅井・麻倉に加勢した延暦寺を焼打ち
・1573年 足利義昭を京都から追放(=室町幕府滅亡)
前記事でお伝えしたとおり、足利義昭を奏じていた背景には
室町幕府の再興という建前がないと諸勢力を従わせることが出来なかった、ということがありました。
足利義昭は、織田信長に軍事的サポートをしてもらいながら京都に入り、室町幕府第15代将軍に就任します。
しかし、足利義昭が将軍の地位を手にしても、京都を取り囲む戦国の世はそう簡単に治まりません。
独自の強い武力を持たない足利義昭は、織田信長の軍事的な後押しがなければ成り立たない将軍でした。
<ここがポイント>
足利義昭は、独自の力で室町幕府と戦国大名を取り仕切ることができなかった
2.足利義昭と織田信長の微妙な関係
こうした背景があり、足利義昭は将軍就任後も信長の意向を無視できない関係にありました。
とはいっても、武家政権の棟梁を示す征夷大将軍という官職の影響力が全くないわけでもありません。
実質的な力関係で信長が上にあっても、室町幕府が再興して将軍職にいる以上、
幕府の頂点は足利義昭という構図になっていましたし、信長もその点は認めていました。
義昭は将軍という自負を強く持っていたのでしょう。
就任後、諸国の大名に対して、「御内書※」(ごないしょ)という命令を信長に無断で発してしまいます。
※御内書・・・室町幕府の将軍が発給する私的な書状
強い権力をもつ将軍であれば、このような命令はあって然るべきものですが、
ここまで述べてきたように、義昭は決して強い将軍ではありません。
実質的な上下関係で下にいる義昭のこうした行動は、信長への背信とも捉えられるものでした。
信長は、すぐさま義昭に「殿中御掟」というものを定め、将軍義昭の行動を規制しようとしました。
今後、政治的な行為を行う際には必ず信長の許可を得るように指示したのです。
以上見てきたように、信長と義昭の関係はこの頃からギクシャクしていました。
ですが、信長にとっても前述した理由(諸勢力を従わせるために)から、将軍義昭の存在は必要です。
事実、この後信長は足利義昭の征夷大将軍の肩書を上手く利用していました。次節その点を確認します。
<ここがポイント>
将軍としての行動をとりたい足利義昭と、実質的な力を持つ織田信長の間で対立が生まれた
3.諸武将を京都に呼びつけた狙い
では、足利義昭の将軍という肩書を具体的にどう利用しようとしたのか。
顕著な例をご紹介します。
義昭を第15代征夷大将軍にした信長は、
主に畿内を中心とする諸武将に対して、新将軍への挨拶を求めました。
将軍の就任の際の諸大名の挨拶は儀礼的なものであり、
挨拶することで忠誠を示すという行為は江戸時代でもよく見られる光景なのですが、
このときの織田信長はこの他にも3つの狙いを持っていました。
その狙いとは、
①将軍義昭の自尊心を満たすこと
信長は義昭を追放する直前まで、出来る限り義昭と良好な関係を作ることに力を注いでいます。
そのため、義昭に諸大名を従わせる将軍としての自覚をより強く持たせ、
強い支配体制を作ろうとしました。
②信長の実力を認めさせること
将軍義昭への忠誠を誓わせるということは、
その義昭の軍事面を担当する織田信長の実力、そして存在感を認めさせることでもありました。
③朝廷・公家・寺社・民衆にその力を見せつけること
戦国の世を切り開いて諸武将を従わせたのは、
京都の朝廷や、諸大名に従う民衆や寺社勢力に対しても、
義昭・信長による新時代の到来を知らしめようとしたからだとされています。
これに加えて、この挨拶を拒否したものは、平和を乱すものとして武力征伐する名目が出来るのです。
1570年に起こる姉川の戦いはまさにこれが発端でした。
<ここがポイント>
信長は、義昭の肩書を利用して倒すべき相手を明確にした
4.姉川の戦い~反信長包囲網
前述した理由から、
織田信長は義昭への挨拶に赴かなかった朝倉孝景と戦うことになりました。
1570年4月の1度目の戦いでは、朝倉が構える敦賀まで兵を進めるも、
浅井長政が援軍に加わったことで不利になり、撤退します。
そして同年6月、織田信長も徳川家康を味方に加えて戦力を整え、勝利を手に入れました。(姉川の戦い)
しかし、戦いに勝っても浅井・朝倉両家の支配基盤は依然として強く、
両家が治める勢力範囲までは手に入れることができませんでした。
さらに、敗れた両家(浅井・朝倉)は、比叡山延暦寺の宗教勢力と手を組み、
戦国大名との六角氏とも同盟を結ぶことに成功し、逆に京都を脅かす存在になります。
転んでもただでは起きない大名たちです。
上記のような背景があり、最終的に織田信長は武力征伐ではなく、講和に持ち込む道を選びます。
この後の反信長包囲網の話に深く関わってくるので、
ここはしっかりおさえておくようにしましょう!
ちなみに比叡山延暦寺は焼き打ちにして、
今後こうした動きに同調する勢力が増えないように予防していました。
織田信長が手を焼いた仏教勢力については、稿を改めて紹介します。
さて、着々と外堀を埋めて支配を固めていた信長ですが、そんな信長をよく思っていない人物がいました。
再度登場、将軍足利義昭です。
前稿でも述べたとおり、義昭は本来信長のような行動をとるのは将軍であるはず、と考えていました。
「信長と手を組んでいては、どうも将軍としての立場がない。」
こう思った義昭は信長を追い詰める画策を進めていきました。
<ここがポイント>
織田信長の戦果が、足利義昭との対立を決定的なものにした
反信長包囲網
義昭の画策に呼応した人物がいました。
甲斐の国の雄・武田信玄です。
足利義昭に対して、忠誠を誓う起請文を送ったのです。
御存知の通り、武田信玄は当時の戦国大名の中で最も強い勢力を持つ1人でした。
この力を信じた義昭は、武田信玄に対し「天下静謐」の御内書を渡します。
(※「天下静謐」・・・世の中を穏やかにすること)
「天下静謐」という言葉は紛らわしいのですが、
要するに織田信長を討つ大義名分を与えたということです。
こちらの図をご参照下さい。
武田信玄の治める地から見て、織田信長の治める領域は西にありますね。
武田信玄が織田信長を破って「天下静謐」に向けて軍を進めることを位置関係から「西上」と呼びます。
1572年10月のことでした。
当時信長に反感を持っていた諸勢力(越後の上杉謙信、石山本願寺の顕如、北近江の浅井長政、越前の朝倉孝景ら)にもこのことを伝えて、反信長包囲網を作り上げていきます。
強力な大名が自分を倒すために手を組み、信長はかなりの窮地に追い込まれます。
信長の盟友、徳川家康はなんとかこの動きを止めようと武田信玄の軍を背後から襲いました。(三方原の戦い)
しかし、武田信玄の強軍には歯が立たず、返り討ちにあってしまいます。
<ここがポイント>
大名たちが信長包囲網によって結束し、信長を追い詰めた
5.室町幕府滅亡
織田信長の支配に対する武田信玄の脅威が着々と近づいていましたが、翌1573年4月に、
武田信玄は病に倒れ、その生涯を突如終えることになります。
これによって、足利義昭は反信長の筆頭を失ってしまいました。
何度も言及している通り、織田信長はそれでも諸勢力を抑えるために幕府の存在は必要と考えていたため、
和解に乗り出していましたが、足利義昭はこれを2度にわたって拒絶していました。
ついに、織田信長は、足利義昭の居城、二条城を焼打ちにして、丸腰にしました。
義昭は追い詰められます。
致し方なく義昭は信長と和睦しますが、
その後再び勢力を取り戻そうとわずかな味方を集めて挙兵しました。
あくまで牙を向く足利義昭。
もうこうなっては信長も見限りをつけるしかありませんでした。
徹底的に追い詰めて降伏させ、足利義昭を京都から追放しました。
何とか体裁だけは整えていた室町幕府でしたが、もはや将軍不在になってはその形もありません。
義昭の降伏が、室町幕府の終結とされているのです。
<ここがポイント>
織田信長は、再三牙をむく足利義昭を見限って京都から追放し、室町幕府が終幕した。
まとめ
ここまで織田信長と足利義昭の駆引きから室町幕府東海までの道のりを確認しました。
教科書には載っていないその壮絶な攻防を垣間見ていただけたかと思います。
最後に指導のポイントをまとめると、
テーマ:室町幕府崩壊!足利義昭と織田信長の壮絶な戦い
◯足利義昭と織田信長の微妙な関係
(1)義昭を奉じて入京
(2)義昭と信長、それぞれの思惑
(3)「殿中御掟」
◯姉川の戦い
(1)浅井・朝倉両家の強さ
(2)家康を味方につけ勝利、しかし・・・
(3)足利義昭の動き
◯反信長包囲網
(1)足利義昭、武田信玄と接近
(2)一気に接近!信長ピンチ
(3)武田信玄が倒れたことの意義
となります。
次稿では、室町幕府滅亡後、織田信長は一体何を支配の正当性の根拠としたのか?
その点についてお伝えします。
長くなりましたが本稿は以上です。ここまでお読みくださりありがとうございました!
<参考文献>
・池上裕子『織豊政権と江戸幕府』(講談社、2002年)
・藤本正行『信長の戦国軍事学』(JICC出版局、1993年)
・谷口克広『信長と将軍義昭 : 連携から追放、包囲網へ』(中央公論新社、2014年)
・谷口克広『信長の天下布武への道』(吉川弘文館、2006年)