支配の正当性とは
前記事「織田信長の天下統一過程!足利義昭との協力から決別へ【織田信長シリーズ②】」では、
- 織田信長の立ち位置
- 足利義昭と織田信長の微妙な関係
- 諸武将を京都に呼びつけた狙い
- 姉川の戦い~反信長包囲網
- 室町幕府滅亡
をご紹介しました。前稿でお伝えしたとおり、
織田信長が群雄割拠の戦国大名を従わせるために利用したのが、”室町幕府再興”という大義名分でした。
しかし、上記のような対立を経て足利義昭を追放してからはもはや室町幕府の実体もありません。
織田信長は足利義昭追放後、何を支配の根拠としていくのか?
本稿ではこの点について生徒がしっかり理解できる指導法をご紹介します。
コンテンツ
1.足利義昭追放後の信長の動き
2.信長と朝廷の関係
3.信長はなぜ朝廷の官職を辞任したか
1.足利義昭追放後の信長の動き
織田信長は、足利義昭を追放した後(1573年)、一時的に支配の根拠を見失っている状態でした。
一方で、信長は家臣団に「武篇道」という、武士としての行動規範を掲げています。
桶狭間の戦いから足利義昭の追放までの過程で、織田信長の実力はすでに畿内に知れ渡っていました。
しかし、織田信長の発する「武篇道」のようなものの対象となるのは自らの家臣団のみです。
この段階ではまだまだ全国レベルに浸透させ、それを強制する力がなかったということですね。
しかし、ここで終わらないのが織田信長です。この頃から朝廷との距離を近づけていきました。
長篠の戦い
織田信長の天下統一の中でも、最もその武才を発揮した戦いと評価されるのが1575年の長篠の戦いです。
背景から確認しましょう。
もともと、長篠城を中心とした三河の地域は、甲斐の武田信玄が健在だった時に制圧していました。
しかし、突然の病気で没した後、一度は武田信玄軍と三方ヶ原の戦いで敗れた徳川家康が長篠城を手中に収めています。
資料集を確認していただけばすぐわかるのですが、
この長篠という場所は、信濃と三河を結ぶ交通の要に位置しています。
つまり、
三河を攻略して勢力を伸ばそうとしていた武田軍にとって長篠という場所は、
どうしてもおさえておかなければならない要地でした。
そこで、1575年に長篠城を奪還するために、
武田勝頼(信玄の息子)が家康の手中にある長篠城に包囲網をかけていきます。
結果、織田信長・徳川家康連合軍と対峙することになりました。
長篠の戦いの絵画資料を御覧ください。
向かって左側が織田信長・徳川家康連合軍、そして右側が武田勝頼の騎馬兵の突入する様子です。
よく見ていただくと、織田信長・徳川家康軍の兵は、
武田勝頼の騎馬兵の勢いを止めるための柵(馬防)と長い筒上の鉄砲を持っていることがわかりますね。
この戦いの意義としては
- 日本の合戦史上、初めて本格的に鉄砲が実戦武器として利用された
- 武田軍に対して壊滅的なダメージを与えたインパクトが諸勢力に広がる
→この後、上洛した信長に対して、朝廷が官位を用意する
があげられます。
入試などではこれと関連させて、
「日本に鉄砲はいつどこで伝えられたか?」というようなことも出題されたりするので、
関連させて復習すると良いかもしれませんね。(A.1543年、種子島でポルトガル人から伝来した)
<ここがポイント>
長篠の戦いで日本史上初めて、鉄砲が武器として使用された
信長は、長篠の戦いに勝利したインパクトは大きく、朝廷が官位を用意した。
2.信長と朝廷の関係
さて、長篠の戦いによる信長勝利を聞いた朝廷が、信長に官職を用意した、ということまでお伝えしました。
足利義昭追放後、織田信長は朝廷との距離を近づけていきます。
具体的にどう近づけたのか。以下ご紹介します。
まず、織田信長は朝廷のある京都のすぐ近くである安土に壮大な城を築きました。(安土城)
織田信長は城下町経営で手腕を余すところなく発揮し、京都の治安を安定させることに成功します。
室町幕府が強い支配力を発揮していなかったため、応仁の乱(1467~)焼け野原になって以降、
京都は、治安の良くない状態が続いてました。
つまり、信長はこうした社会状態を好転させたのですね。
さらにその後、京都の朝廷を保護する姿勢も見せていたため、両者の関係が良好になっていきました。
その証として、1575年に朝廷は織田信長に従三位権大納言の官位を与え、次いで右近衛大将にも任じています。
右近衛大将と言えば、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝も任命されたことがある官職でした。
忘れている生徒もいるかもしれないので、授業では簡単に復習してあげましょう。
【必読】何故鎌倉幕府の成立年がイイクニからイイハコになったのか?【歴史を教えるあなたに】
この時代の右近衛大将も、位としては征夷大将軍以上の価値をもつ官位でした。
そんな右近衛対象に織田信長を任命したというのは何を意味するのか?
信長と朝廷との関係の中でも最も重要な部分です。
この右近衛大将を与えるということは、
朝廷が織田信長を正式に室町幕府の後継者として認めたと評価されているということです。
さらに具体化すると、織田信長が右近衛大将を任じられたというのは、
・室町幕府に代わって支配をする者であるというお墨付きを手にいれた
≒室町幕府再興に代わる支配の正当性の根拠をここで手に入れた
ということを意味しています。
<ここがポイント>
信長は朝廷から右近衛大将に任じられ、支配の正当性を手に入れた
3.信長はなぜ官職を辞任したか
その後も、朝廷との良好な関係は続き、織田信長は正二位右大臣にまで登りつめました。
しかし、その後すぐに信長は手に入れた右近衛大将・右大臣ともに辞任してしまいます。
この理由には2つの説があります。
近世史の学会ではよく論争になる、学問的魅力にあふれた部分なので本稿でもご紹介します。
①朝廷VS織田信長
まず、「織田信長が朝廷と対立していたのではないか」と捉える立場です。
右近衛大将・右大臣という役職はどちらも朝廷の中ではかなり高位にある官職です。
しかし、朝廷の官位を授かっているということは、
天皇を頂点とする公家の上下関係に組み込まれることも意味しています。
つまり、
織田信長がこの官位を自ら辞任したのは
朝廷のしがらみから自由になって独自に支配力を強めていこうとしたのではないか?
と考えるわけです。
ちなみにこちらの立場に立つ人は、織田信長の本能寺の変についても、朝廷の陰謀説を採ったりします。
②織田信長と朝廷は仲が良いままだった
こちらは、「織田信長と朝廷は良好な関係を築いていた」とする立場です。
その根拠としては、
- 信長が辞任をした後も、朝廷は征夷大将軍や太政大臣の地位を信長のために準備していたこと
- 織田信長も朝廷が脅威と感じる行動をしていないこと
の2つがあります。
こちらの立場では、
朝廷の権威を借りずに織田信長が天下統一を成し遂げようとしたのではないか?
と考えます。
具体的にどういうことか?
朝廷に権力を借りた武力征伐では、それが完了した時
「朝廷という権力の後ろ盾があったからこそ武力制圧することが出来た」という恩義が生まれてしまいます。
足利義昭の場合は違いましたが、恩義が生まれればその後の支配体制においても、
朝廷の意向を無視できない=何らかの上下関係ができる事が予想されますよね。
であるならば、朝廷の権威に頼るよりも、
織田信長自らの武威をもって屈服させる方が実質的な支配力を強めることになると考えられるわけです。
このどちらかの説に答えがあるのか、はたまた別の理由があったのか?
こればかりは本人に聞かないとわかりません。
いずれにせよ、信長は1578年に右大臣・右近衛大将の役職を辞任することになりました。
この点をどう考えるかは、答えがありません。
生徒に紹介する場合にはも両方の主張の根拠を示しながら考えさせてあげるとよいでしょう。
<ここがポイント>
朝廷との関係の築き方には、「蜜月」「仲違い」2つの説がある!
まとめ
ここまで、織田信長の天下統一過程の中で、足利義昭追放後の動きをご紹介しました。
指導のポイントをまとめると、
テーマ:支配の根拠はどこにある?幕府滅亡後の信長の動き
◯長篠の戦い
(1)背景~なぜ戦いは起こったか~
(2)展開~特異な戦略~
(3)意義~どう影響を与えた?~
◯朝廷との関係
(1)信長が手にした官職
(2)安土城築城
(3)支配の正当性とは
◯織田信長が官職を辞任した理由とは?
(1)朝廷VS信長?
(2)支配力を強めること?
(3)支配の正当性とはなにか
となります、因果関係をしっかり説明してあげましょう。
本稿は以上です!ここまでお読み下さりありがとうございました!
<参考文献>
・池上裕子『織豊政権と江戸幕府』(講談社、2002年)
・堀新「織田信長と武家官位」(『共立女子大学文芸学部紀要』45集、1999年)
・立花京子『信長権力と朝廷』(岩田書院、2000年)
・脇田修『織田政権の基礎構造』(東京大学出版会、1975年)
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