【哲学もどきの生徒指導法①】教えるって何?
この記事をご覧になっている読者の皆さんは指導法に悩んで来られたことでしょう。
世間には素晴らしく具体的な指導法が数多くありますが、
いずれも根本から問いただすようなものではありません。
なぜその指導法が採用されているのか
なぜその指導法が良いとされるのか
そうした問いに答えるために、哲学っぽいアプローチを用いました。
私は本稿を含め、3篇の記事を執筆します。
いずれも、「理解する」「教える」「学ぶ」といった言葉の意味や現象の考察から始まり、
その考察を実際の指導に応用について触れます。
まるで論文のようだと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、
そんなことありません。
おちゃらけた感じの口調で執筆していきますので、どうか最後までお読みになってください。
「教える」とは何か
今回は、「教える」について考えてみたいと思います。
やっぱり本質を問いながら指導法を考えようとすると、
塾講師や先生の仕事から考えるのが一番かなと思いました。
だから「教える」から考える。
意外にこの言葉って難しいんですよね。
もちろん答えを伝えるだけとか、解法を発表するだけでは、「教える」とは言わなさそうです。
「相手が理解できるように」という枕詞もありますが、
じゃあ「理解する」って何よというツッコミも来ます。
そのことも踏まえて記事を書いていきます。
「教える」の例
ほぅ、ではちょいと聞いてみよっかね。
と思ってここまで読んでくださった読者の皆さん、ありがとうございます。
これから皆さんには私の授業を受けていただきます。
まぁ授業といっても、一つの言葉を徒然と解説するだけですけどね。
そんな授業を通じて、「教える」とは何かを考えていただけると幸いです。
間主観性
この言葉を聞いたことがある方はいらっしゃいますか。国際政治を学んだ方は、コンストラクティビズムの分野で、哲学を学んだ方は現象学の分野で聞いたことがあるかもしれません。
私がこれを以下のように説明したら、どうでしょうか。
世界の意味了解は、個人の主観においてなされるのでなく、超越論的な場における他者と共同体の構成という、複数の主観の共同化による高次の主観においてなされるということ。
−ブリタニカ国際大百科事典より −
多くの方の反応は「は?」といった感じでしょうか。うん、私も間主観性という意味を知らなかったらこの言葉では理解できません。
では次の説明。
人間は一人ひとり主観ってのを持っているけど、それが家族で共有されれば、家族の中ではその主観は客観っぽくなる。仮に日本全国の国民の大半が、同じような主観を持てば、それは国内では客観っぽくなる。このように、客観というのは、複数の主観が似通って生まれるのだよという説明を、間主観性という。
これで多くの方は「理解する」の状態に至ったのではないでしょうか。恐らく厳密な意味での間主観性を皆さんにお伝えすることはできなかったかもしれませんが、だいたいのイメージは伝わったと思います。
「教える」について考える
私が思いますに、百科事典の説明の方は皆さんにとって難しい言葉(つまり、理解できない言葉)だと感じたのではないでしょうか。
超越論的?高次の主観?
ワケガワカラナイヨ
当然、皆さんは難しい言葉についてさらに説明を要求します。
だってこれだけだとわからないから。
そしてまた私が説明をしたとして、それが難しいとしたらみなさんはまた説明を要求します。
皆さんが間主観性について理解するために、私が何度も何度も説明するわけですが、
どこまで説明すればいいのでしょうか。
それはおそらく、私が皆さんにとって理解できる言葉で、間主観性について説明したときでしょう。
それが先ほどの2つ目の説明です。
そう考えると、
- 教えるとは、相手の既存の知識を用いて、それについて説明できること
と言い換えることができるでしょう。
どういうことか。
百科事典の説明は、皆さんはまだ理解していない用語を用いています。難しい言葉を、難しい言葉で説明されてわかるはずがないですよね。
しかし自作の説明は、難しいといえそうなワードは「主観」と「客観」のみで、ほかは平易な言葉です。難しい言葉を簡単な言葉で説明されています。
ちなみに、
- 理解するとは、それについて自分に教えること
新しく習った知識。それを別の言葉で、自分に説明できるでしょうか。
それが、「理解する」ということだと思います。そのときに、自分の中でしっくりくるのであれば、成功です。
やっとこさ「教える」と「理解する」について言い換えが成功しました。
でもこれって、当たり前といえば当たり前なんですよね。
人間はすでに知っていることを用いて教えます(説明します)。
・ 具体例
・ 類似
・ 比較
これらはすべて既存の知識を用いたものです。
「例えばさ〜」から始まる話は、すでに知っている身近な事例です。「あれに似ている」の「あれ」は、その人がすでに知られている事柄です。「あれと逆」の「あれ」も、すでに知られている事柄です。物事を説明するための用語はすべて、既存の知識が関わってきているのです。
もっと別の例で...
それでは英語と数学にこの理論を応用させてみましょう。
例題①:関係代名詞とは何かを説明してください
例題②:加法定理とは何かを説明してください
例題①の正解
ある単語について1文を使って修飾したいときに用いる文法。例えば「私は昨日出会った男を見かけた」という文にある「男」は「昨日(私が)出会った」という文によって修飾されている。このような文を書きたいときに、関係代名詞を用いる。
例題②の正解
2つの角度の和、または差によって作られるサイン、コサイン、タンジェントを導く公式。
例えば、
cos45°は求めることはできるよね?
じゃあcos(45+30)°はわかる?
角度の和のコサインを教えてくれるのが加法定理。
これらの説明は、かなり定義を崩してはいますが、すごくイメージしやすいかと思います。最初に平易な言葉で言い換えられ、その後に関係代名詞・加法定理を実際に使うことで、イメージすることが容易になります。
何度も言うようですが、「理解させる」ためには、その人が持っている既存の知識でそれを説明できるようにならなければなりません。誰でもが知っているような身近なものを、あるいは過去にならったことを「既存の知識」として活用することで、よりわかりやすい説明を展開することができます。
これらから得られる洞察
おっとそろそろこんな声が聞こえてきそうですね。
「教えることの意味はわかった。じゃあこれをどう塾講師に活かすんだ」
ご安心を。すでに皆さんはこのことから次の洞察を得ることができます。
・ 説明者は相手の既存の知識を把握しなければならない
・ 説明するのに必要な知識を相手が持っていなければ、その知識の説明から始めなければならない。
1つ目は、生徒はどういうことが好きで、どういうことを知っているかを把握するということです。国語の文章を具体例で説明しようとして、芸能人を例に出したとしても、生徒がテレビを見ない子ですと意味がありません。生徒が野球に関心があるなら野球で、世界史が得意なら世界史で、生徒の興味関心に合わせた説明をしてあげてください。
2つ目は、生徒がどこまでの範囲をきちんと習得しているかを確認するということです。さきほど加法定理の話をしましたが、もし生徒がcos45°の値を求めることができなければ、単位円を理解していなければ、そもそも加法定理を理解できるはずがありません。これは①とも似ていますが、まずは生徒がどこまでの知識を習得しているのかを確認し、その不足している知識を補いながら加法定理を説明する必要があります。
これらについてはまた別の記事に書くとします。