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安保闘争とは何だったのか?経過を分かりやすく説明します!!

高校生

2021/12/17

安保闘争とは

昨今、衆議院議員総選挙における投票率が戦後最低を記録するなど、若者を中心とした政治離れが
大きな問題になっています。
投票のする・しないは様々な要因をはらんでいるため、投票しないことだけを理由に短絡的に若者が政治に興味を持っていないという事は言えません。
しかし、選挙の投票率が低いことは民主主義の前提が崩れるため、由々しき事態であるといえるでしょう。

昨今では、こうしたいわゆる政治への”無関心”が論争を読んでいますが、今から約55年ほど前の日本では
国会を万単位の国民が取り囲んでしまうほど政治への”関心”を行動に示していた時期がありました。
それが通称安保闘争です。

デモ

その安保闘争がどれほどの大きな動きを持っていたのか、数字で見てみましょう。
批判の的にされていた岸信介首相が退陣するまでの、1959年4月15日から1960年10月20日の期間で
全国で行われたデモ、集会ののべ数は、抗議集会6292箇所、参加者約45万8000人。デモ行進5348箇所、約428万3400人が参加していたと言われています。

わずか1年足らずの間にこれほどの数の集会、デモ行進、参加者がいることから、いかにこれが大々的な
政治闘争であったのかがお分かりいただけると思います。

授業では、こうした具体的な数を冒頭に持ってくることで、
生徒の頭のなかに「なぜこれほど大きな政治闘争になったのか」ということを思わせることができれば
それだけで生徒を授業の世界に取り込むことができます。

本稿ではこうした冒頭を利用して、

「安保闘争」はどのような背景のもとで起こったのか

という事について、授業後に生徒がしっかり自分で説明できるようになる指導法をご紹介します。
(「安保闘争」の展開過程の指導法については次稿でご紹介します)

安保闘争までの道のり

太平洋戦争において日本は「敗戦」をし、戦後はアメリカを筆頭とするGHQによって間接統治を受けていました。しかし、1951年に「サンフランシスコ講和条約」を結び、日本は独立を取り戻します。

この1951年の講和を行った背景に東西冷戦の激化がありました。
アメリカとしてはソ連を筆頭とする社会主義陣営に対して「巻き返し」政策を推進しており、間接統治による
非軍事化よりも同盟国として安全保障体制を作ることが優先すべきと考えたからです。

よって、サンフランシスコ平和条約を結ぶのと同日に、アメリカと「日米安全保障条約」を締結します。
正式の呼び方は「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」と言います。

握手

しかし、実際にはこの条約は名前のような対等さがありません。その第1条でが米軍の駐留を日本が認めることを明記しますが、米軍の軍事力の使い道については

「外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる」

と規定するのみでした。最後の「できる」という言い方が非常に曖昧性を残していますね。
これはつまり、日本に基地を置く米軍には日本を防衛する義務はないと間接的に述べているのです。
もっと違う解釈をすれば「日本はアメリカに基地の場所を提供するだけです」とも取れる内容です。

さらにもう1つ、日本国内で内乱が起きた場合には、米軍が出動できる事も条約の中に含まれていました。
日本国内の問題に対して、他国のアメリカが干渉することが出来る余地が残されていたのです。
この安全保障条約には期限なども設けられていなかったので、こうした状況がいつまで続くのかも検討がつかない状態でした。

指導する際にまずは安保闘争が起こる背景にこうした日米同盟があったことを抑えるようにしましょう。

安保改定への動き

安全保障条約の内容を見て頂いて分かる通り、講和条約を結び、果たしたはずの独立がフタを開けてみると「対米従属」の構図は変わっていませんでした。

この安全保障条約の内容を改定しなければ日本は完全に独立することはできない。
1957年の総理大臣に就任した岸信介はこのように考え、対等なものにするために動き出します。

バランス

1957年6月基地信介は訪米し、ダレス国務長官と会談の場を設けます。
ここで、在日米軍の配置に関して
・日米が事前に協議すること
・安保条約と国連憲章との関係を明確にすること
・条約の期限を明確にして条文に盛り込むこと

の3点を求めました。
特に気を使ったのは日本国内で米軍が勝手に行動を取らないようにすることでした。
そのために部隊の配置などの変更があれば日本に事前に知らせるだけでなく、協議することを
要求しました。
また、アメリカに守ってもらうだけではなく、日本に駐留する米軍は日本も防衛の負うということを明確にしようとします。「守ってもらう」ではなく「お互いに守り合う」ことで力関係の均衡化を目指し、日本の独立性を強めようとしたのです。

さて、これらの要求を受けて、新しい「安保条約」はどのような内容になったのでしょうか。

新「安保条約」の締結

1960年1月9日、新しい安保条約が結ばれます。
今回の正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との相互協力及び安全保障条約」になります。

サンフランシスコ講和条約締結と同時に結ばれた安全保障条約では、アメリカの日本防衛(義務)は明確にされていませんでしたが、新しい安全保障条約ではどうなったでしょうか。内容を簡潔に見てみましょう。

<新安保条約の内容>
・日本が侵略された場合にはアメリカ軍は支援義務があることを規定
・しかし、日本のアメリカ軍への協力義務ははっきり書かれていない
・日本と日本国内にある米軍基地に対する武力攻撃に対しては日米両国で共同で対処

これによって旧安保条約とは違い、アメリカ軍の防衛義務については明確にすることが出来ました。
また、何か在日米軍の配置の重要な変更、装備の変更など日本から行われる戦闘作戦行動で日本国内の基地
を使う場合は日本政府と事前協議を行うことが決まります。

協議

もちろん協議は建前ではなく、その結果日本が認められないことであれば、これらの軍の配置や装備の変更
ができないことになっているのです。
旧安保条約に比べて日本の独立性が強化されていることがお分かりいただけたのではないでしょうか。

ただ、1960年にこの新安全保障条約が締結されてからアメリカ軍が事前協議の場を申し入れてきたことは
未だに一度もありません。

これについて政府は「事前協議の申し入れはないので、配置や装備などの変更はない。日本から飛び立って行う戦闘作戦行動もないということである。」と説明しています。
しかし、実際には深夜でもアメリカ軍は戦闘機を飛ばしています。「事前協議」は機能しているのかどうか
常に疑いの目で見ていかなければならないかもしれません。

なお、この新しい安全保障条約に基づいて、「日米地位協定」も結ばれています。
拙稿「現代の沖縄と米軍基地問題」(URL:http://www.juku.st/info/entry/980)でもご紹介しましたが、
「日米地位協定」とはこの安保条約を根拠として、「米軍は日本を守るためにいるのだから、行動しやすいようにその地位を尊重しましょう」とするものです。

この「日米地位協定」があるために、米軍基地周辺で法を犯す米軍兵士がいても日本の警察は身柄を確保するのが困難になってしまうという障壁があるのです。
拙稿でもお伝えしましたが沖縄では現代でも、こうしたことが非常に大きな問題となっています。

まとめ

本稿では、「安保闘争が起こるまでに日本はどのような歩みを踏んでいたのか」を授業で生徒に理解してもらうために必要なポイントを詳しくご紹介してきましたが,いかがだったでしょうか?

読んでいただいて考えた方もいらっしゃると思うのですが、この日米安全保障条約は、昨今常に話題になっている「集団的自衛権」の問題とも、深いつながりがありますよね。
本稿では詳しく扱いませんが、「集団的自衛権」もつまるところ
”武力攻撃を受けた際にどのように同盟国間でそれに対処するか”であるので、安全保障条約と共通する部分があるのです。

つまり、「安全保障条約」を学ぶことは過去を知ることであると同時に、現代の我々の社会を見つめなおすことでもあるのです。
本稿では安保闘争が起こるまでの背景の部分しか説明できませんでしたが、次稿実際に「安保闘争」がどう
展開したのか、
そしてそれを学ぶことを通して現代社会の「集団的自衛権」を考えるためのどういうヒントが隠されているのかをお伝えしたいと思います。
本稿は以上です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!

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