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【高校日本史】日韓条約締結までの議論を分かりやすく紹介【論述にも応用可】

高校生

2021/12/17

日本と韓国~立場の違いをどう扱うか~

古代より日本と深い関係にあった朝鮮。

日本を古代史から学んでいくと、隣国朝鮮と日本は互いに影響を与え合ってきたことがわかります。

現代史では、こうした歴史の集大成として、戦後の日韓関係を勉強します。

戦後、互いの主張が対立したことは1度や2度ではありません。

それゆえ、これを取り扱う際は教育現場でも細心の注意が求められます。

例えば、歴史教育分野では日本と韓国の研究者が共同執筆した日韓共通歴史教材が出版されており、

歴史認識の分野から関係改善を図る努力がなされています。

しかし、この取り組みは始まったばかりで、まだまだ普及していないのが現状といえるでしょう。

成果や課題が上がるには時間がかかるのです。

本記事では、上記の問題意識から

意見がぶつかる難しい問題を授業でどう取り扱えばよいか

日韓条約をめぐる議論

の2点をわかりやすくご紹介します!

目次

1.双方の主張を提示する際の留意点
2.日韓条約への険しい船出
3.第2次世界大戦後の朝鮮半島
4.日韓関係改善の光が差し込みかけたが

1.双方の主張を提示する際の留意点

歴史を勉強すると、現代の解決していない社会問題にも必ず突き当たります。

ゆえに実際の授業でも扱う場面がやってきますが、その指導は決して容易ではありません。

たとえば、A・B2つの立場がある場面をイメージしてください。

2者の間で合意がされておらず、未だに大きな社会問題になっています。

こうした際、双方の言い分、見方を皆さんはどのように扱いますか?

扱い方としては大きく分けると以下の2つがあります。

①Aという立場とBという立場を並列して示し、残りは「生徒がどう考えるか」に任せる。
②Aという立場とBという立場を示し、最終的に「どちらかの立場に寄せる」よう指導する

結論から述べると、扱い方に正解はありません。

①のように並列しても、「やはりBは許せない」と生徒が排他的な結論を導き出す可能性があります。

逆に②にしも、行き過ぎると講師の意見を押し付けるものになってしまいます。

どちらを選ぶかは講師の皆さんの裁量次第です。本記事もそんな視点を持ちながら読んでみてください。

ちなみに筆者は、①の立場をとっています。日本と韓国、双方の立場を紹介したうえで

生徒が「自分はこの問題をどう見るか、そして今後日韓関係はどうあるべきか

を主体的に考えるようになってもらいたいからです。

よって、本記事もできる限り中立な視点から内容をお伝えしていきます。

<ここがポイント>

自分が授業を通して「伝えたいことは何か」「どの立場で内容を示すべきか」2つを考えておく

2.日韓条約への険しい船出

第2次世界大戦終結後、日本は約36年間植民地支配した韓国と国交を結ぶ交渉が必要になります。

しかし、関係を良くするはずの交渉は難航を極めました。

(順番は前後しますが)1953年に行われた日韓交渉での出来事で、韓国の怒りに火をつけてしまいます。

着火

きっかけは、当時日本側の首席代表を務めていた久保田貫一郎の一言でした。

彼は、約36年に渡る支配について、

「日本としても朝鮮の鉄道、港などを造り、農地を造成し、大蔵省からは1年あたり2000万円も出資した」

という主旨の発言をしました。

これを韓国は

「日本は植民地支配で良いこともした」

という主旨のものとして捉えます。

韓国代表は

「日本がしたことは韓国のためではなく、あくまで日本の利益が第一であり、そのお金を用いて警察や刑務所を作った」と強く反発します。

話し合い

先述した久保田貫一郎日本側代表による発言を「久保田妄言」と称し、

「日本は韓国併合という戦時における帝国主義政策を全く反省していない」

と大々的に抗議し、日韓交渉が決裂します。

久保田貫一郎の発言に「良いこともした」という真意があったかどうかはともかく、

その後も日本政府要人はしばしばこの旨の発言をし、韓国が反発する。

ということが繰り返されました。

<ここがポイント>

日韓交渉は決裂し、条約締結に向けての動きは難航を極めた

3.第2次世界大戦後の朝鮮半島

1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ、降伏します。

1910年の韓国併合依頼、日本の支配下にあった朝鮮半島も植民地支配から脱しました。

このポツダム宣言の中には、朝鮮を日本から切り離した上で、独立させる方針が含まれていました。

日本はポツダム宣言の要求を「無条件」で受け入れていたため、この方針も当然受け入れます。

しかし、日本の支配から独立しても、朝鮮半島に平和な状態が訪れる、という事にはなりませんでした。

すでに戦後の世界体制を巡る対立=「冷戦」への動きが始まっていたからです。

1945年、敗戦による日本の武装解除がされ、占領する好機と見たソ連は朝鮮半島の北から軍を進駐します。

「このままではソ連による支配体制が日本に出来てしまう」

とあわてたアメリカはすぐに南側から進駐し返しました。

最終的に朝鮮半島は北緯38度線を境目として南北に分断することで、両者は手を打つことになります。
(下の地図の赤い線が38度線です。)

朝鮮半島
これが現在につながる朝鮮半島の南北分離の歴史の始まりでした。

その後1948年に、北緯38度線以南を「大韓民国」以北を「朝鮮民主主義人民共和国」とし、正式に2つの国に分裂します。

ちなみに、1945年に現在の韓国側を支配することになったアメリカ軍は、朝鮮軍政庁を設置し、本格的に統治を開始します。

さらに、同年12月に日本の朝鮮半島の戦時に築いた財産を全て没収しました。

朝鮮半島における日本の財産は朝鮮人から巻き上げて築いたものと認識したからです。

この財産は最終的に、韓国政府へアメリカが譲渡しました。(1948年)

4.日韓関係改善の光が差し込みかけたが

1950年6月25日、北朝鮮軍が突如北緯38度線を越境し、韓国へと軍事侵攻します。

「朝鮮戦争」の勃発です。

韓国側はアメリカを筆頭とする国連軍、北朝鮮側は中国が支援し長期戦に入ります。

アメリカは西側資本主義陣営を守るために重要な事を模索します。具体化すると、

「東アジアにおいてアメリカの影響力を強く出し続け、社会主義陣営と対抗していくためにはどうすればよいだろうか?」

という模索です。

その結果、日本と韓国の密接な協力関係が重要であると結論付け、日韓関係の改善へ動き出しました。

1952年2月、朝鮮戦争が続く中、第1回日韓本会談が始まります。

この会談では韓国が日本に対して賠償を請求しました。

賠償:日本が戦時植民地支配によって被害を受けた国民への損害賠償のこと。
一方日本は、戦後アメリカに没収され、韓国政府へ譲渡された日本の財産を返還するよう要求します。

お互いの要求を相殺する事がその目的でした。

つまり、この段階で日本政府は「賠償」を払おうとしていなかったのです。

それはなぜか。「賠償」という概念が深く関わっています。

本来、「賠償」というものは戦勝国が敗戦国に対して要求するものです。

日本は韓国と直接戦争をしていたわけではないので、「賠償するものはない」というのがその主張でした。

また「賠償」を認めると、韓国に対して不当な事をした、というのを公に認めることにつながります。

日本政府は「韓国併合」を(手続き上は)合法のものと主張していました。

これと矛盾することも恐れていたのです。こうして、関係改善に向けた継続的な交渉は叶いませんでした。

また、先述した1953年の「久保田発言」により、関係がより悪化するなど難航を極めます。

<ここがポイント>

日韓交渉への光が差し込みかけたが、「賠償」をめぐる対立で交渉は難航した

まとめ

本稿では、戦後日韓関係の出発点を中心に、その条約を結ぶまでの道がいかに厳しいものであったか

をご紹介しました。

戦時に植民地支配をした側とされた側2国の関係を改善することは並大抵のことではない

というのが、ご理解いただけたと思います。

次稿は難航した交渉の末に、日韓条約が締結されるまでのプロセスをご紹介します。

以上です。ここまでお読みくださりありがとうございました!

<参考文献>
・高崎宗司『検証 日韓会談』(岩波書店、1996年)
・姜 在彦『日本による朝鮮支配の40年』(朝日文庫、1992年)
・海野福寿『韓国併合』(岩波新書、1995年)
・朝日新聞戦後補償問題取材班『戦後補償とは何か』(朝日新聞社、 1999年)

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