長きにわたる戦い、休戦へ
前記事「朝鮮戦争の指導法③『激戦』」(URL:http://www.juku.st/info/entry/1099)では、北朝鮮の軍隊に追い込まれた韓国・国連軍がいかにして戦局を転換させたか、また、その後の進撃で北緯38度を越境して北朝鮮に攻め込んだ結果、どのような事態が起こったかについての指導法をご紹介しました。
簡単におさらいをします。
1950年7月末、朝鮮半島最南端の釜山まで追い詰められた韓国・国連軍は韓国の存亡をかけて必死に戦っていました。北朝鮮もあと一歩というところまで攻め、最後のとどめを指そうとしていました。
しかし、ここで本国との距離が遠いこと、そして補給路を空爆されたことによって物資の補給が滞ってしまいます。その結果、攻めあぐねることになり、国連軍は仁川から250隻の船と4万人の兵士を送り込み、包囲する作戦に成功します。
北朝鮮軍はこの攻撃によって総崩れになり、バラバラになって北朝鮮へ逃走します。これを国連軍は追撃し、ソウルを奪還し、38度線を越えて北朝鮮へと進軍します。
今度は、韓国・国連軍が中国国境近くの朝鮮半島最北端まで北朝鮮を追い詰めます。
いよいよ戦争の勝利が見えてきた頃、中国人民義勇軍との武力衝突が起こります。
再び劣勢に立たされた韓国・国連軍はピョンヤン、そしてソウルを奪還されるもなんとか耐えしのいでソウルを取り返し、38度線を境目に、単発的な武力衝突を繰り返していました。
ここまでが前項でお伝えした内容でした。韓国・国連軍のピンチから戦局の転換、そして北への快進撃、中国軍の参戦による戦局の再転換など複雑に入り組んだ戦況であったということがお分かりいただけだと思います。
前稿の最後の部分でも述べたのですが、この朝鮮戦争が長期化した背景・理由を細かく追っていかなければ
それが日本の「特需景気」にどのような影響を与えたのかの全体像が見えてきません。
戦後日本の高度経済成長に先駆けて、朝鮮戦争時にどのような経済的影響があったのかをしっかり理解しなければ、その後の時代の歴史認識でも因果関係が見えにくくなってしまうからです。
本稿では上記のような問題意識から、
朝鮮戦争が日本にどのような経済的影響を及ぼしたのかを生徒がしっかり理解できるような指導法をご紹介します。
3度目の原爆投下は起こり得た
北緯38度線を境目に単発的な軍事衝突を繰り返し、中々先が見えない戦況に憂慮している国連軍司令官が
いました。日本の間接統治の総司令官としても有名なタグラス・マッカーサーです。
マッカーサーは軍司令官、戦線がなかなか好転しないことを解決しなければならないという責任を感じていました。
そこで、広島・長崎への投下によってその破壊力が証明済みであった原爆の使用を考え、当時の米大統領トルーマンに対して原爆の投下の許可を求めます。
しかし、広島・長崎への原爆投下はその後の国際世論に大きな影響を与えていました。
被害の規模の詳細は拙稿「第2次世界大戦の指導法『第2次世界大戦の終戦』」(URL:http://www.juku.st/info/entry/1070)という記事をご参照いただきたいのですが、莫大な数の犠牲者を出した原子爆弾は国際的にも簡単に投下することは出来ないという考え方が出来上がっていました。
結果的に、トルーマン大統領は、危険な考えを持っているとして、要請をしたマッカーサー本人を解任する荒業を用いてこれを断りました。戦争が起こっている最中での軍司令官を解任するという極めて異例の出来事でした。
指導する際にはこのように、必ず戦時と戦後の繋がる部分を提示してあげるようにしましょう。
広島・長崎への原爆投下がその後世界情勢に与えた影響をしっかり理解させることで、1945年の8月6日と8月9日の2つの出来事の本質が見えてくるからです。
休戦へ
さて、戦況の膠着状態は続き、ついに1951年7月に休戦会談が開始されます。
この休戦を呼びかけたのはソ連でした。双方ともに限界を超えて戦っていたため開催が決定します。
北側:北朝鮮と中国
南側:韓国と国連軍
が代表として会談の席につきました。しかし、元々話し合いで解決ができないから起こっていた戦争は簡単に
収拾がつきません。北と南は激しく対立してしまい、すぐに休戦会談は中断します。
その後も交渉は難航を極めますが、それでも2年をかけて少しずつ前進し、最終的に
1953年7月27日に休戦協定が締結されます。
その内容としては
①北緯38度線を軍事境界の境目とし、分割すること
②境界線の南北2Kmは緩衝地帯として非武装とする
という事が決められました。しかし、①の内容は正確には北緯38度線ではなく、それぞれ北と南の軍隊の支配が及ぶ範囲で線が引かれました。
地図帳でもご確認頂きたいのですが、北緯38度線をよくたどると、北朝鮮側につきだしているところも韓国側につきだしているところもあるのです。
朝鮮戦争の日本への影響
さて、ここまで確認した所で本稿の本題に入っていきたいと思います。
まず、1945年戦後直後の日本の状態から確認します。
戦後直後、戦時の空襲によって家を失った人は約900万人以上、その他にも食料不足による栄養失調や病気になった人がたくさんいる状況でした。また、戦争物資のために、森林の木々も大量に伐採し、そのまま放置していたため森林に保水能力がなく、強い雨が降れば大洪水となりそのたびに住民の安全面にも、経済的にも多大な被害を生み出しました。
さらに海外からの約600万人の復員が国内に戻り、需要が足りないのに供給が増え続けてしまい、戦後インフレが進行していました。こうした状況に対して、政府は新円切替をしたり、GHQによる農地改革などで対策を行いますが、朝鮮戦争が始まった1950年はまだまだ経済復興には道半ばの状況でした。
ところが、この朝鮮戦争が勃発したことにより、日本には様々な需要が生まれます。
戦時中であれば、国連軍の兵士の軍服に必要な布、寝るための毛布、そして軍需物資を包むための麻袋に注文が殺到します。これによって戦後息も絶え絶えになっていた繊維産業が再び輝きを取り戻しました。
さらに、実際の戦闘で使うためのトラック、有刺鉄線、鉄柱などの重工業へも需要がきます。
前稿でも述べたとおり、この戦争は、約2年に渡る長期戦になっていました。そのため、その期間の需要で日本経済はかなり潤っていたのです。
さらに、朝鮮半島で戦った国連軍の兵士が休暇を日本で過ごすことで、消費が拡大します。
戦後も、復興に必要な鉄などの復興資材を輸出することになったため、この需要は大きな経済効果をもたらしました。また、戦後10年にも満たない時期であったことから、国民には戦争へのタブー意識が浸透していました。
このような背景もあるので、これを「(朝鮮)戦時需要」とは呼ばずに「特別需要」と呼びます。
まとめ
本稿では前稿に引き続き、激しく争っていた朝鮮戦争がやっと休戦へ動き出したかと思いきや、交渉が難航したことをご紹介しました。
交渉が難航したことによって長期化がおさまらないという状況が、日本の経済にも大きな影響を及ぼしていたというのが本稿を通してお分かりいただけたのではないでしょうか。
朝鮮戦争という、同じ民族が血を流しあうという非常に悲惨で不幸な戦争は、日本に大きなプラスの経済効果をもたらしました。なんとも評価しがたい事ですが、この因果関係をしっかり学べるよう指導していただけたらと思います。本稿は以上です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!