湾岸戦争の展開
前稿「【日本近現代史】湾岸戦争に日本はどう関わった?~現代を読み解く視点~」http://www.juku.st/info/entry/1216
では、1990年に起こった湾岸戦争はどのような背景で起こったのか、そしてそれは戦後の世界秩序の何を意味していたのかという部分の指導法をお伝えしました。
本稿から読んでくださる方もいると思うので、内容の部分を簡単におさらいします。
1990年8月イラクの軍隊がクウェートへと侵攻しました。
現在はイラク、クウェートは別々の国になっていますが、オスマン・トルコ帝国時代は、イラク、そしてクウェートを含む地域は同じ領土になっていました。
それが20世紀における第一次世界大戦などによって、両国はイギリスの支配下にはいります。
最終的に1961年までに両国とも独立をしますが、再び両国が1つとなることはありませんでした。
そのような中で、1979年、サダムフセインがイラクで大統領に就任し、翌年さっそく革命によって国内が混乱に陥ったイランに戦争をしかけます。(イラン・イラク戦争)
最初こそイラクが押し気味の戦いでしたが、その後はイラク・イラン双方ともに決定打を欠いたため、8年間にわたる長期戦となります。
イラクはペルシア勢力からアラブ民族を守るためと理由をつけて戦い始めましたが、イラクの軍事侵略を正当化するこぎつけの理由であることが見え見えだったため、他国から支援は受けられませんでした。
こうしたプロセスを経てイラクは他の中東、特に隣国のクウェートが協力しなかったことに強い不快感を示します。そして地理的・経済的な理由からクウェートの港湾を手中に収めたいイラクがついに1990年、クウェートの侵攻に乗り出しました。
ここまでが前稿でお伝えした内容面です。ここから、いよいよ国連が動き出し、アメリカをはじめとする他国が関係してくる戦争になります。
日本はそうした動きの中で、どうして最終的に湾岸戦争に関係することになったのでしょうか。
本稿では、この点を理解するために
湾岸戦争の展開に世界はどう関係していったか
を生徒がしっかり理解できるような指導法をご紹介します。
激しい国際的批難の中で
1990年8月3日国連の安全保障理事会は、イラク軍の侵攻に対し、無条件で撤退するよう求める決議を採用します。その後には経済制裁を行うなど、イラクの行動に対して歯止めをかけるための非難決議が次々と出ました。
そして、同年11月29日に「1991年1月15日までに撤退しなければイラク軍を排除するために必要なあらゆる手段を用いる」という内容の、言わば”最後通牒”を出します。
イラク軍がクウェートから撤退しなければ武力による撤退を行わせるという圧力をかけたのです。
これによって、いよいよアメリカを中心とする多国籍軍が、この中東での出来事に参加する準備が整います。
イラクの対応
このような動きに対して、当時のイラク首相フセイン大統領はどのような反応を示したのでしょうか?
1990年8月13日、国連の無条件撤退の勧告に対し、「イスラエルの占領地から軍を撤退すること」
という条件を、逆にイラクがクウェートから撤退する条件として要求してきたのです。
イスラエルの問題を出すことで、「イラクとクウェート間の問題」から「アラブ勢力VSイスラエル」という構造にすり替えようとしたのです。(またイスラエル、パレスチナ問題については別稿で詳しくご紹介します)
前稿でも、イラン・イラク戦争で戦う理由を「ペルシア勢力からアラブ勢力から守るため」として、周辺各国を強引な形で巻き込もうとしたイラクでしたが、今回もそれと似た手法を使いました。
この呼びかけに対して、イスラエルに土地を占領されて難民となった組織のPLO(パレスチナ解放機構)はイラクを支持する態度を見せますが、それ以外のアラブ民族の周辺諸国はイラクの押し付けがましい要求を無視します。
問題をすり替えようとしていたことが明白であり、イラクがはじめた戦争に、巻き込まれるわけにはいかないと冷静に捉えていたからです。
イラクを支持する側に回ったPLOはそれまで資金援助をしていたサウジアラビアを怒らせ、援助が打ち切られる事態を招きました。
多国籍軍と国連軍
イラクはクウェートへの侵攻にイスラエルを巻き込むことに必死でした。
何度もイスラエルにミサイルを打ち込んでイスラエルに死傷者を出します。イスラエルは報復行動に出ようとしますが、それではイラクの思う壺であると国連がイスラエルを説得し続けます。
そして、いよいよ期限がやってきます。アメリカを中心とする多国籍軍がイラクとの戦いへと動きます。
具体的な中身に入る前に、生徒がこんがらがってしまう部分なので用語の確認をしておきましょう。
例えば、1950年の朝鮮戦争を思い出してみてください。北朝鮮から突如北緯38度線を越えて南下した北朝鮮軍に対し、国連は韓国軍を援助するために国連軍を派遣しましたよね。 (拙稿「朝鮮戦争の指導法②「開戦初期の動き」URL:http://www.juku.st/info/entry/1090)
この時の国連軍もアメリカを中心とした16カ国の複数の国家による軍隊でした。
今回の多国籍軍においても、中心がアメリカであるのは同じで、イギリスやフランスなど計28カ国がこれに参加しています。兵士数合計約84万人のうち約53万人がアメリカ軍兵士であることからも、アメリカを中心とした構成になっていることがお分かり頂けると思います。
多国籍軍というのは、国連軍のように軍を編成するために1つ1つ正式な手続きを踏む必要がありません。
つまり、中心となる国(この場合はアメリカ)が司令官を出すため結成が早くなるかつ指揮の系統も明確に成るというメリットが有るのです。
国連軍であれば、国連の規定に基づいて、参加する国のどこが司令官を出すのかなどの確認作業を行わなければなりません。ただし、費用に関しては国連軍であれば国連が負担しますが、多国籍軍は各国が費用を負担するという形になっています。
作戦開始
国連が撤退しなければ必要なあらゆる手段(≒武力制裁)を用いると設定した1月15日までにイラク軍は撤退しませんでした。よって、1月17日ついに多国籍軍による空爆が開始されます。
戦いが始まってから約1カ月の間はB52や、レーダー電波を発信源に反射させないような機能を持つステルスという爆撃機を用いて徹底的に空爆を行いました。
多国籍軍は主要な基地だけでなく、軍隊に対して迅速に命令を出すための通信施設をわずか数時間で徹底的に破壊することに成功します。通信施設を破壊されたイラクは国内からクウェートにいる軍隊に命令を伝えるために片道で48時間をかけて人から人へ伝えるしか方法がなくなりました。
こうなるとすでに勝負の結果が見え始めていますが、その後も多国籍軍は徹底的に空爆を行い、イラク軍を弱体化させていきます。
空からの攻撃で戦車やミサイルをあらかた破壊しつくし、2月24日から地上戦に踏み切りました。
ここでもアメリカが得意とする陽動作戦を用いて、イラク軍の背後から回り込むことに成功します。
度重なる空爆で限界を超えていたイラク兵に、もはや戦う力は残されていませんでした。
多国籍軍を前に、多くの兵士が降伏します。地上部隊はほとんど大きな戦いもなく進軍することができ、約4日間でイラク軍をクウェートから撤退させることに成功しました。
まとめ
本稿では、イラクが国際世論をいかにかわそうとしたのかという部分からクウェートから軍を撤退させるまでの間の過程を指導する方法をお伝えしてきました。最後に指導のポイントをまとめます。
テーマ:湾岸戦争開戦!多国籍軍はいかにしてイラク軍を撤退させたか?
○国連の決議
(1)クウェートから無条件で撤退しなさい
(2)期限を守らなければ・・・
○イラクの対応
(1)「イスラエルが関係しています」
(2)支持したPLOと無視したアラブ諸国
○国連軍と多国籍軍の違いって何?
(1)国連軍とは
(2)多国籍軍とは
○作戦開始、そして
(1)湾岸戦争開始~徹底した空爆~
(2)地上部隊の投入
という順番で説明をすれば生徒は湾岸戦争の過程をしっかりと理解することができると思います。
本シリーズは「湾岸戦争に日本はどう関わった?」というタイトルにしているにも関わらずまだ日本が登場していません。
マクロの視点で湾岸戦争を取り巻く国際情勢がなければ、日本への影響もつかみづらくなってしまうという理由から国際情勢から取り上げています。
次稿は本稿までの内容を踏まえて日本の現代社会にどのような議論を巻き起こしたのか、いよいよ日本との関連に入り込んでいきます。
本稿は以上です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!