湾岸戦争が残したもの
前稿「湾岸戦争に日本はどう関わった?~現代を読み解く視点②~」
http://www.juku.st/info/entry/1226
では、湾岸戦争が開戦してからどのような経過をしていったのかという点について、国際情勢と1つ1つ関連付けた指導法をご紹介しました。
本稿はいよいよタイトルの通り、日本が湾岸戦争にいかに関わっていたのかという部分についてご紹介したいと思います。
本稿に繋がる内容なので、簡単におさらいをします。
クウェートに侵攻したイラクに対して、国連は直ちに無条件で撤退をするよう要求しました。
経済制裁などを行うことで、圧力を強めていきますが、イラク軍撤退への決定打には欠けていました。
最終的に「期限を守らなければ武力行使もありうる」ということを決議します。
イラクはイスラエルを巻き込むことによって、アラブ勢力を引きこもうとしますが、それも上手く行きません。結局期限である1990年1月15日を過ぎてもイラクは軍を撤退させなかったため、湾岸戦争が開戦することになります。
戦争開始後すぐに、多国籍軍はイラクの重要な通信施設や武器庫を破壊することに成功し戦局を有利に進めます。空爆によって、イラクにダメージを追わせた上で多国籍軍はさらに地上部隊を投入しました。
すでに力を使い果たしていたイラク軍兵士は次々に降伏し、4日間の攻防でクウェートから撤退させることに成功します。
ここまでが前稿でお伝えした内容面です。
本稿ではこれまでの内容を踏まえて本シリーズの最終目標である
この戦争に日本はどう関わっていたのか、そしてどう影響を受けたのか
という事を生徒がしっかり理解できる指導法をご紹介します。
湾岸戦後
フセイン大統領が就任してから掲げていた新バビロニアのような大帝国を作るという野心が、多国籍軍との戦いですぐに崩れ落ちました。
戦いに負けたイラク軍は、クウェートから引き上げる際に悔しさの晴らしどころをあらぬ所へ向けました。
クウェートにある油井という石油を貯めておく施設に次々と火を放っていったのです。
油井という漢字を見てもわかるように、”石”油の”井”戸=莫大な石油が炎で燃え上がり深刻な環境汚染につながりました。
石油が燃え上がった空には黒い雲がかかり、石油を伴う雨が降れば生態系に大きな悪影響を及ぼします。
何とも引き際の悪い行動で、後味をいっそう悪くしてしまいました。
湾岸戦争後のイラク
通常なら内外の批判から大統領職の辞職を自ら願い出るような状況ですが、イラクのクウェート侵攻に踏み切ったフセイン大統領は、湾岸戦争後も大統領の地位に居続けました。
しかし、戦争の結果に対して、反発や不満を持つ勢力も増えていました。その代表がイラク北部に拠点を構えるクルド人です。イラク国内において自分たちの国を作ろうとしていた彼らは北部で反乱を起こします。
こうした反フセイン派の動きに対して、フセイン大統領は戦後わずかに残った軍隊を利用し、徹底的に弾圧をします。その後もひとたび、反フセインのクーデターを起こすような情報を聞きつければ、軍関係者や幹部であっても処刑を行い、その独裁力を見せつけました。
こうした状況を聞きつけた、アメリカ・イギリス・フランス(湾岸戦争時、多国籍軍の主要構成国)3カ国はイラクのクルド人に対する弾圧を阻止するために動き出します。
まず、1991年4月にイラク北部に「クルド人保護区」を設定しました。そしてクルド人保護区に武力を用いないよう、彼らの生活拠点であるイラクの北緯36度より北にイラク軍機の飛行を禁止します。
そして、禁止した領空を飛行したイラク軍機は実際に3カ国の軍によって撃墜されました。
アメリカ・イギリス・フランスはこれ以上新たな火種が燃え上がらないようにすることに全力を注いだのです。
日本はどう関わったか
さて、いよいよ本シリーズのタイトルでもある湾岸戦争と日本との関わりについてどう説明するか、本題に入りたいと思います。
まずは、
前稿「湾岸戦争に日本はどう関わった?~現代を読み解く視点②~」
http://www.juku.st/info/entry/1226
において国連軍と多国籍軍の違いをご確認頂きたいのですが、多国籍軍とは中心として動く国、司令官などを簡単に決められるため動き出しに時間がかからないメリットがある反面、それに伴う費用は参加国が負担しなければならないという財政負担があるということをご紹介しました。
これが、ここで活きてきます。
どういうことか以下ご紹介します。
まず、戦争というのは経済に多大な負担がかかります。命がけで戦う兵士に対しての安くない人件費、そして戦地に赴くまでの渡航費、滞在費、武器などの諸費用、これらを合計するととても高額になります。
戦争に加わった多国籍軍各国も国内的に、戦争に多額の支出を計上する以上は風当たりが強くなる事は容易に想像がつきました。
貧困層からすれば戦争よりも、社会保障にもっと予算を回すべきだと不満を持ちますし、多額の経済負担を踏まえれば勝ち戦であっても戦争に参加するというのは大きなリスクを伴うものなのです。
金銭の負担は誰がするのか
そこで、多国籍軍の中心であったアメリカは日本に対して資金援助を強く要請しました。
アメリカの言い分としては「日本も中東地域で採掘される石油によって経済が成り立つ=恩恵を受けているのなら金銭面を負担するべきだ」という事でした。
確かに日本は1990年段階で自動車を中心として石油が産業に大きく関わっており、石油が輸入できないことによる経済へのダメージは計り知れないものであったはずです。
とはいえ、日本はこの戦争において第3者的立場であることも確かでした。
日本の国際協力のあり方をめぐり、国内では議論が沸騰します。お金による経済力でいいのか、それとも別の形があるのではないかというものです。
この当時の議論では、金銭面で負担をするのなら何に対していくら分負担をすべきかという国内での議論があってしかるべきだったと批判が出ました。日本政府のお財布は国民の税金で成り立っているからです。
しかし、結局実際にはどのような目的で何に使われるのかがはっきりしないまま日本は米ドルにして約130億ドルにものぼる多国籍軍への支援金を支出しました。全戦争費用の約2割を日本が負担したのです。
日本はどう位置づけられたか
戦後のクウェートの新聞では、多国籍軍をはじめイラク軍撤退への支援国に感謝の記事を掲載しましたが、そこに日本の国名はありませんでした。これだけの戦争費用を支出したにも関わらず、ほぼ関わっていない国として扱われてしまったのです。
さらに、米国からは「多国籍軍の兵士は命をかけて戦っているのに同じ石油の恩恵を受ける日本はお金を払うだけで良いのか」と日本の関与の仕方に批判を受けます。
よく国際世論から激しい批判を受けたという見方をしている生徒がいますが、基本的にはこの金銭面での負担に疑問を呈したのは主にアメリカであるということをしっかり確認させるようにしましょう。
その上で、130億ドルもの負担をした日本は批判を受けてしかるべきかどうか、考えさせてみても良いかもしれません。
話を戻します。これを機に湾岸戦争後、日本国内では「国際貢献」のあり方について再度議論が起こります。
こうした中で政府はペルシア湾に残る機雷を除去するために海上自衛隊の掃海艇部隊を出動させます。
その後も1992年に国連PKO協力法が成立し、自衛隊の海外派遣を行うなど国連が行う平和活動に日本は積極的に参加するようになります。
(PKOとは紛争の平和的解決を目的に国連が行う活動のことで、具体的に紛争拡大の防止、停戦の監視、占拠の監視などを行います)
国際平和のために日本ができることとは何か、湾岸戦争の歴史を学ぶことは現代の集団的自衛権を考えるための材料にもなるのです。
まとめ
本稿はこれまでのシリーズの内容の総まとめとして、日本が湾岸戦争にどう関わったのかわかりやすく説明する方法をお伝えしましたがいかがだったでしょうか。最後にポイントをまとめると、
テーマ:日本は湾岸戦争にどう関わった!?~資金面と戦後の動きより~
◯湾岸戦争後のイラク軍
(1)悔しさの余り起こした環境破壊
(2)クルド人保護区との関係
◯日本は戦争にどう関わったか
(1)「日本も石油の恩恵を受ける国ならば・・・」
(2)130億ドルは全戦争費用の何%?
◯湾岸戦後の日本
(1)クウェートの新聞記事に日本の名前は?
(2)「お金だけ払って済ませるのか」
(3)今問われる国際貢献のあり方とは~日本は国際平和に何が出来るのか~
という順番で説明をすれば、生徒は現代にも深くつながっている問題であるということが理解できると思います。私の指導法はあくまで一例ですが、湾岸戦争を取り扱う際に何かの参考になれると思います。
長くなってしまいましたが本シリーズは本稿をもって完結です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!
【日本近現代史】湾岸戦争に日本はどう関わった?~現代を読み解く視点~シリーズ
・第1回 http://www.juku.st/info/entry/1216
・第2回 http://www.juku.st/info/entry/1226
こちらも合わせてお読みいただけると、理解がより深まると思います。