古代日本における中国との関係
「遣唐使(もしくは遣隋使)」という言葉を聞くと皆さんはどのようなものをイメージしますか?
聖徳太子」が派遣した遣隋使小野妹子に持たせた国書で煬帝を怒らせたことや、894年に菅原道真の建議によって遣唐使廃止を決定したことなどでしょうか。
日本史の古代における隣国中国との関係は、当時の日本の動きを理解するにあたってとても重要な要素になっています。
前述した「聖徳太子」の遣隋使によって、強国隋と対等な関係を結び、外交関係上の立場を強くすることに成功しました。
そして618年、中国により強大な王朝「唐」が誕生したことで国内では天皇を中心とする中央集権国家を目指す大化の改新へとつながります。
また、701年には完成する大宝律令をベースにした律令国家体制、そして唐に習った奈良の都平城京を作り上げました。
こうした国家整備のための知識、都のあり方等を当時の日本に伝えたのが本稿で扱う「遣唐使」です。
何故「遣唐使」に着目したのかというと、
1.近年の古代日本史は東アジア国際情勢と関連付けた研究がより盛んになっていること
2.その流れを受けて「東アジア史の中の日本史」という位置づけが、入試でも数多く問われるようになっ
てきている
からであり、そのことを理解するために「遣唐使」の中身をしっかり追うことが有効であるからです。
以下で詳しく述べていきますが、「遣唐使」の役動きに着目して当時の東アジア国際情勢を見ていくことは、古代における日本史の理解をより深めることにつながっていきます。
本稿ではこうした問題意識から、
「遣唐使」を派遣する背景や意義を学ぶことで、東アジア史の中に日本史がある
という位置づけがしっかりできるような指導法をご紹介します。
遣唐使とは
まず、遣唐使とは一体何なのか。その点から確認しましょう。
遣唐使は630年~894年まで続いた日本から唐におくった派遣使節の事です。途中中止になった遣唐使も含めると合計で約20回派遣が計画されました。
その主たる目的は、遣唐使を通してそれまでの遣隋使以上に、唐から最新の文化、先進技術を学ぶことにありました。
留学生の平均留学期間は約20年となっており、唐での長きに渡る留学生活を終えた者の帰国後の出世は約束されていました。それほど、当時の国家にとって必要とされていた存在だったのです。
唐の全盛期と官吏登用システム
それでは、その留学先とされていた「唐」はどのような王朝だったのでしょうか。
700年代の初め、唐はその長い王朝の中でも全盛期を迎えることになります。「盛唐」と呼ばれる時期です。
この時期、唐は自国の進んだ文化であったり、財宝を周辺諸国に分け与えることで従わせていました。
このような外交政策が功を奏し、隋の時代まではよく起こっていた国同士の争いが減り、唐を中心とする東アジア国際情勢に変化が現れていました。つまり、大きな帝国であった唐は東アジアの「秩序」となっていたのです。
遣唐使を違う角度から見るために、唐の官吏登用の仕組みを見てみましょう。
唐は、強い国家を運営していくために、優秀な人材を集めるシステムを作っていました。これが有名な
”科挙”というものです。
科挙というのは、家柄や身分に関係なく、能力のある者を役人として登用するために行った試験の事です。
つまり、家柄が貧しいものであっても出世をして高い給料を得るチャンスを持っていたのです。
しかし、その分合格率も桁外れです。当時の受験者数と合格者数を比較してみると最終試験を合格できるものはわずか1%~2%という数でした。
科挙の試験をパスした日本のエリート
何故この科挙をここで紹介したかというと、この科挙の試験に合格し、唐において皇帝玄宗に気に入られて、出世をした日本の阿倍仲麻呂という人物がいるからです。当時の科挙は唐人以外の異国人にも官僚への道を開いていました。
阿倍仲麻呂はその有能さ故に、玄宗皇帝に大いに気に入られ、日本への帰国が認められずに生涯唐の官僚として務めを果たすこととなります。
日本史だけでなく古文でも出てくる以下の様な歌があります。
「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」
引用元:『古今集』
これの訳は「天を仰いで遠くを眺めれば月が登っている。あの月は(奈良にある)三笠の山に登っていた月と同じなのだなあ」という意味なのですが、月を見ながら祖国の日本を思っていることが伝わってきますよね。
講師の方向けの記事なので、この阿倍仲麻呂が何故官僚になろうとしたのかという点について最近の研究動向からもう1つだけお伝えします。
当時、留学生が留学している間にかかる食費、学費、住むための費用は唐が負担していました。
しかし、多くの国からたくさんの留学生が来るために、その期間を10年間に限定します。
そのため、留学生の平均留学期間が20年である日本からの留学生は、残りの10年間は自分の力でこれらの費用を稼がなければなりませんでした。
長安という都にはシルクロードから運ばれてくる荷物の受取や、取引、土木、建築など今で言う”求人”は色々ありました。
阿倍仲麻呂が科挙の試験を受けたのには、こうした経済的な事情もあったのではないかという見方がされているのです。
こうした事を知っておくとより唐の経済力や遣唐使の中身を生徒たちに伝えることが出来ると思い、ここでご紹介しました。
遣唐使が日本にもたらしたもの
さて、唐に派遣された遣唐使たちは、日本にどのようなものを持ち帰ったのでしょうか。
指導のポイントを3点ご紹介いたします。
①政治面
前述したとおり、日本は天皇を中心とした中央集権国家体制を目指していました。
遣唐使であった留学生・僧は国家を運営していくための仏教や法律などの最新の学問成果を国内に持ち帰ったとされています。また別記事で詳しくご紹介しますが、律令体制などがその最たるものです。
②仏教面盛唐文化の影響を強く受けた天平文化の正倉院の宝物に多くの仏教経典が残されていることから、仏教の経典が数多く輸入されたことが分かっています。
当時、仏教というのは国を豊かにするための”科学”と考えられていました。盛唐文化の影響を色濃く受けた聖武天皇が仏教の力で国を守ろうとしたのにはこうした背景もあったのです。
③医療面
医療面においては、患者や怪我人をどのように治すのかという医術、薬の知識がもたらされました。
この技術を取り入れることによって、当時日本で流行っていた天然痘等の疫病を拡大しないためにはどうすればよいのか、そして戦乱等の後の兵士の治療方法にも役立ちました。
まとめ
本稿では、東アジアの中の日本史という位置づけを生徒に認識させるために、どう指導すればよいのか。
「遣唐使」を視点として学ぶ方法をご紹介しましたがいかがだったでしょうか。
指導のポイントをまとめると
テーマ:日本はなぜ遣唐使を派遣した?~東アジアにおける日本と唐の関係~
◯古代における日本と中国の関係
(1)古代日本にとっての中国
(2)復習~遣隋使と大化の改新~
◯遣唐使への視点
(1)遣唐使とは
(2)唐とはどのような王朝だったのか
(3)唐での留学生活
◯超難関!唐の官吏登用システム
(1)科挙とはなにか
(2)科挙の開かれた可能性
(3)超難関を通り抜けた阿倍仲麻呂
◯遣唐使が日本にもたらしたもの
(1)政治面
(2)仏教面
(3)医療面
という順番で説明をすれば、生徒は遣唐使を通して当時の東アジア国際情勢を踏まえた日本史の姿に迫ることが出来ると思います。
日本史というのは意図せずとも一国史の視点で見てしまいがちなものです。
本稿ではそうした視点を一度取り外し、生徒に違った角度から古代を見させる方法をお伝えしたいという思いから執筆しました。以上です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!