歴史の流れの中で
前稿「【重要テーマ】「天安門事件」をどう教えるか」では、天安門事件の背景として、学生や若者は何故民主化を要求することになったのかという部分の指導法をご紹介しました。
【重要テーマ】「天安門事件」をどう教えるか
http://www.juku.st/info/entry/1274
本稿に繋がる部分なので簡単におさらいします。
1989年6月4日、中国北京の天安門広場でハンガーストライキをしていた若者たちを、中国人民解放軍が取り囲みました。合図を皮切りに、一斉に広場へと軍隊が突入します。丸腰の人民に対し、装甲車や戦車などフル装備の軍隊が若者たちを襲いました。
「人民解放軍」とは、中国共産党直属の組織であり、共産党の指示のみで動く軍隊です。
つまり、これを計画、実行したのは中国共産党であったというわけです。
文化大革命が終わった後、中国は経済の改革・開放路線によって農業が発展を続けていました。
しかし、市場を開放して海外からの知識や文化を輸入することによって言論の自由・政治の民主化という考え方も入ってきます。これによって、共産党の独裁体制に不満を持つ若者が民主化運動を始めることになりました。
ここまでが前稿でお伝えした内容です。
中国国内で毛沢東による大躍進政策や文化大革命を公然と批判する文章が掲載されるようになり、言論の自由が認められていた「北京の春」はあっという間に終わってしまいます。
それは一体何故だったのか。
本稿では前稿の内容をふまえて
「天安門事件」がその後の中国や日本との関係に与えた影響
をしっかり生徒が理解できるような指導法をご紹介します。
鄧小平の考え方
鄧小平は当初、毛沢東やその政策を批判する論文が掲載されていることに対して、寛容な態度を示していました。
それはなぜかというと、この時はまだ毛沢東の後継者である華国鋒が共産党の首席に座っていたからです。
つまり、華国鋒を批判する風潮が盛り上がって追い落とす流れが出来るのであれば、鄧小平にとって有効であると考えたためだと言われています。
しかし、鄧小平が共産党の首席になって権力を握るようになると、鄧小平への批判の内容も現れるようになってきます。自身へのこうした状況を目につけた鄧小平は態度を一変させます。
鄧小平はこの後一貫して「経済の改革は進めるが民主化を求める動きは封じ込める」という考えを軸にしています。共産党による独裁体制は維持すべきとしていたからです。
この批判の風潮に対しては、共産党の支配を危うくする運動につながることを恐れたからか(実際にそうなります)、はたまた華国鋒から権力を奪い取って必要なくなったからなのか、はっきりしていません。
ですが、鄧小平は批判の動きへの弾圧に動き出しました。
批判する風潮の文章、論文は全て回収して廃棄させ、この運動の中心人物であった魏京生を逮捕しました。
彼は言論の自由を訴える運動の中核を担っていたため、この逮捕劇は運動に大きな衝撃を与えました。
その後も、自由化や民主化の動きが出る度に、鄧小平が裏で操る共産党がこの動きに弾圧を加えていきます。
しかし、この段階での弾圧では、エネルギッシュな若者たちによる民主化を求める運動は中々止められません。
1986年の12月に科学技術大学という大学で行った学生による「民主化」を求める集会は、その後大陸内の約150の大学に同様の動きを見せる学生が現れるほど影響力のあるものとなりました。
鄧小平と胡耀邦と趙紫陽
ここで、本稿の登場人物である共産党の首席3人を確認しておきましょう。
鄧小平は、共産党の首席となって政策を進める道は選びませんでした。
名目的にも実質的にもトップに座ってしまうと、風当たりが強くなってしまいます。
それよりも、自分のいわば「言いなり」として動かせる人物を首席に置き、自らは副主席として肩書を下げてでも、より政治を思い通りに動かせる地位に就きました。
こうしておくことで、いざという時には首席の人物を失脚させれば責任をなすりつけることが可能になります。
日本の平安時代の藤原氏による外戚政策を思い出していただくと分かるように、本当の意味での権力者というのは、表舞台からは姿を隠し、裏から糸をひくのです。
話を戻します。
この時、鄧小平が自分の「言いなり」として後任に選ぶのが胡耀邦と趙紫陽です。
鄧小平の誤算
最初に首席の座に選んだのが弟子の胡耀邦です。
鄧小平が胡耀邦に首席の座を譲ったのは、「改革・開放」路線を共に推進しており、鄧小平にとって信頼できる人物であったからでした。
しかし、政策について同じ方向を向いていても、学生の動きに対する見方は鄧小平のそれと異なっていました。
繰り返しになりますが、鄧小平は経済において自由化を進めていても、民主化を求める運動=共産党を脅かすような動きは徹底的に弾圧する方針でした。
一方、胡耀邦は鄧小平と違い、経済の自由化をしていくためには、社会そのものがある程度民主化されていることが必要と考えていました。
民主化を求める動きに対して鄧小平と胡耀邦は違う方向を向いていますよね。
こうして今回の学生による運動は、鄧小平や共産党の保守派の意に反して胡耀邦は学生たちの運動に黙認する姿勢を見せます。
先述したとおり、胡耀邦は経済の「改革・開放」路線を行っていくためには、社会をある一定の程度民主化する必要があると考えていたため、学生の言い分に理解を示していたのです。
その結果、鄧小平、そして共産党保守に強い不満を抱かせることになりました。
中国共産党の支配体制を脅かすような学生運動を見逃していることが許せなかったからです。
こうした民主化運動のとらえ方の違いが、胡耀邦を失脚させることにつながりました。
結果、鄧小平は自ら選んだ胡耀邦を自らきりすてることになります。
1987年の1月の事でした。
もう1人の弟子
胡耀邦を失脚させた後、変わらず鄧小平は首席に戻らず、副主席の座に座り続けます。
胡耀邦の後任に選んだのは、もう1人の弟子、趙紫陽でした。
趙紫陽も鄧小平が推し進める「改革・開放」路線を推進しており、鄧小平にとって、もう1人の信頼する人物だったからです。
しかし、胡耀邦と同じように趙紫陽も「改革・開放」路線を推進するには社会の民主化や自由化は必要と考えている1人でした。
つまり、またもや民主化に対して鄧小平と違う見方をする人物が首席になったというわけです。
趙紫陽が共産党の首席となってから起こった学生運動は、1989年4月に死去した胡耀邦を追悼するデモ行進でした。
学生たちは頻繁に行われる賄賂政治への批判も込めて、胡耀邦追悼に重ねて抗議したのです。
胡耀邦はそれまでの中国の政治で頻発していた賄賂などの噂が一切ない潔白な人物でした。
賄賂の横行する政治に不満を持っていた学生たちは、自分たちの運動に理解を示し、政治で賄賂を行わない胡耀邦の評価をした上で政治を考えなおしてほしいと伝えたかったのです。
先述したとおり、趙紫陽も「改革・開放」路線を推し進めるためには、社会の民主化が必要であると考えていました。
そのため、趙紫陽も若者の民主化運動に理解を示すことになります。
学生たちが求めたこと
ここで、高校生がこの「天安門事件」を学ぶ中で、見落としがちかつ重要な部分をご紹介します。
学生たちは民主化を求める運動をこの時期度々起こしていましたが、その中身はあくまで
共産党体制の中で、民主化・自由化を要求していたということです。
つまり、共産党体制そのものを否定していたわけではなかったのです。
しかし、鄧小平に共産党の支配体制を崩すつもりは全くありません。
学生の要求する民主化・自由化を認める事は到底考えられませんでした。
共産党は、学生による民主化運動を共産党体制を脅かそうとする「動乱」と定義しました。
民主化を求める運動は”中国社会にとって弾圧しなければならないもの”となってしまったわけです。
さらに、1980年代後半というのは、第2次世界大戦後の冷戦構造に変化が現れ始めていた時期でもあります。
ソ連ならびに東ヨーロッパで次々と政治の民主化が進んでいたことも、民主化を過剰に嫌う要因の一つとなっていました。
最高権力者、鄧小平はこうした国際情勢を受けて中国国内が民主化する事を極度に恐れていたからです。
こうした背景もあって鄧小平は、「民主化の流れが大規模化しないように運動を徹底的に弾圧する」と考えました。
これが、天安門事件につながる根拠となってしまったのです。
天安門事件
民主化を求める運動に話を戻します。
共産党体制の中で民主化を求める学生運動は4月から胡耀邦の追悼をめぐって大規模化していました。
そこに、この運動が盛り上がっている時期にさらにこの運動を拡大させる出来事が重なります。
1989年5月16日の趙紫陽の発言がきっかけでした。
当時、中国にはゴルバチョフ書記長が訪中し、趙紫陽も出席し、政府首脳による会談を行っていました。
そこで、趙紫陽はその様子が世界に生報道されていることを認識している上で、
”中国において重要な問題は全て鄧小平が決定している”という旨の暴露をしたのです。
事実上の最高権力者、鄧小平がすべてを決定している黒幕であることを全世界に発信しました。
ここまで読んでくださっている皆さんは、鄧小平が裏で暗躍していたことは明らかだと思います。
しかし、民主化を求める運動をしていた若者たちはこの事を知りませんでした。
当時鄧小平が裏ですべての決定を下していることは中国共産党の一握りの者達しか知らなかったからです。
鄧小平の退陣を求める運動へ
趙紫陽がこの発言をしたことによって、共産党、もっと言えば鄧小平による独裁が浮き彫りとなりました。
民主化を求めていた学生たちは、中国社会が自分たちの求める民主政治であるどころか、独裁体制であることを知ってしまいます。
共産党内部の機密事項を暴露したことによって、趙紫陽は失脚に追い込まれることになりました。
しかし、趙紫陽を失脚させても彼が発言した内容は消えません。
民主化を求める運動は鄧小平の退陣を求める運動へとより具体的に発展します。
こうした背景があって、1986年5月17日から天安門広場でおよそ100万人の人民が大規模なデモ行進を行いました。
天安門広場には、参加した人民の誰かが作成した「自由の女神」像が掲げられます。
まさに、言論の自由、政治の民主化を求め、中国社会の自由のなさを批判する象徴的な示し方ですね。
もうこれほどの規模のデモとなってしまっては、ちょっとやそっとの力では弾圧することができません。
ではどうするか。
考えた末に鄧小平はついに共産党の所有する軍隊「人民解放軍」を用いて、徹底的に弾圧することを決定します。
6月4日ハンガーストライキ(水以外を口にしないで抗議を示すこと)を行って民主化運動をしていた人民が多くいる天安門広場に、人民解放軍が突撃し、武力弾圧を実行しました。
丸腰の人民に無差別で武力を発動し、文字通り力で押さえつけることとなりました。
この天安門事件当日の動きは前稿に詳しく書いたのであわせてご参照ください。
【重要テーマ】「天安門事件」をどう教えるか
http://www.juku.st/info/entry/1274
その後
中国では、今現在この「天安門事件」を語ることはタブーとなっています。
歴史の教科書にも絶対に載せない歴史事象であり、インターネット上での検索もできないよう「サイバーポリス」が監視をしています。
この事件によって、民主化を求める運動の脅威を肌で感じた共産党は、その後の人民教育で「愛国教育」を強く打ち出します。この場合の国とは、要するに共産党体制による中国社会のことです。
共産党体制を脅かす民主化ではなく、共産党を愛するような教育方針にすることで共産党への不満を愛情に変えるよう養育した、ということですね。
ではその教育によって若者が共産党を愛するとどうなるでしょうか。
アジア・太平洋戦争を振り返ってみてください。
日本は、満州事変以後中国との15年に及ぶ戦いの中で軍事支配を行っていました。
中国人民からすると、その軍事支配から中国を守って同胞を解放し、1949年に現在の中国を作り上げたのが毛沢東をトップに据えた中国共産党です。
共産党への愛情は、同時にそれと対立していた日本に対する憎悪につながりました。
近年以降(2005年頃~)反日デモが拡大した背景には、この教育を受けて育ってきた若者たちに培われてきた反日感情があったというわけです。
まさに、中国国内の1歴史事件でなく、現代日本の外交にも関わってくる重大な事件だったということがお分かりいただけたのではないでしょうか。
最後に指導のポイントをまとめると、テーマ:現在の日本の外交にも影響した「天安門事件」とは?
◯鄧小平の動き
(1)ライバルを追い詰め、追い落とせ!
(2)自分が批判されたと知った後
◯民主化を求める若者たち
(1)「”政治と言論の自由”を求めます」
(2)理解を示した人物
(3)擁立をして、失脚をさせた?
◯趙紫陽の挑戦
(1)実は私も、理解者です。
(2)本格化する民主化運動
(3)天安門事件とは
◯その後の関係
(1)同じことが起こらないためにどうすればよいのか
(2)「愛国教育」とは
(3)日中関係を考える
という順番で説明をすれば、きちんと因果関係をつかめる授業になると思います。
良ければ参考にしてみてください。本稿は以上です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!