豊臣秀吉の下剋上
まずは、こちらの写真を御覧ください。
こちらは大阪府大阪市中央区にある大阪城です。
今現在の大阪城は再建されたものですが、かつて戦国時代の乱世を治めることに成功し、
強大な権力の証としてこの大阪城を築城した人物がいました。
皆さんご存知の豊臣秀吉ですね。
豊臣秀吉といえば、織田信長、徳川家康とともに近世を切り開いた先駆者としてとても有名です。
今回、豊臣秀吉を取り上げようと思ったのは以下の様な理由からです。
教科書の記述などを検討してみると、
- 貧しい農民の身分から成り上がることに成功
- 織田信長亡き後明智光秀を破り、その後は賤ヶ岳の戦いでライバル柴田勝家を破る。
- 関白に就任
- 太閤検地によって古代からの土地制度を大きく変える。
- 晩年に朝鮮出兵
などは、紙面を割いて詳しく述べられています。
しかし、
- 具体的にどうしてそれが可能だったのか
- なぜ朝鮮と交戦する事になったのか
ということまでは詳しく書かれていません。
もちろん、これだけでもある程度の入試問題には対応できるのですが、
国公立大学の入試などで論述を求められる際にはさらに踏み込んで因果関係を理解しておかなければなりません。
ここから詳しく述べていきますが、
この1文1文のつながりにある因果関係こそが、秀吉の天下統一過程を知るために必要な視点なのです。
豊臣秀吉はなぜ征夷大将軍にならなかったのか、そしてどのように違う支配のあり方を見つけ出したのか
こうした点を講師の皆さんにお伝えしたいと思ったのが執筆する動機です。
以下その点について述べていきます。
豊臣(羽柴)秀吉の台頭
1582年の本能寺の変において、家来であったはずの明智光秀が主君の織田信長を襲い、
信長の天下統一事業が絶たれることになりました。
豊臣(羽柴)秀吉はすぐさま、山崎の戦いにおいて信長を討った明智光秀を破ります。
信長を打ち破ったものの、すぐに豊臣(羽柴)秀吉に倒されてしまったことから、
明智光秀は「三日天下」だったと表現されることがあります。
また、本能寺の変が起こってから、明智光秀を討つまでの豊臣(羽柴)秀吉の行動が非常に迅速であったため、
「明智光秀の本能寺の変と秀吉は何か関係があったのではないか」という陰謀説も歴史学では長きに渡る論争の種になっています。
他にも朝廷の策略、徳川家康の陰謀などなど…。
違う見方からの意見が多々あります。
これについては、関連した書籍がたくさん出ているので、
時間が在るときに図書館などを利用して、こうした論争に目を通してみてください。
後継者をめぐる戦い
話を戻します。
織田信長亡き後、
誰が織田信長の天下統一事業を引き継ぐのか
という後継者の争いが本格的に起こることになります。
山崎の戦いにおいて明智光秀を破ることに成功した秀吉は、軍力を整え、
柴田勝家との戦いにも勝利を掴みました。(柴田勝家は織田信長の家来のトップでした)
その柴田を破ることに成功した秀吉は、後継者という立場に大きく前進します。
しかし、まだ秀吉の台頭に納得のいかない勢力がありました。
織田信長の息子織田信雄と信長の盟友であった徳川家康です。
この2人は連合軍を組んで、小牧・長久手の戦いで豊臣軍と相まみえています。
決着は付きませんでしたが、
織田信雄はこの後秀吉の支配下に入っていくことになるので、結果として秀吉側は、引き分けという名の“勝利”を掴んだと言えるでしょう。
朝廷との関係づくり
さて、こうした武力衝突と並行して、秀吉は朝廷との関係も深めていきます。
織田信雄が秀吉に恭順の意を示すころ、秀吉は朝廷から従五位下・左近衛権少将の地位に叙任されています。
群雄割拠の戦国時代、朝廷を脅かすような勢力がいつか現れるかもわかりません。
織田信長亡き後、朝廷にとっても良好な関係をもつことができ、
乱世を治められる豊臣秀吉のような人物を必要としていたのです。
その証拠に、豊臣秀吉が織田信雄との講和が正式に成立させた段階で、朝廷は従三位・権大納言に叙任しています。
これは正式に信長の後継者として認める根拠となりました。
それは何故か。
この従三位・権大納言という地位は、本能寺の変で討たれる前に、織田信長に与えていた官位と全く同じだったからです。
これをもって、朝廷は豊臣秀吉を織田信長の後継者であると同時に、武家政権を委ねるという姿勢をはっきりと示したわけです。
しかし、豊臣秀吉はこの後、織田信長でも辿りつけなかった地位まで獲得していきます。
1585年、摂関家内部での関白の職を巡る争いに入り込み、これをおさめていく中で秀吉自身が関白の地位につくことを表明するのです。
もちろん、血筋的に摂関家ではない秀吉の関白就任には反発もありましたが、関白を狙っていた摂関家に対して加増という、今現在でいうところの収入増加を約束して取り込んでいきます。
こうして秀吉はついに従一位・関白に就任します。
武家政権のしきたりにメスを入れた
さて、こうした一連の動きを見ていく中で何かお気づきになることはないでしょうか。
中世(鎌倉~室町期)までの歴史を振り返ってみてください。
源頼朝が征夷大将軍に就任する前後からの鎌倉幕府、そして室町幕府にかけての武家政権には、
常に征夷大将軍を中心に据えていましたよね。
源頼朝にはじまる源家3代将軍、摂家将軍、皇族将軍、そして室町時代の足利家の将軍などなど…。
北条家が実質的に権力を握っていた執権政治の状態もありましたが、支配の正当性を示すために、武家政権の棟梁である征夷大将軍を据えてきたわけです。
本稿では詳細は割愛しますが、征夷大将軍に任じられるためには、清和源氏のように天皇家の血筋を引く「貴種」であることが、必要条件でした。
しかし、豊臣秀吉は正真正銘農民の出身です。
血筋的には征夷大将軍になる資格を持ちません。
そこで、秀吉は貴種が求められる征夷大将軍ではなく、天皇家と結びつきを強めることによって、関白にまでのぼりつめたのです。
関白というのは、非常に天皇に近しい存在です。
秀吉は天皇(後陽成天皇)の名を借りて、支配を広げていきます。
特に代表的なのが「惣無事令」ですね。
争いが続く関東、九州を対象に停戦命令を発します。
これも天皇の名を借りて発布しています。
つまり、自分に従わないことは天皇に背くことという構図を作ったわけです。
「朝鮮侵略」
さて、このように天皇との連携を取りながら上手くその支配を確立していった秀吉でしたが、
最も大きな謎と呼ばれる政策があります。
それが、朝鮮侵略です。
最後に秀吉がどうして朝鮮と戦いを交えることになったのか、最近の学説をもとにご紹介します。
まず、朝鮮侵略とは具体的に文禄(1592)・慶長の役(1597)という2度に渡る朝鮮との戦いのことです。
「朝鮮侵略」という言葉がすごく紛らわしいのですが、秀吉が目的としていたのは実は日本から見て朝鮮半島の奥にある「明」だったのです。
事の発端は秀吉の誤解でした。
1590年に朝鮮の使がやってきたり、朝鮮国書などの文面から、秀吉は朝鮮がすでに日本に服属しているとみなしていました。
それは朝鮮との貿易を間で取り持っていた対馬の宗氏による国書改竄が背景にあります。
対馬の宗氏は、貿易によって藩の財政が成り立っていました。
そのため、日本と朝鮮、両者が争うこと無く貿易を行えるよう互いの面子をたてるような文面に改ざんするということを何度もしていたのです。
これは江戸時代の徳川政権下でも続けていくことなので、是非頭にいれておいて下さい。
当時、明は海禁政策をとっており、一般の中国(明)人の海上貿易や渡航を禁止していました。
秀吉はこの海禁政策をとる明に対して、
軍事的圧力をかけて一部の明の領土(寧波沿岸部)を奪い取り、
東アジアにおける中継貿易を主導しようとしていた、
というのが豊臣秀吉の「明」へのこだわりだったという見方がされています。
秀吉の誤解とは、朝鮮がすでに日本に服属している、ということでした。
そのため、明と交戦する際には、朝鮮は戦うどころか日本に協力してくれるものと思っていたのです。
しかし、朝鮮は明との結びつきもあったため、秀吉の意に反して反発し、最終的には戦乱となりました。
結果としては、李舜臣率いる朝鮮軍の激しい抵抗などにより、
文禄・慶長の役ともに失敗に終わりますが、こうした背景がある事をしっかりおさえるようにしましょう。
まとめ
本稿では、豊臣秀吉が天下を取るまでの朝廷との関係、
そして晩年なぜ朝鮮侵略を行ったのかという事をご紹介しました。
指導のポイントをまとめると、
テーマ:豊臣秀吉ははいかにして天下を統一したのか
◯織田信長亡き後
(1)山崎の戦い
(2)賤ヶ岳の戦い
(3)小牧・長久手の戦い
◯後継者という意味
(1)朝廷からの官職
(2)織田信長と並列→関白に
(3)征夷大将軍という形を取らなかった理由
◯朝鮮侵略
(1)秀吉の誤解から始まった
(2)対馬の宗氏
(3)明への思い
本稿でお伝えしたような背景をふまえて説明すると、より歴史の深みに触れる授業を作れると思います。
参考にして頂けたら幸いです。
以上です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!
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