イスラム史の難しさ
近年話題となっているISISまたはイスラム国。
この言葉を聞いてイスラム教に対する関心は高まってきています。
この波にのって私も、イスラムについての理解を広めるためにイスラム史に関する記事を書きました。
ところで、イスラム史は理解が難しいとされています。
というのも、
- 王朝の数が多すぎる
- 流れが複雑
といった理由からでしょう。
実際イスラム史ほど縦と横の流れが入り組んでいる分野はないのではないかと思ってしまうぐらいです(ヨーロッパあたりは複雑ですが、ヨーロッパ史は日本人からしたら馴染みがあるのでまだ理解しやすい)。
というわけで今回は、
複雑なイスラム史を”中央”と”地域”の区別を使って解説していきたいと思います。
中央と地域の区別とは?
世界史の教科書や授業では、流れが単調になっていません。
あるときはアッバース朝の話をしておきながら、いきなり遠くの地域、後ウマイヤ朝の話が始まる。
あるときはイラン地域の話をしているのに、それがいきなりアッバース朝の衰退の話に移る...
何がなんだかわかりません。
これは、世界史特有の”縦”と”横”の流れを区別しないで解説すると起こりうることなのです。
そこでまずは横(地域)を分解し、その上で縦(歴史)を解説することにしました。
これですと、授業中にあちらこちらと話がそれることがありません。
以下がこれから解説するアウトラインです。
【中央で起こった話】
正統カリフ時代⇛ウマイヤ朝⇛アッバース朝⇛アッバース朝(ブワイフ朝による支配)⇛アッバース朝(セルジューク朝による支配)⇛ホラズム朝の時代⇛モンゴル帝国の支配
【地方で起こった話】
①エジプト(アッバース朝衰退のころから)
ファーティマ朝⇛アイユーブ朝⇛マムルーク朝⇛オスマンの歴史へ
②イベリア半島・西アフリカ(アッバース朝衰退のころから)
後ウマイヤ朝⇛ムラービト朝⇛ムワッヒド朝⇛ナスル朝⇛ヨーロッパ史へ
③中央アジア〜イランあたり(アッバース朝衰退のころから)
サーマン朝⇛カラ=ハン⇛セルジューク朝⇛ホラズム朝⇛モンゴル帝国へ
④インド
ガズナ朝⇛ゴール朝⇛奴隷王朝⇛インドの歴史へ
世界史の授業では各王朝がやったことを1つにまとめて、しかもまとめた上で流れを説明しようとするから複雑になるのです。
その前にまずは流れを理解すること。そしてその流れに、王朝の特徴を付け加えていく...
これが中央と地方の区別です。
中央で起こった話
まず最初に解説するのは、
ムハンマドが生きていたアラビア半島周辺からイラクあたりでの出来事についてです。
というのも、この地域を支配しているか否かが、当時のイスラム世界の中心的な存在であったかどうかにつながるからです。
また、中央の話をするときは、その王朝がどこの領土を獲得したのかという話が重要です。
その話が、地方でのイスラム王朝の話につながりますからね。
それらを踏まえて話を進めていきます。
正統カリフ時代
ムハンマドといえば最後で最大の預言者。
そんな彼を超える預言者はあってはなりませんから、誰が後継者になるのかはやはり問題となります。
普通であったら跡継ぎ争いとかが起こるところですが、選挙で指導者を選ぶことになりました。
それがカリフと呼ばれるものです。
そんなカリフがきちんと選出されていた時代を正統カリフ時代と呼びます。
ちなみに初代のカリフがアブー・バクル、二代目がウマル、三代目がウスマーン、四代目がアリーとなります。
この時代は本当に安定していたようで、イスラム教の拡大にも繋がりました。
ムハンマドの時代はまだアラビア半島を統一していただけだったのですが…
ビザンツ帝国への攻撃→シリア・パレスチナ・エジプトを獲得
ササン朝への攻撃(642年:ニハーヴァンドの戦い、651年ササン朝を滅ぼす)→イラン方面へ進出
このように、正統カリフ時代にも領土を拡大させていました。
ウマイヤ朝
4代目アリーが暗殺されると、今までアリーと対立してきたムアーウィヤが王朝を建てます。
正統カリフ時代と異なる点は、選挙によってカリフが生まれたわけではないということ。
実際ウマイヤ朝の後継者も選挙では選ばれていません。
ウマイヤ朝は正統カリフに変わってイスラム帝国を拡大させていきます。
エジプトから北アフリカ北方、そしてイベリア半島(今のスペインがある半島)を征服
イラン方面からアフガニスタン周辺まで
・濃い赤茶がムハンマドの時代の領土
・普通の赤茶が正統カリフ時代の領土
・オレンジがウマイヤ朝の領土
です。
アッバース朝
アブル・アッバースという人物がシーア派を利用して政権を奪取。
アッバース朝(首都はバグダッド)が始まりました。
アッバース朝はウマイヤ朝の領土をそのまま引き継ぐ形で成立しました。このあたりがイスラム帝国の最盛期と言われています。
ちなみに東の方では、中国の唐と領土が接しています。
アッバース朝が大きいからというより、唐がアフガニスタンまで細長い領土を持っていたがために接していました。
アッバース朝はタラス河畔の戦いで唐を破り、シルクロードを支配しました。
ところで、領土以外にもアッバース朝がしたこととして重要なことが1つ。
アッバース朝は中央アジアの騎馬民族トルコ人を軍事力に導入しました
アッバース朝はあまりにも領土が広くなってしまったので、強い軍事力が必要となったことが背景にあります。
ちなみにそうしたトルコ人はマムルーク(軍人奴隷)と呼ばれました。
次回の記事で重要ですので、きちんと覚えておいてくださいね。
アッバース朝(ブワイフ朝)
しかし9世紀後半になるとやはりどうしても支配が難しくなる。
特に遠くの地方への支配力は弱まってしまいますので、各地で独立が起こってしまいます。
イベリア半島→後ウマイヤ朝
中央アジアあたり→カラ=ハン朝
アフガニスタン近く→サーマン朝
イラン→ブワイフ朝
エジプト→ファーティマ朝
なんだかもう悲惨ですよね…。
特に後ウマイヤ朝とファーティマ朝はカリフを自称してしまいます。
これは宗教上の権威者が3人いるということになり、イスラム教としても避けたい事態だったでしょう。
しかしアッバース朝にとって一番悲しいのは、
ブワイフ朝がアッバース朝の首都を占領
アッバース朝の首都はバグダッドで、ブワイフ朝はイラン周辺ですので距離的にすごく近かったのです。
そのブワイフ朝が首都を占領してしまった...それは、カリフがブワイフ朝に殺されかねない状況に置かれてしまったことを意味します。
しかしブワイフ朝はカリフを殺さない。代わりに世俗的支配権を持つ大アミールに任命してもらいます。
宗教上の権威はカリフ、世俗的な権力は大アミール。
まるで中世ヨーロッパでいう教皇と皇帝のような関係ができたのです。
アッバース朝(セルジューク朝)
首都が攻略されたとおもいきや、今度はセルジューク朝というのが出てきます。
セルジューク朝はイランの右上あたりで出現するのですが、イラクに入って首都を攻略します。
そのとき支配していたのはブワイフ朝なのですが、ブワイフ朝は滅ぼされる。
一方でアッバース朝はまだ生き残ります。
ブワイフ朝と同じように、世俗的権力を担うスルタンという称号を獲得します。
ホラズム朝
スルタンを作ったセルジューク朝は、時が経つと内紛の繰り返しで力が弱まりました。
これに乗じてイラン方面でホラズム朝が独立。
イラン一体を支配し、12世紀最大のイスラム王朝となりました。
その頃にはすでにセルジューク朝は力を失っていたのです。
ホラズム朝は1157年にセルジューク朝を攻撃し、事実上の消滅に追い込みます。
イスラム帝国の最後
長く続いてきたイスラム帝国。
およそ600年続いてきましたが、どんな帝国にも最後はあります。
イスラム帝国に終止符を打ったのは、モンゴル帝国です。
1220年頃にホラズム朝を滅ぼし、さらには1258年、セルジューク朝の支配から解放されたアッバース朝までもが滅ぼされ、イスラム帝国の終焉が告げられます。
まとめ
あえて周辺地域の話をせずに、イラク・イランのみで話をすすめてきました。
こうするとかなり理解しやすくなりますし、ストーリーがドラマティックになります。
最終的にはかのモンゴル帝国に滅ぼされてしまいましたが、イスラム王朝が全て滅んだのかといったらそうではありません。
イスラム王朝はイベリア半島にも、アフリカにも、そしてインドにも健在するのです。
そこではそこでのドラマがあります。
次回の記事では、それぞれのイスラム王朝のドラマをお伝えしていきます。
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