実践理性とは道徳のこと
今回はカントの実践理性について解説します。
ただし、純粋理性と実践理性を繋げて考えようとすると混乱するので、ここで解説する理屈は純粋理性とは別物だと思ってください。
実践理性は一言でいえば“道徳”について解説しています。
私たちは幼き頃から道徳という科目を受けるわけですが、そこでは“人のするべき行動”について学びます。
カントは人のするべき行動とは何から根拠を得ているのかについて分析しました。
カントはあまりにも時間に正確なために、カントが散歩するときいつ家の前を通るかで、人々は時間を把握していたといいます。
規則正しい生活をして一生独身を貫いたカントは、まぁ聖人君子のような感じでした。
そんなカントが「これからの”道徳”の話をしよう」と言い出したのです。絶対きつい内容なはずです。
そして実際言っていることはけっこうきついのですが...
さて、実際にカントがどのようなことを考えたのかを見ていきましょう。
実践理性を取り上げる理由
いきなりカントの話をすると戸惑うので、ちょっとした導入を差し込みます。
私たちは日常でこんなことを言われますよね。特にドラマやアニメでは必ずこのような題材を取り上げていると思います。
「人を殺すな」
「困った人は助けろ」
「約束は守れ」
「ものは大切にしろ」
さて、これらは私たちにとってすごく当たり前のことに思えませんか。
特に一番最初の「人を殺すな」というのに対しては誰も反論できないと思います。
ではここで、一つの質問を考えてみましょう。
あなたがそれらを当たり前と思うのは、なぜですか?
おそらくこの質問に即答できる人はそんなにいないと思います。
仮に思いついて答えたとしても、その答えは人によってバラバラで、統一感が取れていないのではないでしょうか。
特に、「なんで人を殺してはいけないのか?」という問いに答えるのは、実に難しいことだと思います。
けれども 中世の人々は即答できたんですよ。
「人を殺すってことは聖書に反する行動じゃないか。そんなことしたら天国に行けないよ」
カントが登場した近代の時代でも、まだ神の存在は健在でしたので、こう信じている人は多かったのです。
そして神の存在、いわば宗教が人のあるべき姿を規定していました。
しかしそうした宗教による規定の大部分を排除し、代わりに、
人としてのあり方 をカントは説いたのです。
私たちが今、当たり前でしょ?と思っているのは、”人として”を考えているためです。
その”人として”という概念を作り上げたのが、カントなのです。これは現代では、道徳と呼ばれています。
人間の行動(格律と実践理性)
ではカントの思想をさらに深く掘り下げていきましょう。
カントは人間は普遍的に、人間としての理性を持っていると考えました(前回記事参照)。
しかしこれだけでカントは満足せずに、その理論を”善”に適用しました。
ソクラテスの時代から続いてきた議論、「人間とはどうあるべきか」というものです。
カントはそれを考えるにあたり、人間の行動全般を観察します。
「寝る」「食べる」「歩く」といった日常の行動から「道案内する」「助言する」といった親切な行動もあります。
こうした人間の行動を総括して、カントは格律と呼びました。
しかしこの格律の中には欲望に基づいて取られた行動と、理由はよくわからないのだけれど、なぜか従っている行動のルールがあります。
「なんで人を殺しちゃいけないんだ? なんで、困っている人を助けなきゃいけないんだ?」
そうやって、人間の行動の原因を分析すると、
信仰深い人でも、信仰深くない人でも、同じようなルールに従っている
ことをカントは発見するのです。
「これってもしかして、人類に共通するルールなのじゃないか?」
人間だけが持っている普遍的な行動のルール、それを実践理性と名づけました。
この時代の哲学者たちは「人間に共通する理性」を信じていました。
認知論に関しては、「なぜ私たちは同じものを認識できるのだろうか?」といろんな哲学者が議論をしていたのですが、今回カントは「なぜ私たちは同じ行動規則に従っているのだろうか?」という議論を開始しました。
これらに共通するのは、その共通の原因を”理性”においていることであり、
認知論に関する理性を純粋理性
行動に関する理性を実践理性
と名付けたのです。
そして私たちがなぜか従っている行動規則について、深く分析すると、定言命法・仮言命法、そして意志の自由といった理屈を思いつくにいたります。
定言命法と仮言命法
カントの実践理性に関して定言命法と仮言命法という言葉があります。
前者はいわば命令形の形をとり、後者は仮定の形を取ります。
前者であれば「人が困っていたら助けよ」。
後者であれば「困っている人が美しければ、助けよ」と条件付きなのです。
さきほどの道徳の話を振り返ると、道徳とはすなわち定言命法 なのです。
無条件で、理由を考えることなく、しなくてはならないことなのですから。
仮言命法であれば理由があるということになってしまい、道徳ではなくなります。
ゆえにカントは、実践理性と定言命法を絡めているのです。
定言命法であるのは、道徳とはすなわち普遍的な法則だからだとも言っています。
普遍的なルールということは、無条件に従わないといけないということですからね。
ただし、純粋理性に関連して、これは人間にとっての普遍的な法則です。
もし宇宙人がいれば 彼らは「人は殺していい」とか「困っている人は放置すべし」と考えるかもしれません。
けれども同じ人間の間では「人を殺しちゃだめ」「困っている人は助ける」は、理由はわからないけれど、当然とされている。
それは
私たちが(人間にとって)普遍的な法則にそうすべきだと要請されており、それに基づこうとしているからだ
と、カントは主張するのです。
意志の自由(自律)
さて、けれどもおかしなことが起こります。
例えば純粋理性では、私たちは同じ情報から同じ認識を得ることができるようになっています。
それは人間が同じ理性を持っているからです。
この理屈を実践理性に適用すると、私たちは同じ実践理性を持っているから、等しく正しい行動を取るはずです。
けれども実際には、ある人は人殺しになったり、困っている人を見ても見ぬふりをしています。
なぜでしょう?
カントはここで「意志の自由」という考え方を用います。
私たちには自分の行動を決定できる“自由”があります。
けれどもその“自由”ゆえに、道徳律から外れて、自分の利益を優先した行動を取ることも可能になってしまうのです。
そしてカントは、
この“自由”こそが、道徳律を完成させる
と言います。
もし私たちに自由がなく、暑いと汗をかくといったように自動的に道徳律を達成するようであれば、その道徳律は単なる自然法則となってしまいます。
道徳律とはあくまで「私たちが当たり前」と思い、「それを目指そうとする意志」の2つが必要なのです。
私たちに自由がなくなってしまえば、そもそも目指そうとする意志を失うことになり、道徳律が成立しなくなってしまうのです。
高校倫理ではこの意志の自由のことを、自律と呼びます。
意志を持つ格律の主体(人格)
最後に人格について解説しましょう。
私たちには意志の自由があり、そして道徳律を目指そうとしています。
この目指そうとする主体(つまり我々の意志)が人格と呼ばれます。
カントはアリストテレスと似たような思想をここで持ち出します。
私たちは昇進したいだとか、人気者になりたいとして人格を高めようとしがちですが、そうではなく人格を高める(道徳律を目指す)こと自体が目的であると言うのです。
アリストテレスが善を行うことこそ幸せだと言ったように、カントも同様のことをいいます。
例えば、アニメの主人公はけっこう“バカ”が多かったりします。
人を助けるために自分の身を犠牲にしてしまったり、仲間のために私財を投げうったり…
いわば道徳律に従った行動を取る人たち。
私たちはそういった人を見て「かっこいい」と感じることがあるのではないでしょうか。
けれども私たちが「人からかっこいいと思われたい」と思ってそういった行動を起こすと、もうその時点でアニメの主人公のように“バカ”ではなくなり、ある意味「かっこいい人」ではなくなってしまうのです。
だってアニメの主人公が「こうしたらかっこよくね?」と考えて行動すると、なんだか卑しくてそれこそかっこよくないでしょう。
おかしな話ですよね。
けれども、カントはこの主人公のように “バカ”になれ と言っているのです。
そうしたら主人公のように、人格が輝き、かっこよくなれるのです。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
カントはおそらく高校倫理の中で最も難しいとされている分野です。
純粋理性は過去の哲学の系譜を辿っていかないと理解し難いものですし、実践理性は独特の用語が出現する一方で、その用語の関連性が教科書ではあまり明確ではなかったりします。
実践理性について言えば、理解のための一番の近道は、
全てのワードを含んだ具体例あるいは物語を1つ作ってみることです。
そうすると暗記にも役立ちますし、カントの考えが一気に伝わると思います。
一番難しい授業になるとは思いますが、これを倫理の最大の山場だと思って、踏み込んでみてください。
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