特集記事のサムネイル画像

複雑なヨーロッパ近代の歴史をわかりやすく解説!(2)19世紀のロシアとドイツ

高校生

2021/12/17

複雑なヨーロッパ近代史の中でもロシアの動向は非常に重要です。ですがクリミア戦争、露土戦争がごちゃごちゃになっていて、ロシア史は苦手とされている方も多いのではないでしょうか。そこで今回は19世紀のロシアの進出について、その原因や結果をわかりやすくまとめて説明したいと思います。

ロシア史を語るキーワード:不凍港

ピョートル1世と北方戦争

話は19世紀から少しさかのぼります。17世紀~18世紀前半のロシア、ピョートル1世の時代。ロシアの近代化の歴史はここから始まります。ピョートル1世は西欧化政策をとり富国強兵を進める一方、対外進出にも積極的に取り組みました。東方へはシベリアを開拓しオホーツク海、カムチャツカ半島に進出。さらに清朝の当時の皇帝、康熙帝とネルチンスク条約を結び、清露間で国境を画定させました。南方ではオスマン帝国を圧迫し、アゾフ海へと進出。そして西方へはバルト海に進出し、バルト海の強国スウェーデンと激突し、北方戦争を引き起こします。ロシアはこれに勝利すると新都ペテルブルクを建設、西方進出の足がかりとしました。ですが、バルト海の覇者となったロシアを待っていたのは、北海に浮かぶ当時最強の海軍国、イギリスでした。地図を参照してほしいのですが、バルト海を手に入れても外洋に出ることはできません。どうしても北海を通らなければ大西洋や地中海に行くことができません。北海は海と陸地が近く、陸地から簡単に大砲で狙われてしまいます。イギリスからしても、めきめきと力をつけ始めたロシアは脅威であり、はいはいと簡単に北海の通行を認めるわけにはいきません。つまり、イギリスがいるためロシアが北海から外洋に抜けるのは絶望的です。こうして、ロシアの飽くなき海への探求の道が始まりました。冬でも凍らない港、不凍港がほしい。以降のロシアの対外策の原動力は、この不凍港の獲得の一点に尽きます。

欧米秩序の再編:ウィーン体制と東方問題

話を19世紀のロシアに戻しましょう。19世紀の国際秩序といえば、前回詳しく説明したウィーン体制。ウィーン議定書の内容の中で、ポーランド王国を建国してロシア皇帝がポーランド王を兼ねる、というものがあったのをお覚えでしょうか。あれも、ポーランドから外洋への進出を企図したためでした。ですが、結局獲得したポーランドは内陸だったため、ロシアの野望は断念。ここからロシアの対外進出の道のりが始まります。まずロシアの目に留まったのは、ボスフォラス、ダーダネルス海峡でした。オスマン帝国が通行権を握り締めていたこの両海峡を手に入れれば、黒海とエーゲ海を抜けて地中海へと進出することができます。黒海への玄関口となるクリミア半島はエカチェリーナ2世の時代にすでに占領が完了しています。念願の不凍港獲得、そのための障害はオスマン帝国でした。
この時代は帝国主義がまさに猛威を振るい始めようとしていた時代。ヨーロッパ各国はウィーン体制などお構いなしに自国の領域、影響力拡大に躍起になっていました。そんなヨーロッパ各国の格好の餌食となったのが没落し始めていたオスマン帝国。ヨーロッパ諸国とオスマン帝国の領土をめぐる軋轢、列強の干渉によるオスマン帝国内の民族自立化などの民族問題を総称して東方問題といいます。前述したようにロシアは虎視眈々とオスマン帝国から両海峡を狙っています。そして地中海に影響力をもつことでエジプトを仲介する英印連絡路を遮断し、イギリスを牽制しようという目論見もあります。イギリスはそういうわけでロシアの地中海進出を警戒し、インドとの通商路の安全を確保しようとしています。このような具合にウィーン会議以降の英露対立がここでも見て取れます。

東方問題の進展:クリミア戦争

具体的に東方問題でのロシアの行動を見てみましょう。エジプト‐トルコ戦争ではロシアはトルコ側につきます。そしてウンキャル=スケレッシ条約をトルコ間で結び、両海峡の自由航行権を獲得しました。ですが、イギリスがこの条約にけちをつけ、結局ウンキャル=スケレッシ条約は破棄され、両海峡は中立化しました。中立化とは、軍艦の通行禁止のことを指します。こうしてロシアの南下政策はいったんの挫折を見ます。ですが、ロシアは諦めません。ついで1853年、オスマン帝国領内に住むギリシア正教徒の保護を口実にオスマン帝国と開戦します。これがクリミア戦争です。
クリミア戦争における国際関係は以下の図のようになっています。

クリミア戦争はオスマン帝国とロシアの一対一の戦争ではありません。当然のようにロシアの強大化を恐れる他の西欧列強が介入してきます。オーストリアもやがてオスマン帝国側につくようになり、クリミア戦争はヨーロッパ全体を巻き込む大戦争へと発展しました。ロシアはこのクリミア戦争に敗北し、1856年にパリ条約を結んで黒海に艦隊を置く権利を失い、南下政策は挫折しました。

パン=スラヴ主義とロシアの進出、露土戦争

1870年代にはオスマン帝国支配下、特にバルカン半島のスラヴ諸民族の独立運動、つまりナショナリズムの動きが活発化します。ロシアはこの動きに便乗して、ロシアを盟主としてスラヴ民族の統一と団結を主張します。これがパン=スラヴ主義です。パンとは漢字で「汎」と書き、広めるといった意味があります。パン=スラヴ主義とは簡潔に言うとスラヴ人の国民国家形成を支援しよう、という考えのことです。ボスニア・ヘルツェゴビナのキリスト教徒反乱をきっかけに、ロシアはバルカン半島のギリシア正教徒保護を口実にオスマン帝国に開戦します。これが露土戦争です。バルカン半島のギリシア正教徒からの期待と支援を一身に背負ったロシアは、イギリスが介入してくる前に勝利します。ここがクリミア戦争とごっちゃになるんですが、ロシアは今回は勝ちます。サン=ステファノ条約を結び、バルカン三国(ルーマニア、セルビア、モンテネグロ)を独立させ、大ブルガリアを建国してロシアの保護下に置きます。これによりブルガリア領を通ってエーゲ海を南下できるようになります。つまり問題の両海峡を通ることなく、ロシアは地中海に出られるようになったのです。
この内容は列強においそれと受け入れられるわけもなく、イギリスから猛反発を受けます。イギリスの他にもオーストリアから猛反発を受けます。その理由はロシアのバルカン半島進出に危機感を覚えたからです。バルカン半島は多種多様な民族、宗教が混在するまさに人種のるつぼです。にわかにバルカン半島に不穏な民族問題が生じます。そしてこれが第一次世界大戦の直接の導火線へとなっていくのです。

ベルリン会議:ビスマルク体制

話を英露対立に戻します。このまま英露間に火種がくすぶり続けていたら、やがてヨーロッパ全土を巻き込む大戦争に発展するかもしれません。これを最も危惧したのが生まれたばかりのドイツ帝国。まだまだ生まれたてのドイツ帝国は大戦争が起きたら消滅することは必至です。これを食い止めたのがドイツの名宰相、ビスマルクでした。ビスマルクは「誠実な仲介人」を買って出て、英露の利害調整のためにベルリン会議を開きます。この結果サン=ステファノ条約の破棄が決定し、ブルガリアの領土削減とブルガリアがオスマン帝国領内の自治領という位置づけになり、英墺露でそれぞれほしかった地域を分け合います。こうして三国は納得し、東方問題は解決を見るのですが同時にロシアの南下政策は完全に挫折します。ロシアはオスマン帝国から海に抜けるのを諦め、中央アジア、東アジアへと目を向けるようになります。日露戦争まであとおよそ20年。日露対立の第一歩はこうして始まったのでした。

ここからはドイツについて解説します。ドイツ帝国が成立したのは1871年と世界史の表舞台に出てくるのはやや遅めですが、成立当初から非常に重要な役割を果たしていきます。ドイツ帝国が誇る政治の天才ビスマルクはヨーロッパ全体に広く渡り、列強が抱える問題調整に奔走して「ビスマルク体制」とよばれる国際秩序を作り上げました。また、ドイツは第一次世界大戦、第二次世界大戦共に大きな影響力と原因を残しています。今回はそんな重要なドイツの歴史を、ドイツ帝国の成立~ビスマルク体制の崩壊のおよそ30年間に的を絞り、他の列強とのかかわりにも注目しながら見ていくことにしましょう。

ドイツ帝国の成立

ドイツ統一までの動き

ウィーン会議ではドイツ連邦が成立しましたが、これはほぼ神聖ローマ帝国と同じで、連邦間の関税障壁があったりユンカーの支配や農奴制が残っていたりして近代化が全く不徹底でした。しかし、革命の気運がヨーロッパ全土で高まった1830~1840年代にドイツも統一への動きを見せます。それがドイツ関税同盟です。プロイセン中心に行われたこのドイツ関税同盟によりドイツは経済的な統一を果たしました。また1848年にはドイツ統一と憲法制定を目的にフランクフルト国民議会が開かれ、ドイツ関税同盟を発展させプロイセン主体でのドイツ統一が目指されました。ただし、ドイツ統一にオーストリアも含めるとする大ドイツ主義と含めないとする小ドイツ主義が対立して会議は難航。結果、小ドイツ主義がとられることにより、オーストリアはこの時点でドイツときっぱり袂を分かちました。しかし、肝心のプロイセン王がドイツ帝国の皇帝となることを辞退したためドイツ統一は白紙に戻ってしまいました。このような具合に一度は頓挫したドイツ統一でしたが、ヴィルヘルム1世がプロイセン王に即位し、首相にビスマルクが就任すると状況が変わり、急速にドイツ統一への動きを見せるようになります。

普墺戦争と普仏戦争

首相ビスマルク(左の写真参照)は鉄血政策を推し進め、軍国主義と富国強兵でドイツを一つにまとめていきます。まず、1864年にオーストリアと結んでデンマークと戦い、普墺両国はこれに勝利しました。ですが、シュレスヴィヒ、ホルシュタインというデンマークから奪った2地域の扱いを巡って両国は対立し、今度はプロイセン、オーストリア間で戦争が始まります。これが普墺戦争です。プロイセンはこの戦争にも勝利し、プロイセン中心に北ドイツ連邦が成立しました。
こうして順調に領土と勢力拡大を果たしたプロイセンでしたが、これに恐れを抱いたのがナポレオン3世率いるフランスです。スペイン王位継承問題をきっかけにプロイセン、フランス間で戦争が始まりました。これが普仏戦争です。プロイセンはまたもや勝利し、資源が眠る重要なアルザス・ロレーヌ地方をフランスから獲得し、フランスに多額の賠償金を課しました。さらにヴェルサイユ宮殿にてヴィルヘルム1世の戴冠式が行われ、ここにドイツ帝国が成立しました。1871年のことです。
これらのドイツのフランスへの仕打ちによって独仏間に火種が多く残され、第一次世界大戦へとつながっていくことになります。

ビスマルク体制

ウィーン体制が崩壊した後のヨーロッパの国際秩序のことをビスマルク体制と言います。左の写真がビスマルクです。1860年から1890年までの30年間のヨーロッパはビスマルクの掌の上にあったといっても過言ではありません。ビスマルクの狙いはとにかくヨーロッパに大きな国際問題や大戦争を起こさせないことでした。もし起こったとしたら誕生間もないドイツ帝国はあっという間に消滅してしまう恐れがあります。これまで何十年もかけて苦労してドイツ統一を果たした努力が全て無に帰してしまいます。ビスマルクの外交の基調はフランスを孤立させることドイツの国際的地位を安定させることにあります。独墺露間で三帝同盟を結び、独墺伊で三国同盟を結びました。またイギリスとも友好関係を結び、フランスのみを順調に孤立させていきます。さらに前回のロシア史でみたように東方問題の仲介を行い、ヨーロッパの国際問題を処理していきます。こうして、ビスマルクが活躍したおよそ30年間はヨーロッパ全土を巻き込むような大戦争は起きず、ビスマルク体制は安泰かのように思われました。

ヴィルヘルム2世の即位とビスマルク体制の崩壊

ドイツの方針転換:世界政策

ヴィルヘルム1世が退位し、息子のヴィルヘルム2世が即位しました。ヴィルヘルム2世は野心あふれる若き皇帝で、ドイツはこれから世界の中心となる使命を担っているという世界政策を掲げ、帝国主義化を推し進めていきました。そんなヴィルヘルム2世からすれば、ビスマルクがやっているヨーロッパの平和秩序維持は老いぼれの消極策にしか見えないわけで、2人は深刻に対立します。やがて、ヴィルヘルム2世は完全に邪魔となったビスマルクを引退させます。ここにビスマルク体制が崩壊しました。1890年のことです。世界政策を掲げるヴィルヘルム2世は植民地獲得を重視し、植民地を最も持つ大英帝国の覇権に挑戦します。しかし、ここで大きな問題はずっとビスマルクが苦心して行ってきたフランスの締め付けが解かれ、急速にフランスが他の列強に接近したことです。1891年には露仏同盟が結ばれ、フランスがロシアに多額の資金援助をしロシアの近代化が進んでいきました。ここに、ドイツはフランス、イギリス、ロシアという三国に一気に敵対してしまったわけです。ヴィルヘルム2世の世界政策という暴走は続き、ビスマルク体制の崩壊からわずか20年弱でヨーロッパは第一次世界大戦を迎えてしまうことになります

 

キーワード

関連記事

新着記事

画面上部に戻る