儒教について
大学受験の倫理は、センター試験で使う学生が大半で、マーク式の対策が基本になります。
しかし、実際の過去問研究をしてみると、4択問題はどれも似ており、選び抜くのは中々大変です。
つまり、講師は正確かつ深い部分にまで踏み込んだ指導が必要になりますよね。
「儒教」という範囲は、後述しますが、日本でも日常的に浸透している部分がとても多い考え方です。
そのせいか生徒たちも何となくわかったつもりで、特につまずくこともなく学習していくのですが、
マーク模試でいざ解いてみると答えが、中々当たらない。
そういう事がよく起こりうる部分なのです。
例えば、「孝」と「忠」の明確な違いを説明せよとなると、深く理解していない限り中々説明しきれません。
センター試験のようなマーク模試がついてくる部分はまさにここなのです。
本稿では、倫理で、「儒教」の範囲を教える際にはまず教える講師の皆さんに考えていただきたいこと、
そしてどのようなことを知っていればよいかの2点について筆者の経験を元にご紹介します。
儒教とは?
倫理を教える前にまず、講師の皆さんに考えていただきたいことがあります。それは
問「儒教は宗教でしょうか?」ということです。
今でも、「儒教」とは、宗教ではなく「儒学」、つまり学問であるとする考え方があります。
日本史を思い出していただきたいのですが、江戸時代、初めて日本に入ってきたのは儒「学」でした。
学問的立場から見ると「儒学」、思想的立場からすると「儒教」と呼ぶのですね。
そして、「儒学」であればそれは哲学、つまり学問分野であり、「儒教」であればそれは宗教の話になる
ということです。
学問的立場が、根拠とするのは例えば儒教の祖である孔子のこんな言葉です。
「子曰く怪力乱神を語らず」
ここでいう怪力乱神とは、死後の世界のことや、言葉の中にあるような「神」のようなもの。
つまり、宗教のようにそういったものは対象としていない。という意味ですね。
しかし、思想的立場から見れば、これは「宗教」であると考えます。
皆さんにも中学や高校で学んだ『論語』を思い返していただきたいのですが、
「天」というものがよく出てこなかったでしょうか?
例えば、中国古代史で学ぶ易姓革命というのは「天命が革まる」というものでしたよね。
これは、「天」が世の中をしっかり統治するために、「天子」という徳の高い人物を選んでいる。
その「天子」が徳を失った政治をするように慣れば別の「天子」に適任な者が新たに世を統治する。
こうした王朝の交代のことを指すものでした。
このように「天」というのは「人間を超越する何か」として捉えられているのです。
キリスト教のように人格神は存在しませんが、こうした合理的に説明できないものを信じているという
点では宗教と同じではないか?というのがこちらの立場です。
以上の説明で、儒教か儒学かという2つの捉え方があるということがお分かりいただけたかと思います。
高校の倫理の教科書でも儒「教」という立場をとっているので、本稿では「儒教」を宗教として
指導法を紹介したいと思います。
儒教の中心概念
まずは、儒教の中心概念となっている部分から説明すると生徒も全体像がつかみやすくなると思います。
儒教の根本となっているのは何でしょうか。
今一度、祖である講師の言葉を見てみましょう。
孔子「述べて作らず、信じて古を好む」
これが意味することを探ることで儒教の本質が見えてきます。
まず、「述べて作らず」というのは、何か自分が述べることによって作っているわけではない。
=新しいことを創造しているのではないという意味ですね。
そして、「信じて古を好む」というのは、古くからの伝統、習慣、教えや言葉を好んでいる。
=自分が信じているのは昔からの出来事なのだ。
という意味です。
つまり、新しいものを創造しているのではなく、これまでの歩んできた「道」を大切にしている
ということをここで述べているのです。
後もう1点、儒教では「祖霊信仰」というものが特徴として挙げられます。
以前、拙稿「世界3大宗教の教え方③仏教」
でもご紹介したことがあるのですが、お墓参りというのは仏教の習慣ではなく、実は
この儒教の影響が非常に強いのです。
そして、先祖に対して手を合わせるだけでなく、「孝」を持つことが最も大切である
という考え方をしています。
今でも、よく「親孝行」という言葉などで耳にすることがあると思うのですが、
「孝」というのは、この言葉の意味の通り、親を大切にするということです。
そしてその「親」というのは自分を産んでくれた両親だけでなく、その両親を産んだ両親、さらには
その両親を産んだ・・・・という風に、どんどん上に遡った先祖も指しています。
よって、「祖霊信仰」もこの「孝」に含まれますし、先祖の霊を祀り続けるために、
自分の代で絶やすことなく子孫を残すことも「孝」の1つとなるのです。
日本人の私達も、毎年お盆になると多くの人が、お墓参りをしますよね。そうした点では、生徒にとっても
馴染みやすいと思うのですが、中国や韓国などの儒教国家では日本人の感覚の儒教より
強い色でにじみ出ています。
大学入試で問われることはありませんが、「孝」については生徒にもう1点考えてもらいたい部分が
あります。
先ほど、「孝」の話をもう一度確認していただきたいのですが、親を大切にするというのは
具体的にどこまでを指していると思いますか?生徒にちょっと考えてみてもらいましょう。
親に対して優しくする、お手伝いをする、感謝の気持をプレゼントにする・・・などなど
色々意見が出てくると思います。もちろん、これらは正解の一部です。
しかし、「孝」というのは、実は親の意見に忠実であるということも含まれているのです。
親の意見に忠実であるということは、先祖のやり方をしっかり引き継ぐ、
そして親の意見などもしっかり引き継いでいくというのもこれに含まれているのです。
つまり、親の意見を無批判に受け入れていくというのはとても保守的であるということを意味するのです。
同時に、日進月歩移り変わる社会の中で、昔と同じやり方をし続けるというのは非成長的でもありますよね。
このように、「孝」という考え方は、社会経済的に見れば弊害でもありうるということが見えてくるのです。
ここは、歴史で言えば東アジアの近代化とも関わってくる部分なのでこういった部分まで確認できるような
指導ができるとなお良いですね。
儒教の官吏登用制度から考えられること
次に、儒教社会の真骨頂である官吏登用制度を見てみましょう。
中国では隋の時代から試験によって官吏を登用する「科挙」というものがありました。
「科挙」とはつまるところ「儒教をどれくらい理解しているか」が試されるのです。
試験を受けるのに、資格は問いません。
試験方式は現行の大学入試と同じで、ペーパーテストで成績の良い者が選抜されます。
試験では国家のあり方など政治的資質の部分も問われます。
そのため、見事試験をパスすることが出来、官僚になれると「参政権」が与えられます。
ここが、同じ宗教社会でもキリスト教社会と最も異なる部分です。
キリスト教社会では、人間は神に対してちっぽけな存在、多少の差はあれど、同じ人間である以上
上下をつけるほどでもない。故に政治学者であっても庶民であっても、「1人1票」です。
今の日本の選挙システムも「1人1票」同じですよね。
ところが、「科挙」が行われる社会ではこうした考えはしません。
「科挙」というのは非常に倍率が高い狭き門です。儒教を中心に政治のことについても
しっかり広く深く勉強することでその門を通ることが出来ます。
そのため、勉強していない人と同じ1人1票というのはおかしいはずだ。このように
考えるのです。
これはあくまで一例ですが、上記のような例からもわかるように「科挙」という試験を通して
官僚を選ぶ儒教社会は「官尊民卑」が非常に激しいと言われています。
まとめ
本稿では、入試において問われやすい「儒教」について、根本部分となるところを生徒がしっかり
理解するためにはどのようなことを教えればよいかという点についてご紹介してきました。
これは、倫理に限定しないことなのですが、こうした宗教の指導をする際には
教えることを通して、何を考えてもらいたか?を軸にすると授業が非常に描きやすくなります。
具体的には先ほど、儒教社会は保守的であり、それが東アジアの近代化と関わる部分があるというような
部分です。
宗教というのは、歴史・経済などにおいても実は深く関わっているのです。
倫理を教える際にはこのように、倫理において役立つ知識だけでなく各科目を縦断できる
ような学習指導を展開できるようにするとよりよい授業になっていきます。
ぜひ指導の際に参考にしていただけたらと思います。
以上です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!