社会科の授業で大切にしたいこと
塾講師をやっていると、
生徒の成長や合格に対して、深く感動する経験ができますよね。
特に学生講師の方は授業準備に時間がかかり、
大学との兼ね合いがある中で中々大変な時期もありますが、
こうした瞬間があるから頑張っていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。
本稿を読んでいる社会科の講師の皆さんは、
授業を終えた時や受験が終わった時にどのような言葉を生徒からもらったら嬉しいでしょうか?
・「先生のおかげで社会に関心を持つようになりました。」
・「学んだことを活かしてしっかりと自分の意見を持てる主権者になります。」
・「先生のおかげで社会が好きになりました。」
この3つは、私が実際に塾講師を務めていて卒業を見送る際に、生徒からもらって、
今でも大切に胸に閉まっている言葉です。
これは社会科講師の方に限りませんが、
こうした感動には、
よい塾講師となるための正しい努力を正しい方向で行い、
生徒としっかり向き合って塾講師を勤め続けることで、
いつか必ずたどり着くことが出来ます。
以前、
「[教室運営者向け]学生講師との良い関係を作るために必要なこと」
という記事を執筆させて頂いたのですが、
塾講師というのは、新人講師が入ってはやめ、また募集をかけ・・・というように、
実は、出たり入ったりが多い業界です。
もちろん、これには講師の生活や経済的事情など様々な要因があるので、
一概にやめてしまう理由を言及することはできないのですが、
せっかく採用されてきてから厳しい研修も乗り越え、頑張ってきたのに、
「辛い」「大変」という理由で、上記の感動をもらう前にやめてしまってはもったいない、
どうにかしてそこを乗り越えて、
塾講師の職業でしか味わえない感動を味わってから、
進退を決めてほしい。
やめてしまった後輩の講師を見送りながら、こうした思いをずっと持っていました。
これがあったからこそ、
これまで、塾講師の魅力をお伝えしたく、
社会科の指導法の記事を通して皆さんにそれをアピールしてきたつもりです。
少し話がそれてしまいましたが、冒頭で述べたように、
生徒に最終的に自分の授業を受けてよかったと思ってもらうためには、
抑えておかなければならないポイントがあります。
よって、本稿では、
社会科の授業で大切にしたいこと
について皆さんに考えていただけるような情報を提供します。
塾講師を勤めているけどやめようかと考えている方や、
これから社会科の塾講師として働こうと考えている方にも、ぜひ読んでいただけたらと思います。
社会科とは?
まず、これから社会科を教える、ないし教えている講師の皆さんに考えていただきたいことがあります。
それは、
「社会科とは、どのような教科なのか?」
ということです。
歴史の流れを詳しく説明する科目、
政治の仕組みを理解する科目、
世界の社会的構造を把握するために宗教を詳しく説明する科目・・・
どれも具体的ではありますが、一部であって、社会科全体を言い表す表現ではありません。
教育学会でも社会科に関しては、以下のような議論がずっと続いています。
①本質主義:「社会科は、公民的資質を培う科目である」
社会科発足以来常に掲げられてきた公民的資質(これにも解釈の議論がありますが、ここでは控えさせていただきます)という軸があり、社会科教育というのはこれを培うための科目なのである、とする立場です。
つまり、時代の移り変わりの中でも変わらないものはあり、
「社会科の本質は○○である」というねらいを定めて、具体的な方法論を考えています。
②構築主義:「この常に変わりゆく社会の中で、社会科はどうあるべきか?」
こちらの立場は、社会科そのものの在り方について、考察をしています。
この10年を少し振り返ってみてください。
スマートフォンの普及に代表される情報技術の発展やそれに伴うリスク、政権交代、憲法改正…
あげてみるときりがありませんが、
この10年だけでも、社会というのは大きく変化し、恐らくこれからも、し続けていくでしょう。
つまり、
社会が常に変わっているのなら、その社会を取り扱う社会科という科目もそのあり方が変わっているのではないか?
というように捉えています。
社会科講師が考えておきたいこと
以上2つの立場をご紹介しました。
こうして見ると、立場によって社会科の捉え方が全く違うことがお分かりいただけると思います。
ここで言いたいのは、これら2つのどちらが良くて、どちらが悪いということではありません。
双方にメリット・デメリットがあります。
たとえば、本質主義は、ねらいが明確になっている分、具体的な方法論を論じることができる反面、
先述したように、社会変化への対応の柔軟性が欠けるという面があります。
一方、構築主義は、実社会に対応した社会科の存在意義を考えることができる反面、
具体的な方法論がこれに追いついていないという現状があります。
ここで大切なのは、社会科には、
「かくあるべき」という明確な正解はないということです。
そして、これを講師の方がしっかり理解し、常に考え続けることで、
自分なりの社会科観を常に磨き続けていってほしいのです。
ただ、筆者が塾講師として授業してきた中で今考えていることを申し上げると、
上記のように社会科に明確な正解がないと思うことは変わりないのですが、社会科では
授業の後こそ、生徒が社会のことに関心を持ち続けられるような授業にすることが大事である
という実感があります。
授業がないときには、社会のことなど興味がない、では困りますよね。
社会科授業で大切なのは、上記の「社会に関心を持ち続けられるような授業にする」というように、
「授業の後に生徒に社会にどう向き合ってほしいか」
これを考え、実践していくことなのではないでしょうか。
社会科の授業のために大切にしたいこと
さて、次に社会科の授業をするために、大切なことを述べていきたいと思います。
まず、筆者が実際に大学で学んだ際に、教授から学んだ言葉をご紹介します。
「自分の足を動かさない社会科教(講)師に、価値はない」
この言葉は、それまでずっと教科書や参考書で社会科を学んできた当時の筆者にとって、
非常に衝撃的で、重い言葉でした。
この言葉は、つまるところ、
教える内容の教材研究(講師の予習)をしっかり行うべきだ
ということです。
以前、筆者は、
【塾講師対象】教材研究を授業に生かそう!社会科教材の底力!という記事で、
生徒の学びの質を高めるために教材を有効活用することが大事である、
という点を説明させていただきました。
授業で実際に使う教材に関して”有効活用する”とは、
例えば、日本史の授業であれば土器などの実物を授業に持っていくこともそうですし、
博物館に行ったりして許可をいただいた撮影写真を提示することもこれに含まれます。
(以下の2枚は実際に筆者が上の博物館で撮らせていただいた写真です。)
これまで、日本では岩手の中尊寺まで足を運んでみたり、もっと遠いところであれば、
北海道まで函館五稜郭を見学しに行き、明治維新の教材としたことがあります。
このように足を運んでみることで初めて気がつけたことが2つあります。
このことについて、体験談をふまえてご紹介します。
①社会事象の奥行きを学ぶことができる
例えば、中尊寺に行った際には、有名な金色堂だけでなく、
それ以外にも弁慶のための寺が設置されていたり、
中尊寺の跡地や藤原3代の遺体安置場所がもともとどこにあったのか、
そして中尊寺は東北でどのような歴史を歩んできたのか。
教科書では約2行でまとめられていた中尊寺が、実はそれ単体で分厚い説明本が何冊も書けるような、
歴史の奥行きを肌で感じることができました。
②実際に経験したことで生徒に伝えられる内容の質が全く異なってくる
これは、筆者が実際に中東の国に行った際の話なのですが、
入国審査の段階で宗教を問う欄に、所属している宗教がなかったため、「nothing」と書いて提出しました。
すると、ものの見事に入国審査に引っ掛かり、審査官に日本人であることを伝えると、
「Japanese Buddistで良いから、とにかく書いておいたほうが良い」と忠告を受けました。
日本では、おそらく「nothing」と書いても要注意人物とみなされることは恐らくないでしょう。
これも行ってみたからこそ、海外での宗教への感覚の違いを肌で学ぶことができた事例です。
帰国した後、倫理の授業で宗教を教える際に紹介しました。
生徒の「宗教を学ぶこと」への切実性を高めることができる有効な経験だったと思います。
このように、実際に足を運ぶことでしか授業に反映させられないことがあるということがおわかり
いただけると思います。
まとめ
ここまで、
社会科授業そのものを考える中で大切にしたいこと
社会科授業の準備の段階で大切にしたいこと
の2点について述べてきましたが、いかがだったでしょうか?
社会科の授業を実践していくには、
講師自身も学び続けなければならないことがたくさんあるため、中々大変なことも多いのですが、
その分やりがいも十分です。
本稿を読んで、塾講師として社会科という科目とどう向き合っていくのか考えていただけたら幸いです。
皆さんのご活躍をお祈りしています。
本稿は以上です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!