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【イスラム史の理解】”中央”と”地方”に区別せよ!②

高校生

2021/12/17

地方のイスラム史 ーエジプトとイベリア半島ー

前回の記事では中央での話をしました。

(参考)【イスラム史の理解】”中央”と”地方”に区別せよ!①

今回は、中央から離れた各地域におけるイスラム王朝の解説をします。

地方でのイスラム王朝を理解するためには、その地域で最初のイスラム王朝がなんであり、それがいつ始まったのかを理解する必要があります。

それが分かれば、あとは縦の流れを理解するだけです。

 

 ①エジプト(アッバース朝衰退のころから)

エジプト地域での話はアッバース朝の衰退頃、つまり900年頃からの話です。 

ファーティマ朝

ファーティマ朝のプロファイル
【首都】カイロ
【年号】909~1171
【重要な出来事】カリフを自称し三大カリフ時代へ、イェルサレム占領→第1回十字軍と戦う、
【重要な内政】 アズハル学院を建てる、

エジプトで興った最初の王朝です。

アッバース朝衰退期に誕生した王朝ですが、彼らの主張は少し変わっており、“今のカリフを認めない”というものなのです。

というのもファーティマ朝はシーア派でアリ−の血筋のみカリフになるべきと考える王朝です。

アッバース朝は当然アリ−の血筋をひいていない、スンナ派の王朝ですので、当然衝突が起こるわけです。

そして当時のアッバース朝に対抗するために、カリフを自称することになったのです。

 

ファーティマ朝は領土を拡大して、北アフリカ一帯を支配するまでに至りましたが、結局は後継者争いに陥ってしまいました。

 

 

アイユーブ朝

アイユーブ朝のプロファイル
【首都】カイロ
【年号】1169~1250
【重要な出来事】サラーフ・アッディーンにより建国、イェルサレム奪回→第3回十字軍(リチャード1世)を撃破
【重要な内政】 イクター制

後継者争いの中、ファーティマ朝のとある勢力がザンギー朝に援軍を要請しました。

すると派遣されたのがサラーフッディーン(サラディン)だったのです。

援軍の介入により後継者争いは一旦止まりましたが、ファーティマ朝は実質的にカリフの機能も停止しており、サラーフッディーンが宰相となって国政を取り仕切ることになりました。

 

これが不幸を呼びます。

最後のカリフが亡くなったと同時に、サラーフッディーンがアッバース朝のカリフを承認するのです。

ファーティマ朝はシーア派。

それがスンナ派と転換することになりました。

サラーフッディーンは政治の巧みさで民衆の支持を得ていましたので、難なく変更ができたのです。これがアイユーブ朝の始まりでした。

 

マムルーク朝

マムルーク朝のプロファイル
【首都】カイロ
【年号】1250~1517
【重要な出来事】バイバルスによる反乱→マムルーク朝へ、アイン・ジャールートの戦い、ディウ沖の海戦
【重要な内政】 カイロが経済的に発展→カーリミー商人の活躍

マムルーク”という言葉に聞き覚えがありませんか?

そう、トルコ人の軍人奴隷のことです。

アッバース朝のときに導入されましたがそれはファーティマ朝、アイユーブ朝に引き継がれていました。

また、マムルークは大変強いため、どの王朝も、特にアイユーブ朝はマムルーク軍団を創設するぐらいに重宝していました。

 

しかし、これが仇となります。

奴隷ではあるが、その奴隷たちが最も軍事力を有する存在だとすれば、当然支配するのが難しくなるのです。

結局マムルーク軍団が反乱を起こす形となり、マムルーク朝が成立するに至りました。 

 

特に注目すべき点は、アイン・ジャールートの戦いでしょう。

当時、モンゴル帝国が中東にまで勢力を伸ばしアッバース朝を滅ぼすまでになっていました。

アイン・ジャールートの戦いとは、止まることがないこのモンゴル帝国の勢いをマムルーク朝が食い止めた戦いだったのです。

これは世界史の教科書にはあまり載っていませんが、最強無敵のモンゴル帝国が珍しく敗れた戦いというのは注目に値します。

それからは1500年代、オスマン帝国に滅ばされるまで反映を続けていきました。それ以降のエジプトは、オスマン帝国の歴史の一部になります。

 

 

②イベリア半島・西アフリカ(アッバース朝のころから)

イベリア半島の特徴は、フランスに接していること。

つまり、キリスト教勢力と境界線を共有しているところにあります。

この地理学的事情がイベリア半島の歴史を作ったと言っても過言ではありません。

もう1つイメージしておいたほうがいいのは、後ウマイヤ朝以降、各地域に“州知事”がいると考えておくといいかもしれません。

後ウマイヤ朝

後ウマイヤ朝のプロファイル
【首都】コルドバ
【年号】756~1031
【重要な出来事】カリフを自称、レコンキスタに抵抗
【重要な内政】 アブド・アッラフマーン3世のとき最盛期

ウマイヤ朝のときにイスラム帝国の支配領域はイベリア半島まで広がっていましたが、アッバース朝に交代するときに少し事件が起こりました。

アッバース朝はいわばクーデターみたいなものでした。

アッバース朝はウマイヤ朝の後継者を滅ぼしましたが、その中にも生き残りはいて、彼らが建てた王朝が“後”ウマイヤ朝だったのです。

 

当然彼らはアッバース朝を正統なカリフと認めるわけにはいかないので、カリフを自称しました。

 

後ウマイヤ朝はフランスと接していたことから度々キリスト教勢力と抗争を起こしていました。キリスト教はイベリア半島を奪回するためにレコンキスタを実行していたためです。カール大帝、ルイ1世といった名だたる英雄もこの攻撃に参加していましたが、後ウマイヤ朝は全てを退けました。

 

しかしこの後ウマイヤ朝も、カリフが変わっていくと内乱状態に突入します。その内乱につけこんだキリスト教勢力により、後ウマイヤ朝はカリフを追放することを決定、以後群雄割拠の時代に突入します。

 

ムラービト朝

ムラービト朝のプロファイル
【首都】マラケシュ(モロッコ)
【年号】1040~1147
【重要な出来事】ガーナ王国を滅ぼす
【重要な内政】 なし

しばらくの間、様々な勢力が混在するイベリア半島でしたが、それを制圧したのがムラービト朝でした。

ムラービト朝は北アフリカに建国され、11世紀にはモロッコ・ガーナを支配領域に置き、イベリア半島にも進出します。

キリスト教勢力もこれに抵抗しましたが、結局12世紀前半までに南部イベリア半島を支配することに成功します。

 

 

ムワッヒド朝 

ムワッヒド朝のプロファイル
【首都】マラケシュ(モロッコ)
【年号】1130~1269
【重要な出来事】なし
【重要な内政】 なし

しかし統治がうまくいかず、ムラービト朝の内部で反乱が多発。

イベリア半島でのキリスト教のみならず、アラブ人からも反乱を起こされていました。

そんな中力をつけたのがムワッヒド朝だったのです。

 

ムワッヒド朝を建国したイブン=トゥーマルトはもともとイスラム教の学者であり、従来のイスラム教のあり方を批判し、自分の考えを実現させるために王朝を建てたという見方もできます。

何はともあれ、ムラービト朝は内部から発生したムワッヒド朝に食われる形で崩壊します。

一方で南部イベリア半島はキリスト教勢力に吸収されるかとおもいきや、そこでの有力者たちはムワッヒド朝に従うことを決めます。

 

ナスル朝

※一番南にある小さな領域がナスル朝。今までの王朝に比べるとすごく小さいです。

ナスル朝のプロファイル
【首都】グラナダ
【年号】1232~1492
【重要な出来事】イザベルとフェルナンドに滅ぼされる
【重要な内政】 アルハンブラ宮殿の建設、

ムワッヒド朝もまた内部で内乱が起こり分裂、崩壊の道をたどります。

ムワッヒド朝の分裂はすなわち群雄割拠の時代を意味し、多くの勢力が誕生します。

しかしそれらも互いに抗争を繰り返していきます。

抗争をしているわけですから、当然キリスト教勢力としては都合がいいわけで、カスティーリャ王国がその大部分を支配するに至ります。

 

結局、最後までこれに抵抗して残ったイスラム勢力はナスル朝だけでした。

ナスル朝は領土的には後ウマイヤ朝、ムラービト朝、ムワッヒド朝よりもかなり小さいです。

しかし、イベリア半島に残った最後のイスラム勢力として世界史に名前を残すことになりました。

 

15世紀。

この時代にはもう中東あたりのイスラム勢力はモンゴル帝国に撃破されており、後ろ盾はマムルーク朝しかいません。

そのマムルーク朝も衰退の一途を辿っており、ナスル朝は孤立することになります。

そして1492年、カスティーリャ王国とアラゴン王国(キリスト教勢力)に押され、グラナダを無血開城することになりました。

これを持ってイベリア半島でのイスラム勢力の終焉となったのです。

 

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