鎌倉時代が出来上がるまで
こんにちは。本記事へのアクセスありがとうございます。
タイトルにもある通り、本記事は日本最初の武家政権である鎌倉幕府はいかに誕生したのかを皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
なぜ、いま鎌倉幕府成立をもう一度考えるのか。
近年歴史学においてこの鎌倉幕府の成立をめぐる論争が盛んな事がメディアなどでも大きく取り上げられました。
教科書の記述で、鎌倉幕府成立年が「1192年」から「1185年」に変わったことは皆さんも記憶に新しいと思います。
この点について、拙稿「【必読】何故鎌倉幕府の成立年がイイクニからイイハコになったのか?【歴史を教えるあなたに】」で詳しくご紹介しましたので、良ければご参照ください。
上記の記事では、主に成立年の6説がなぜその成立年を主張しているのか、主要2説とともに解説いたしました。
しかし、そもそもそこに至るまでの平家と源氏の争いはいかにして展開していったのか。
そして、その争いの結果は後世の世にどういう影響を与えたかということまでは言及ができていなかったので、本稿で改めてそこに至る平治の乱以降の動きを考察していきたいと思います。
よって、
塾で日本史を指導している塾講師、日本史は教えていないけれど歴史が好きな皆さん
に本稿をお届けします。
源頼朝の命を救ったのは平家の人!?
まず、簡単におさらいをしましょう。
1156年の保元の乱、そして1159年の平治の乱を勝ち抜いた平清盛は政治の実権を手中におさめることに成功しました。
それに加えて、平忠盛のころから行っていた日宋貿易も軌道にのり、平清盛を筆頭とする平家は全盛期を迎えます。(拙稿:【日本史講師対象】武士史上初の太政大臣へ!~平清盛が目指したもの~参照)
上記の図をご覧いただくと分かるとおり、平治の乱源義朝・頼朝親子は敗者となっています。
義朝は逃れる途中に討ち取られ、息子の頼朝も逃げている途中で見つかり、捕えられてしまいます。
頼朝は平治の乱で平家に牙をむいた人物であったため、平家は頼朝を討ち首にすることを決定しました。
がけっぷちに追い込まれた頼朝ですが、歴史を変える奇跡に遭遇します。
平家側の立場にある池禅尼(平清盛の継母)が「討ち首をやめよう」と進言したのです!
この進言が平家の決定を覆し、頼朝は死罪を免れて伊豆への流罪に減刑されることになりました。
平家側であるはずの池禅尼がなぜこの時、敵であるはずの頼朝の死をストップさせたのか。
池禅尼がこれより10年前に亡くした自らの息子の面影を見たからなどの説がありますが、真相はわかりません。
いずれにせよ、この池禅尼の進言がその後の源平合戦の運命を大きく変えることになりました。
平家の繁栄、そして・・・
話を戻します。
平家がいかに栄えていたのか、保元・平治の乱、そして日宋貿易との関連でここまでご紹介しました。
平家が滅亡する過程とも深くかかわるので、今一度丁寧に確認します。
平家は、朝廷内部での権力争いに武力として介入し、その争いの勝利に貢献したことで天皇家との結びつきを強くしていきます。
最も象徴的なのは、太政大臣に1167年に就任したことと言えるでしょう。
当時、太政大臣という地位は、摂関家の貴族でもなかなか任命されることはできず、大きな功績を遺した重心が名誉職として与えられるぐらいの極めて稀有な役職でした。
そんな太政大臣に武士として初めて就任したことは、この時期の清盛がいかに朝廷内においても力を強めていたかが表れています。
太政大臣以下の地位においても、息子の平重盛らを中心に高位高官を平家一族に任命し、平家に並ぶ勢力はいなくなりました。
「平家にあらずんば人にあらず」
という言葉はまさにこの平家の繁栄を示す言葉として今でも有名ですよね。
この言葉は『平家物語』に残されている言葉でした。
評価は分かれていますが、この言葉は当時の民衆にとって、
・圧倒的な力にただ脱帽するしかないと称賛する面
・「平家でなければ人ではない?なんと傲慢なのか」という不満を思う面
の両面があったそうです。
強すぎる力が招くもの
しかし、このような強すぎる権力は、次第に反発を招いていきます。
先ほど高位高官に平家を登用した、と説明しました。
これって見方を変えると、もともと高位高官についている諸氏を排除して、平家一門をその職に就任させているってことですよね。
当然、排除された諸氏は本来務めていた職を奪われるわけですから、平家一門への圧倒的な優遇に不満がたまります。
そして、この不満が具体的な「平氏は倒すべき相手」という風潮になったきっかけが、当時政治の実権を握っていた後白河院との確執です。
この時期の朝廷の政治は「院政」といって、天皇の父が「治天の君」として政治を動かしていました。
そんな後白河上皇と平清盛は平治の乱以降、初めのうちこそ良好な関係を築いていましたが、平清盛が後白河法皇の政治に口を出すようになってから関係がギクシャクしだし、ついには決別となるまでに関係をこじらせてしまいます。
平氏のやり方に不満を持っていた朝廷、貴族、寺社、東国の武士などはこの時が来たと言わんばかりに大きな動きに一気に合流していきました。
鹿ケ谷の陰謀
さて、いよいよ平氏政権打倒への動きが始まってきたわけですが、これが具体的な形となって初めて現れたのが1177年の鹿ケ谷の陰謀です。
院の近臣(後白河法皇の側近ら)が京都東山にある俊寛の山荘で平氏打倒計画を企てたのです。
しかし、これは実行に移す前に平氏政権に漏れてしまい処罰の対象となってしまいました。
首謀者であった俊寛は流罪となり、これに加わった藤原成親や西光も死罪となりました。
源平合戦の経緯においては、有名な歴史事件(壇ノ浦の戦いなど)や主要人物(源頼朝、義経)よりも、こうした知名度がやや劣る事件や人物のほうが入試でよく問われます。
どの事件にどの人物が深くかかわっているのかを、しっかり区別できるよう指導しましょうね。
話を戻します。
この鹿ケ谷の陰謀に後白河上皇が関わっていることは明らかでした。
そこで、平清盛は1179年に後白河上皇を幽閉し、上皇につく関白以下多数の貴族を処罰しました。
これによって、関白などの官職も強奪することができ、政治における権力はますます強くなった・・・かに見えました。
繰り返しになりますが、いかに力を持っていようとも無理やり押さえつけるために権力をふるうと必ず反発が生まれます。
ある意味これは今も昔も変わりのないことかもしれません。
皮肉なことに清盛のこの行動が、反平氏勢力の結集を促し、平氏一門の寿命を縮めることになったのです。
以仁王の令旨
つづいて翌1180年、以仁王の令旨が発令されます。
平清盛は後白河法皇を幽閉していたため、朝廷のトップに清盛の孫の安徳天皇を擁立しました。※
※清盛はそれ以前から娘徳子を高倉天皇の中宮にいれ、自らの孫(安徳天皇)を天皇とすることを狙っていました。
朝廷における実権のみならず、天皇にまで平氏の一門を擁立したのです。
平清盛としては、これによって支配をますます強める狙いがありましたが、実際は天皇家にまで入り込むことへの反発勢力の不満をより強めてしまう結果になりました。
こうした状況に、以仁王(後白河法皇の第3皇子)が「平家追討」の令旨を出します。
「令旨」という用語が出てきたので、ここで以下の3用語の違いを確認しておきましょう。
院宣:「上皇・法皇」出す命令
宣旨:天皇が出す命令
令旨:皇太子や皇后が出す命令
指導の際には命令を発する主体によって命令の名前が変わってくることを、生徒にも意識させましょう。
今回の命令は主に、東海、東山、北陸の軍兵および源氏に向けて立ち上がるよう求めました。
以仁王の令旨は、鹿ケ谷の陰謀の時のように、事前協議の段階で終わらずに、軍事行動にまで至ります。
しかし、平氏の圧倒的武力を前にあえなく敗れてしまいます。
敗走した以仁王は宇治平等院で最期を迎えることになりました。
ただ、敗れはしたもののこの以仁王の令旨は、「平家を討つ」という大義を源氏を筆頭とした東国の武士に与え、平氏追討の流れが出来上がったと歴史学では評価されています。
まとめ
本稿では、鎌倉幕府が出来上がるに至るまでの平家の滅亡までの流れをご紹介してきました。
最後に、ポイントをまとめると、
テーマ:繁栄と滅亡!平家を待ち受けていた運命とは!?
○平治の乱以降の平家の動き
(1)源頼朝の命を預かったのは
(2)1167年太政大臣就任
(3)高位高官、みんな平家に
○強大な権力を手にしたけれど
(1)平家にあらずんば人にあらず
(2)平家が高位高官の役職に就くということが意味するもの
(3)後白河法皇と平清盛
○鹿ケ谷の陰謀~以仁王の令旨
(1)鹿ケ谷の陰謀
(2)清盛、後白河法皇を幽閉
(3)以仁王の令旨
(4)歴史的意義
となるでしょうか。
本稿では、平清盛を筆頭とする平氏の衰退過程を詳しく追ってきました。
次稿はいよいよ源頼朝が立ち上がり、平家の滅亡を迎えるその時までの指導法をご紹介したいと思います。
本稿は以上です。ここまでお読みくださりありがとうございました!