【教養とは】知識人や読書家=教養のある人?
教養って何?
教養に関する本は数多くあります。
特に新書と呼ばれるものは、教養を身につけることを目的とした本であることが多いです。
ビジネス誌に関しても、時々、教養をテーマにした書籍の紹介のページがありますし、テレビ番組もその類のものが取り上げられたりします。
しかし、そうした教養を取り入れる前に、
教養という枠組みそのものを一旦考えてみようと思います。
”教養のある人”のイメージ
教養のある人と言われたら、皆さんはどのような人を思い浮かべますか?
シェイクスピアを読んでいる人ですか?
愛読書が源氏物語と豪語するような人ですか?
あるいは、
1日1冊本を読むような人でしょうか?
私が友人に教養のある人のイメージを問うと、だいたいこのような回答が返ってくるのです。
つまり、いずれも本が絡んでいたり、知識が絡んでいたりするのです。
おそらくこれが一般的な教養人のイメージではないでしょうか。
けれどもこれだけでは少し足りないような気がします。
これはあくまでイメージ、教養の本質ではありません。本
質にたどり着くためには、「教養ってなんで必要なの?」を考える必要があるのです。
教養とは、思考のベースとなる知識のこと
それには絶対的な答えというものは存在しませんが、1つの答えに、「思考のベースになるから」があると思います。
教養がたくさんあればあるほど、新しい発想や論理が生まれてきます。
そして、思考のベースとなるような知識、そこには芸能人の名前や映画のタイトルは含まれません。スポーツ選手の名前も含まれません。
なぜならそれらは新しい発想や論理を提供してはくれないからです。
では、
教養が思考のベースであるということを深く見ていきましょう。
教養と豆知識の違い
教養を考えるために、それを豆知識と対比させるとわかりやすいかもしれません。
雷が起こったときの例を取り上げてみましょう。
雷とは恐ろしいものです。特に山の中にいると雷が自分に当たる可能性もどうしても出てきてしまうのですから。それは昔であっても、今であっても変わりません。
昔の人は雷が起こった時は、「クワバラクワバラ」と唱えるか、「神よ…」と祈るか、そのようなことをしていました。もちろんそれが雷を避ける正しい方法とは限りません。
一方で知識人はこういうのです。
「雷が起こったときは、背を低くしなさい。そしたら意外と当たらないものだ」
これを言う知識人は、経験則で物を言っています。
「雷に当たる人の多くは背の高い人だった、けれども座り込んでいる人が雷にあたっている人は聞いたことがない。じゃあ背を低くしたら雷に当たらないんだ!」
という帰納法的な考え方です。
しかし、これは教養ではありません。単なる豆知識です。
一方教養とは現代人のような考え方です。
「雷は電気だから、より伝達しやすい媒体に向かって落ちていく。ならば自分たちよりも背の高い、より伝達しやすい媒体を身代わりに立てれば自分たちに当たることはない」
そうして生まれたのが避雷針です。
ここで使われている知識は「雷は電気」であることと電気の性質のことを指します。
この知識をベースに、問題の解決策が練られています。
教養とはそれだけではとてもじゃないですが、役に立つ知識のように思えません。
雷は電気であるという性質自体は、いきなり役立つようなことはありません。
しかし、そこから論理を組み立てようとしたら大変汎用性があるものとなります。
一方豆知識の方はどうでしょうか。
確かにそれ自体は役に立つことはありますが、豆知識が想定していた事態にのみしか対応できません。
英文法もいい例でしょう。
I can speak English. という例文を、「私は英語を話すことができる」と訳すという知識はそれだけでは何の役に立ちません。
それよりも、文型や助動詞の知識を身につけている方が大変重要になってきます。
古典を知っている=教養がある?
最近私個人が疑問に思ったことがあります。
それは、古典を知っているとは教養があるということなのかということです。西洋のシェイクスピアを読んでいること、東洋の論語を読んでいることはちょっとした“教養人”のイメージがあります。
なぜ古典を読んでいることが“教養人”と言われることが多いのでしょうか?
先の議論を用いて説明してみます。
古典とは、古典たる所以があります。
つまり、たくさんある書物の中で、なぜそれだけが長きにわたって読まれているのか。それは、そこに書かれていることが時を超えてあらゆる場面において有用であると、多くの人が判断したからです。
要するに、汎用性が高い思考のベースとなりやすいのです。
私たちが何か礼儀を議論するときに“論語”を用いて説明を展開すれば、それは教養のある説明となります。私たちは礼儀の専門家ではないので、その議論も結局空虚に陥りがちです。しかし一般に真理と思われている論語を引き出すことによって、その説明の説得力が増します。逆に、私たちが礼儀においてどうしたらいいのかと悩んでいるときに論語を参考にすることもできます。論語を読んでいるだけで、“礼儀”と呼ばれるあらゆる分野において応用が可能となるのです。
これが教養があると言われる所以です。論語のようなノウハウ本ではなくとも、文学の本でも同じです。文学とはいわばその時代における考え方を映しているようなものです。私たちが今当たり前と思っていることは昔において当たり前とはいえません。しかし私たちが今議論している内容が、源氏物語やシェイクスピアにおいても描写されている場合には、「その議論は真理かもしれない」と思うことができます。
けれども私は、だからといって必ずしも古典を読む必要は無いと思っています。確かに重要なことのエッセンスは全てそこにあるでしょう。例えば戦争に勝つ技術の大半は『孫氏の兵法』にかかれていますが、それはほんの数十ページに過ぎません。ゆえに、頭ではわかっていても感覚までストンと落ちない。腑に落ちない状態になります。
これを解消してくれるのが現代の書物です。私は日本ほど読書に恵まれた国はないのではないかと思っています。特に新書や文庫は素晴らしいです。何か疑問に思った時書店によったら、必ず何か引かれるタイトルがあるはずです。そしてそれを手にとって読んでみると、エッセンスだけではなくそれを感覚にまで落とし込もうとする筆者の努力が読みとれます。
教養がある人は、エッセンスを知っていること。そしてエッセンスを落とし込むことができる人です。
思考のベースにも色んな種類がある
教養は思考のベースとなるものと申し上げましたが、それは新しい論理を作り上げるというだけではなく、新しい視点をもたらすという意味でもあるのです。
たとえば気候変動問題の話を聞いた時、あなたは何を考えるでしょうか。
もし国の交渉ごとを想像したのであれば、あなたは政治の視点を、
もし排出量の経済効果について考えたのであれば、あなたは経済の視点を、
もし車の構造を考えたのであれば、あなたは物理の視点を、
もし干ばつといった気候変動そのものを考えたのであれば、あなたは地理の視点を持っていることになります。
一つの事象はひとつの思考のベースで考えることができます。しかし人が身に付けることができる思考のベースはひとつではなく、複数なのです。
面白いツイートを見つけたので引用させていただきました。
勉強をなぜするのか親に訊いたときに、コップを指して「国語なら『透明なコップに入った濁ったお茶』、算数なら『200mlのコップに半分以下残っているお茶』、社会なら『中国産のコップに入った静岡産のお茶』と色々な視点が持てる。多様な視点や価値観は心を自由にする」というようなことを返され ー(参考:https://twitter.com/8jouhan_ns/status/632555947710263296)
なんと素晴らしい回答でしょうか。
見ているものが同じでも、考えることは異なります。このように一つのものをあらゆる側面から捉えることができるようになるのも、一つの教養の力といえるでしょう。
まとめ
教養の力は“思考のベース”です。しかし思考にも様々な種類があり、その種類分けの一つが“科目”なのです。一枚の世界地図を見ても、どのベースを用いるかによって展開される論理が異なります。
古典に書かれていることは教養の一部ですが、全てではありません。本当に大切なことは、自分の興味がないと思った分野においてもとりあえず基礎知識だけはと思って手をつけてみることです。専門知識は必要ありません。本当に基礎の部分だけでいいのです。