【哲学もどきの指導法③】「教育者」とは、生徒の道を広げる人のこと
そもそもなぜ「教える」のだろうか?
今までは比較的「教える」ということにフォーカスし、どちらかというと、生徒の成績を上げることを当たり前のことだとして書いてきました。
しかしそもそも。
なぜ私たちは「教える」という行為をしなければならないのでしょうか?
そこにニーズがあるからでしょうか。保護者が受験勉強の準備をしてほしいと、我々にお願いしたから、お金を提供してくれるから「教える」をしているのでしょうか。
今回の記事では、そもそも塾講師は何のために「教える」を行うのかを考えていきたいと思います。
教育が存在しなかった場合の影響
私たちが提供するサービスはニーズによって異なりますが、基本的に学校の補習と受験対策の2つに分けられます。そこで、そもそもなぜ、生徒たちは学校の授業を受けなければいけないのか、そして受験をクリアしなければいけないのかについて考える必要があります。
なぜなら、これらのことが明確でなければ、学校の授業や受験対策を手助けする、塾講師の仕事が社会的に正当化されないからです。
ここで一つ、学校の存在意義について考えてみましょう。それが教育の存在意義の考察に繋がりそうな気がします。
なぜ小学校が必要なのか
義務教育は小学校と中学校までです。そして高校が存在し、その先に大学が存在します。なぜ国家は小学校と中学校を、「義務教育」として導入したのでしょうか。
存在意義を考えるためには、それが存在しなかった場合を仮定するとよいです。
もしこの世界に、小学校・中学校が存在しなかったら?
もし私たちが生まれて6歳になり、そして12歳になるまで小学校に行かなかったらどうなるでしょうか?
答えは単純です。私たちはレジで会計をすることができなくなりますし、本を読むことができなくなってしまいます。なぜなら、小学校で学ぶはずであった算数・国語を学んでいないから。
さらには私たちは、「徳川家康」や「織田信長」を知ることがなくなりますし、「福岡県」「長野県」という地名もわからなくなってしまいます。下手をすれば、「聞いたことさえない」という状態になりかねません。
100度になったら水は蒸発するとか、雲は水の小さな粒であるとか、そういったことも理科を学ばなければ知ることはありません。
今、私たちが「知ってて当然でしょ?」という知識が全てなくなってしまうのです。昔の人は、こういったことを教養として位置付け、自分の子供には家庭教師をつけたり、あるいは今で言う塾みたいなところに通わせていたわけです。ですから上流階級の人たちはこういった知識を身につけていて、昔の基準でいえば「いろいろ知っている人」になることができました。
しかし今や小学校ぐらいなら国家が提供することが可能。ならば、全員が「いろいろ知っている人」「上流階級」になるように、教育を施してやろうじゃないかと政策を実施した結果が、今の状態です。誰しもが徳川家康を知り、誰しもが俳句のルールを知っている。ある意味、私たちは昔の基準で言えば、「頭のいい人達」になっています。
「頭よくなって、結局何になるの?」
そんな言葉が聞こえてきそうですね。これについては後で考えてみましょう。
中学校の存在意義
さて12歳から15歳。このころに中学校というのが導入されます。そこでは少し難解な古典や漢文を読んだり、連立方程式やら関数やらといったことを学びます。社会はもっと細かい知識になりますし、理科は化学式とか少し暗号めいたことを学びます。
これらの知識は、日常生活では「教養」に位置付けられるようなものではありません。しかし、私たちは学んでいます。なぜでしょうか?
これは完全に持論なのですが、中学校は「学問」を理解するための基盤を形成する場なのではないかと、感じています。どういうことか。例えば方程式は数学の基礎中の基礎です。機械を作るにしろ物理を研究するにしろ、理系的なことをやるには必ず使わなければならないツールです。化学式も同様。薬学とか医学を学ぶためには必ず使う式です。医療にかぎらず、自然界を理解するために必要だったりしますね。
中学校の知識がなければ、高校の知識を理解できません。高校の知識がなければ、大学での知識が理解できません。さて、大学の知識を何に使うかというと…?
はっきりいって、わかりません。けれど中学のときに強制的に数学を学ばなければ、理系の分野に行こうと思う人はいないでしょう。あるとき医者になりたいと思ったとき、医学を勉強しようとしたらわけのわからない数式がいっぱいある。数学の知識なしで理系分野に行くことは、まるで英文法を学ばないで英語を読むようなものです。
教育は人生を豊かにする
小学校でよくわからないけれど頭のいい人間にさせられて、
中学校では使うかもわからない、学問の知識の基礎を叩き込まれる。
何かいいこと、あるんでしょうか?
はい、あります。まず頭のいい人間、色んなことをある程度知っている人間でなければ、会計レジを行うこと自体が専門職になってしまいますし、こうやって記事を書くことも専門職になってしまいます。
小学校は、専門職を一般職にする力を持っているのです。
おかげでどこのお店でもレジが壊れたときには店の人が計算してくれますし、メールでお互いの意思疎通を測ることが出来ます。
小学校がなければ、こんなことはできませんでした。
そして中学校。中学校は、まさに選択肢を提供してくれる場といえるでしょう。
教育の根本は、人を「自由」にすることだと思っています。
教育はきっかけを与えてくれます。
私たちは選択をするためには、選択の存在を知らなければいけません。あなたが、生徒が何か夢を持っているということは、その夢の存在をどこかで知ったということです。
私たちは苦しんでいる人を見ることがなければ、人を救おうと思いません。
私たちは機械を作る楽しみを知らなければ、発明家になろうとは思いません。
私たちは本を読まなければ、文学を学ぼうとは思いません。
教育は興味を与えてくれます。
難しい医学書でも、難しい古書でも、どこかしら分かる部分はあるはずです。だってそれは、中学校で習った知識だから。その分かる部分から、なんとか他の部分を理解しようとすることが、難しいことに対する興味であったりします。
過去に学んできた教養と学問の知識は、必ずそこで役立つのです。
教養は、学問は、私たちに自由を与えてくれるのです。
選択肢を知り、それに挑戦する意欲を与えてくれます。
塾講師はなにをすべきか
教育が、彼らの人生を豊かにするためというのならば、塾講師はそれに向けた貢献をしなければなりません。
私たちは彼らに選択肢を提示しなければなりません。
彼らの将来には何があるのか。
人間はどれだけすごいことができるのか。
あらゆる可能性を提示してやる必要があります。
成績を上げることは大切ですが、
それ以上にその先にある夢が大切です。
成績が上がることが、夢にどう繋がるのか。
そして生徒の人生をどう豊かにしてくれるのか。
成績とは、ある意味その生徒の将来の可能性を意味しているのです。
100点の子は色んな選択肢を持っていますが、
50点の子は半分の選択肢しか持ちあわせていません。
厳しい現実です。
けれど生徒はまだ自分の選択を決定する段階にはいないのですから、
選択肢を増やしていくことは十分にできます。
大学生か、あるいはその先か。
その生徒がどれか選択肢を選んだときに、幸せになれるかどうか。
教育者とは、生徒の将来の自由を、保証できる人であることではないでしょうか。