このたび、教育・アート・ジャーナリズムの現場で活動し、一つの専門分野では得にくい視点と技術の越境統合を目指す日本初のアルスコンビネーターとして活躍され、本サイトでも多くの記事を執筆されている矢萩邦彦さんが新たに横浜に自身がプロデュースした学習塾を開校されたということで、お話を伺ってきました。そのこだわりの数々から、矢萩さんの教育理念や、現在の教育に対する数々の問題意識を伺うことができました。
矢萩さんが教育に携わることとなったきっかけ
大学生時代のとある出来事
そもそも矢萩さんが教育の道を志すきっかけになった出来事は、大学生時代に友人の間で交されていたとあるやりとりでした。1995年1月、近年まれにみる多くの死者を出した阪神・淡路大震災が起こった時、テレビでは刻一刻と表示される死者数が増加していたそうです。そこで数人の学生が何時までに死者がどのくらい増えるか、といった内容で賭けをしていたそうです。矢萩さんはこの光景を見たとき、「義務教育は失敗しているじゃないか」と感じたとおっしゃっていました。
教育の気風が変化した
矢萩さんがインタビューの中でたびたび強調されていたのは、「教養」というものの大切さでした。まだ日本が欧米列強との競争に巻き込まれる前の江戸時代には、教育で最も重要視されていた考え方の一つに「教養」があったそうです。当時「教養」とは「人の気持ちがわかること」の意味で使われており、勉強をするということは、様々な知識・考え方を身に着け他人の気持ちの理解を深めることに意識が向けられていたようです。しかし開国後、明治時代に富国強兵政策をとり始め欧米列強に追い付け追い越せの気風になると、勉強することの意味は大きく転換しました。国を強くし、欧米を追い越すために学問は推奨され、江戸時代の「人の気持ちを理解する」といった概念は希薄になってしまったのです。このような状況は、たしかに当時の日本の状況を考えれば致し方ないことでしたが、第二次世界大戦が終わっても尚、日本の義務教育に江戸時代の「教養」が戻されることはなく、明治時代の気風を引き継いでしまっていたと矢萩さんは言います。
学問を修める前に人間としての「教養」を
このような教育制度の中で、ただ学問を学ぶのではなく、まずは人としてのしっかりとした「教養」を身に着けてから学問を学ばせる必要があると矢萩さんはおっしゃっていました。たくさん勉強する人、勉強がよくできる人というのはどの世界でもリーダーになることが多いですが、そんな人間に正しい倫理観や「教養」がなければ日本はますます閉鎖的になっていってしまうだろうとのことでした。そのような矢萩さんの考えから、自身が考える理想の教育をすべく今回新たに学習塾を開かれたそうです。
「知窓学舎」の特徴
さて、今回伺った知窓学舎という学習塾ですが、隅々に至るまで矢萩さんの教育理念が反映されたこだわりが施されており、一風変わった学習塾となっていました。今回のインタビューではその特徴やこだわりを「人」「もの(コンテンツ)」「場所」の3点から説明してくださいました。
生徒の人生観に影響を与える「生き様」を持った講師陣
講師に求める4つの要素
知窓学舎ではどのような講師を求めますか?という我々の質問に対し、矢萩さんは「知識」「技術」「情熱」の3つに加え、「生き様」がある人間、と答えてくださいました。「知識」に関しては講師として他人に物を教える上でまず自分が知らないものは教えられない、教える以上その分野に関してはプロフェッショナルでなくてはならないとのことでした。「技術」とは文字通り他人に物を教える技術で、ただ知識があっても教える能力にたけていなければ講師は務まりません。そして「情熱」ですが、講師というのはただ勉強を教えるだけではなく、生徒の人生を左右するような影響を与える人間でもありますから、当然「情熱」を持って仕事をすることは必要です。最後の「生き様」、これが他の塾とは一風変わった知窓学舎を語る上での重要なキーワードです。
学習塾が果たす教育的役割
そもそも学校と塾との違いについて、塾のもっとも大きな特徴は進路指導に長けているかどうかであるということを矢萩さんはおっしゃっていました。学校の先生の中で、他の仕事での社会人経験を経て教師をされている方は全体のわずか5%程度しかいないとのことです。進路指導をする上で、ただ目先の進学先や就職先を決めるのではなく、豊富な社会人経験からよりリアリティを伴った仕事の話や人生観についても伝える必要があるとのことです。これができる大人との関係を矢萩さんは「斜めの関係」と表現していました。小学生、中学生、高校生が学校の先生と親以外に社会人経験ある大人と触れ合う機会が最も多いのは学習塾です。親や先生でもなく、同級生でもない「斜めの関係」にある大人から何を得られるかは生徒の将来に非常に大きな影響を与えます。このような考えから、知窓学舎では塾講師以外に仕事を掛け持ちしている方や、前職での社会人経験豊富な方を講師として招くことを心掛けているそうです。実際にインタビューで伺った際にいらっしゃった講師の方は知窓学舎で講師を務めながらジャーナリストをされていて、他にも、翻訳や通訳の仕事をされている方や、ITのスペシャリストも講師として在籍されているとのことでした。
学習効果を最大限引き上げる少人数制のカリキュラム
実際に学習塾を語る上でメインとなるのはどのような教育をしているかということですが、知窓学舎の大きな特徴は何と言っても少人数制です。1クラスの人数をどんなに多くても12人までに抑えるようにしているそうです。個別指導でもなく集団指導でもなく少人数制での指導形態をとるメリットは大きく分けて2つあります。
「自由度」の高い教育
まず1つ目は「自由度」の高い教育を行えることです。十人十色というその言葉通り、生徒が10人いたら10通りの教育方法があるというのが矢萩さんの考えです。生徒一人一人が抱える課題や学力は当然異なっており、同じ教材を全員に無理矢理当てはめることは推奨できないとおっしゃっていました。1クラス最大12人という規模であれば、同じテーマの授業であってもその子のレベルに合わせて演習で取り組む問題のレベルを多少変えたり、その生徒がどうやったら最も伸びるかということを考えながら授業を進めることが可能であるそうです。
生徒間でも相互に影響を与え合う
そして2つ目の少人数制のメリットは「双方向的(interactive)」な教育を行うことが可能である点です。授業の中では生徒に一方的に伝える、または生徒個々人と講師の間で情報伝達を行うだけではなく、生徒同士の間でも互いに良い影響を与え合うことが理想であるといいます。就活生の指導もする矢萩さんは、今、社会で最も求められているのはコミュニケーション能力だと言います。それを身につけなければ「教養」を身につけたとは言えません。集団でのコミュニケーション能力を養うためには個別指導では難しい。10人程度の少人数制であれば、授業の中で生徒全員が意見を発表し、互いに共有し相乗効果を生むことが可能であるとのことです。
少人数制以外にも矢萩さんが大事にしていることがあります。それは生徒との「応答」のやり取りです。講師からの問いかけに対し生徒にメモを配布し、必ず何か意見を記入してもらい、それを教室内で共有するといったことをしているとのことでした。その問いかけは教科書的な内容にとどまらず、たとえば「なぜ人を殺してはいけないのか」といったように、先に述べた「教養」を養うための内容も多くあるそうです。また、生徒からの問いかけに対しても必ず「応答」することを心掛けているとのことでした。
生徒の学習効果を最大化するべく整備された学習環境
最後に「場所」についてですが、知窓学舎にはその教育内容だけではなく教育を行う環境についても多くのこだわりがありました。知窓学舎の特徴を一言で表すならば、「学習塾っぽくない学習塾」です。
子供にとって塾の嫌いなポイントとは
以前矢萩さんが勤める学習塾で生徒に「塾の嫌いなところは何か」というアンケートを行ったそうです。結果は、トイレが汚いこと、机が狭いことなどのように、学習環境に対する意見が多く、特にその傾向は学力の高い生徒ほど顕著にみられたそうです。与えられた環境で結果を出すことはもちろん大事な力ですが、環境を整備してよりよい結果を出すことが可能であるならば、そのような環境を整えるべきであると矢萩さんは言います。知窓学舎の学習机は塾とは思えないほどのびのびしており、1人当たりのスペースが通常の学習塾の比べると約2人分程度あるように見受けられました。また、トイレには大理石を使用し、清潔感あふれる雰囲気が漂っていました。その他教室内にはブックカフェのようなこだわりの本棚があったり、花が飾られていたりと、独特な落ち着いた雰囲気が漂っていました。
空間的に開かれた学習環境
この教室のもう一つの特徴は、空間的な仕切りがないことです。通常の学習塾であれば自習スペース、飲食(休憩)スペース、授業スペース、講師の待機スペースと、目的ごとに空間が分離されていますが、知窓学舎には空間を隔てるような仕切りは一切ありません。普段生徒さんがどのように生活しているか伺ったところ、休み時間には講師と隔てなくコミュニケーションをとったり、授業を受ける机でご飯を食べたり、中にはカーペットでごはんを食べる子もいるとのことです。ただし授業と休み時間のメリハリはきちんとつけるよう指導しているとのことで、このような空間的特徴にもただ勉強を教えるだけではなく自主性を尊重し子供たちの人間的成長を目指す独自の教育理念が現れていると言えそうです。
まとめ
塾講師に携わる方へ向けて
今回取材させていただいた知窓学舎は、学力の成長だけではなく生徒一人一人の人間的な成長も成し遂げるべく、「人」「もの(コンテンツ)」「場所」の細部まで様々なこだわりが施された学習塾でした。最後に、これから講師になろうと思っている人、また現在講師をしている人へ向けてメッセージをいただきました。大学生であるか社会人であるかは関係なく、教えることに情熱とプライドを持ってほしい、そして情熱をもって「知識」と「技術」を高める努力をぜひ続けていってほしいとのことです。
編集後記
実は私自身、小学生時代に矢萩先生の授業を受けていた生徒の一人です。当時から少し変わった授業をされていたことを今でも鮮明に覚えています。ただ授業がおもしろいから、個性的な先生だから、というわけではなく、その授業から伝わるメッセージが強かったからこそ記憶に残っているのだと思います。今振り返ってみるとその軸として「学力を伸ばす」だけではなく「『教養』を持った人間として大成すること」を考えられていたのだなと思いました。
今はまだ小さな学習塾ですが、今後の日本の教育を変えるきっかけになることを願っています。