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塾講師の教養のためにー社会【現代文のキーワード】

高校生

2021/12/17

まえがき

なぜ国語を教えることを嫌う講師が多いのでしょうか?

それは皆が国語は何を教えればいいのかわからないこと、そしてそこに書いてあることを深く語ることの自信がないからではないでしょうか。

本稿をお読みいただくまでに、記事「国語って何を教えるの?をお読みにいただくことをおすすめします。 

シリーズ【現代文のキーワード】は、書店にあるワードの解説書とは一線を画します。ここに書かれていることは専門知識とは違い、私自身が、その言葉を見て「思ったこと」「感じたこと」を徒然と書いてあるだけです。

本シリーズは、将来、国語を教えるかもしれない講師の皆さんが、現代文に出てくるキーワードを通じて、抽象的な”何か”を深く考えていただくことを目的としています。そして考えて得た結果が、生徒への現代文の深い解説につながると、私は確信しています。

 

 社会というテーマには、必ず”個人”が潜んでいる 

今回のテーマは”社会”です。

おそらく現代文の文章を4つほど選んだら1つぐらいは”社会”という言葉がテーマになっていることでしょう。本稿では皆さんに”社会”について考えていただきたいと思います。

一見”社会”という言葉はすごく曖昧であり、すごく範囲の広いテーマのように聞こえます。しかし、その対極にあるであろう”個人”を踏まえて考察すると、よくある議論に変わることが多いのです。

社会に関する多くの文章はほぼ必ずといっていいほど個人を想定しています。

このことを意識しながら、読み進めてみてください。

 

まずは”社会”の定義から!


まず定義をしましょう。

 

社会とはなにか?

 

社会学的に言えば、社会とは

「集合を前提とした人間」

のことを指します。

 

例えば、社会といえば複数の人間で構成されている、いわゆる”社会”を指すことにもなりますし、あるいはその社会を前提とした個人を指すことにもなります。

私たちは確かに幾多の相互依存によって生活しています。私が今来ている服は中国の労働者によって作られたもので、そして日本の販売員によって売られたものです。私が今使っているMac book airも、Appleによって開発されたものです。私は誰とも関係をなくして生きていくというのは不可能といっていいでしょう。

 一方で、それでもやはり「一人」という状態は確かに存在するのです。例えば将来に関する意思決定はまさにそれです。大学生の皆さんは将来どのような職業に就こうか、あるいはどこどこにESを出そうかと考えていることかと思いますが、その意思決定に悩むときはまさに「一人」でいます。

 けれどもよくよく見てみると、意思決定の対象となっている職業だとか企業だとかは、他者の集合が存在しなければ存在しえないものです。つまり、悩んでいる内容自体も人間の集合、すなわち”職業”を提供する主体を前提としなければならないのです。


こうなると私たちは”社会”という枠組みから抜け出せないように感じますが、まさにその通りです。

 

社会の裏側にある”個人”

ではこの社会という存在が現代文にどのように用いられるのか。

ここで”社会”という言葉を使った、主義主張や単語を羅列してみましょう。

・社会主義

・社会福祉

・社会化...etc

もちろん他にもいろいろなワードがありますが、ここあたりでいいでしょう。

 

社会主義・・・資本主義の生み出す経済的・社会的諸矛盾を,私有財産制の廃止,生産手段および財産の共有・共同管理,計画的な生産と平等な分配によって解消し,平等で調和のとれた社会を実現しようとする思想および運動。 (コトバンク)
社会福祉・・・貧困者などの生活を保障し,心身に障害のある人々の援助などを行なって,社会全体の福祉向上をめざすこと。(コトバンク)
 社会化・・・人間が、集団や社会の容認する行動様式を取り入れることによって、その集団や社会に適応することを学ぶ過程をいう。(コトバンク)

 

いずれも、社会の対極に”個人”を置いています。例えば社会主義では共同だとか、私有財産の廃止だとか、個人の要素をとにかく排除しようとしています。また社会福祉では「社会全体」とあり、全体が強調されています。さらに社会化では主体は個人であり、それが全体に適応しようという過程を見ることができます。

そうです、よくある個人VS集団という対立関係が社会の概念には秘められているのです。社会を論じた書籍はたいてい”個人”を持ち出してくるのです。

  

人間と蜂とアメーバ

なんかこれからなんの話をするのかわからないタイトルになりましたね…汗

これからお話しますのは、個人として生きる究極の姿(アメーバ)、集団として生きる究極の姿(蜂)の生き様を紹介し、人間がそのどちらに位置づけられるのかを検証してみようと思います。

 

アメーバの場合

ぶっちゃけアメーバの生き方なんてよく知らないのですが、wikipediaさんに教えてもらったら以下のような生き方をするらしいです。

アメーバは分裂によって増殖する。これまで典型的なアメーバでは有性生殖が観察されていない。実は本当に有性生殖を欠いていて、それが系統による形質の差ともかかわりがある、という可能性が示唆されている。(wikipedia)

 

一見、他者を必要としそうなアメーバですが、基本的に他者を必要としません。子孫を残すためにも他者を必要しないとかボッチを極めてますね...汗

アメーバは喜怒哀楽もないので他者とコミュニケーションを取ろうとするわけでもなく、さらには生きるために他者と協力しようとするわけでもない。究極的に、一人で、じっと生きているタイプです。

  

蜂(ミツバチ)の場合

こちらはアメーバと違って究極的に集団として生きるタイプです。蜂は各々針と毒を持っています。しかしそれは、自分の身を守るためではありません。自分の所属する巣に外敵が来た場合に、蜂たちは自分の針と毒を持ってそれを退治しようとします。しかし、蜂たちは自分の針と毒を消費するためには自分の命を犠牲にする必要があるのです。けれども彼らはそれを厭わず、自分の巣のためならと躊躇なく針を使い、自ら命を絶ちます。集団のための自己犠牲。まさに、集団として生きる究極の姿です。 

言い方はあれかもしれませんが、全体主義の時代のとある国の戦争の戦い方に似ているかもしれません。国のためであれば自分の命を厭わないという、自己犠牲の姿。 

しかし実際の人間は常にどちらかにあるというわけではありません。時には個人的であり、時には集団的(社会的)であるのです。個人主義だとか社会主義だとかいう主義や生き方がありますが、人間はどちらかにいるわけではありません。

 

人間の場合

人間は利己的です。当然自分の資産が大きければ大きいほうがよいと考えます。典型的なものは窃盗ですが、他者を傷つけても自分の利益を大きくしたいと考えています。ルールに沿ったものであれば、資本主義社会の中にある”競争”はそれでしょう。企業が自分の利益を追求して成長しようとすれば、当然他者の顧客を奪う必要がありますし、その結果としてリストラが起こることだってありえます。けれども企業からすればそんなのは知ったこっちゃない。とにかく、自分の利益を増やす必要があるのです。

※一見ひどい有様に思うかもしれませんが、これがあってこそ資本主義は成り立ちますし、各々が努力の対価としての成果を獲得できるのですから、悪いように思わないでください。

でも仮に、本当にお金持ちで、誰ともかかわらずに生きていいよってなったとして、彼らは本当にアメーバのように生きようとするかというと、そうでもない気がします。

 

一方で、人間は社会的です。見知らぬ子供が井戸に落ちそうになっているのを見たら、それを助けようとするでしょう。見知らぬ大人が線路に落ちているのを見たら、すぐさま電車を止めるボタンを押すでしょう。さらに、自分が目にすることもない、ましてや地球の反対側にいて、一生感謝されることもないであろう相手に向けて、幸せに生きていられるようにと募金したりします。それだけではなく、自分の子供のためにはと自分の命を犠牲にしようとする人もいます。

 

こう考えると、人間はすごく曖昧な存在だと言えます。個人で生きようとするし、社会で生きようとするし、結局どっちなんだお前、と言いたくなります。アメーバのように一人で生きられるからといって、おそらく一人で生きようとしないで、誰かのために役立とうとするでしょう(お金持ちはなんで援助が好きなんでしょうか?)。そして社会的かとおもいきや、一人の時間がほしいとかいいだす。どっちなんだよ人間。


とりあえず、人間は曖昧です。

一人で生きようとしないし、かといってみんなで生きようとしない。

アメーバでも蜂でもない、そんな曖昧な存在なのです。

ところで不思議じゃないですか?

なんでこんなに曖昧な存在が集団を前提とする”社会”を作り出すのか。

分業という制度を作ったり、法律という制度を作ったり、国家を作ったり、とにかく集団をつくりあげようとしています。

曖昧なのに、社会を創りだそうとする。そこで様々な課題が生まれてくるのです。

 

社会形成から派生する課題

自己意識

先ほど人間がすごく曖昧な存在だということを紹介しましたが、今度は人間の自己意識について少し触れたいと思います。

 

なんでかって?

 

それは自己意識という存在が、社会・組織を揺るがすものだからです。

先に述べたとおり、人間は確かに社会というか、集団というか、組織というか、そんな何かを作り出します。もし人間が蜂であれば、迷いなくそこの集団のために働き、そして死んでくれます(過労死にあたるのかな?)。けれども実際はそうはいきません。それは人間が社会のためだけに生きようとせず、必ず自分のことも考えようとするからです。


これが、自己意識の課題です。


人間は自分を集団と同一化せず、集団とは違う自分がいるんだぞという主張を持っています(もし自分を集団と同一化、つまり自分と集団はイコールだと思っていたら、それのために過労死するのは躊躇しません)。

 

蜂と人間の違いは、まさにこれです。

”自己意識”を人間は持っているのです。

 

自分は○○だ、と思っている人であればあるほど、社会と同一化されることはありません。

これがあるからこそ、集団が集団として機能することが難しくなったりします。

組織運営が難しいと言われるのは、社員が自己意識を持っているからですし、国家が司法という制度や刑法という制度を作るのも、自己利益に走る人間や自己意識をすごく強調したがる人間を規制するために存在するツールだとも、言えなくはないのです。

かといって自己意識を奪ってしまえば、人は自分の生きる価値を見失う。

いえ、各々が生きる価値を見出そうとすること自体が自己意識といえるでしょう。

どんな集団を形成したところで、その深層心理を消すことはできません。 

 

インセンティブ

さらに面白い見方がひとつ。

最近世間で”インセンティブ”という言葉が流行っていますが、インセンティブというのは個人の利益を最大化しつつも、社会の利益を最大化するような経済学的な研究です。つまり個人の自己意識を満たしつつも、社会がのぞんだ結果を得られるようなシステムを作ることですね。

そんなに人間が自己意識を強調したいのなら、集団を前提とせず、個人を前提とした集団を形成しようじゃないかというのがインセンティブの思考です。

今の研究はここがブームといってもいいかもしれません。

 

まとめ

社会の対極に個人を置くと、一挙に分野が広がります。

実際の現代文では派生した課題の一つを取り上げるでしょうが、根底には個人VS集団(社会)の構造があることが多いものです。

そしてそこから派生する課題が自己意識とインセンティブ。

今の社会は個人を前提としているのか集団を前提としているのか、将来どちらに動くのかは難しいところです。

 

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