なぜ国語を教えることを嫌う講師が多いのでしょうか?
それは皆が国語は何を教えればいいのかわからないこと、そしてそこに書いてあることを深く語ることの自信がないからではないでしょうか。
本稿をお読みいただくまでに、記事「国語って何を教えるの?」をお読みになることをおすすめします。
シリーズ「現代文のキーワード」は、書店にあるワードの解説書とは一線を画します。ここに書かれていることは専門知識とは違い、私自身が、その言葉を見て「思ったこと」「感じたこと」を徒然と書いてあるだけです。
シリーズ「現代文のキーワード」は、将来、国語を教えるかもしれない講師の皆さんが、現代文に出てくるキーワードを通じて、抽象的な”何か”を深く考えていただくことを目的としています。そして考えて得た結果が、生徒への現代文の深い解説につながると、私は確信しています。
文化相対主義は単なる姿勢。他の文化の前提にたって、相手の目線に立つための心構え
今回紹介するのは文化相対主義。
実は多くの人が勘違いしているであろうこの言葉の本当の意味を紹介し、そしてその誤解の元となる相対主義の解説にまで踏み込んでいきたいと思います。
ちなみに文化相対主義という言葉は現代文には本当によく出てくるのですが、自分を含めて間違った例として使われることが多いです。
それに一矢報いんとして書いた文章だと思ってください。
文化相対主義が生まれた経緯
文化相対主義というのは別に優しさから生まれたわけではありません。
つまり「どんな文化にも価値はあるよ!」だとか「すべての文化は尊重されなきゃいけないんだ!」とか、そんな優しい気持ちから生まれたわけではありません。
起源は文化人類学、それもそれが学問として体系化されていない時代から生まれました。
文化人類学はレヴィ=ストロースがその起源を作ったと言われています。レヴィ=ストロースといえば「あぁ!」と思う方もいらっしゃるかもしれません。
そう、『悲しき熱帯』や『野生の思考』の著者であり、人類学の始祖とも言われる人物です。
おそらく倫理の授業でこういうフレーズを聞いたことがあるのではないでしょうか?
「どんな文化も独自の背景を持って固有の体系を有している」とか
「どんな文化も独自の文脈を持っており、それは高度な社会構造を形成している」とか。
これはレヴィ=ストロースが西洋社会から離れた、西洋から”未開の地”と呼ばれていたところでフィールド・ワークしているときにわかったことらしいです。具体的には、
「西洋社会からしたら訳の分からないことをしているようだけれど、よくよく見てみると、きちんと理屈の通った高度な社会になっているじゃないか」
なんてことを思ったらしいのです。よーわからん。詳しく教えてくれよ。
なんてことをレヴィ=ストロースさんにコメントしたら(※実際にしたわけではありません)、その後に神話を例に使って詳しく説明してくれました。
神話サイドの考え方
「ある運河では、水の神が住んでいる。水の神は気性が荒く、気分屋である。機嫌が悪い時には嵐を起こして船を難破させることがあるが、機嫌がいい時には船に追い風を吹かしてくれる」
もしこの神話が”真”であるとして、あなたがこれを信じるとしたらどのようにするでしょうか?
当然、水の神が気分屋であると困るので、どうにか常に機嫌が良い状態を作ってあげなきゃいけないと論理的に導くはずです。さらにはそこで、「水の神も人間のような心を持っているのだから、その心を癒してあげるためには女性が側でお世話をしたほうがよい」と考えるかもしれません。
もちろんあなたのみならず、この話を信じる人は皆同じことをやります。
そして子も孫も、同じことをしだします。
そして何世代にもわたって同じようなことが続けば、
「女性を生贄に捧げよう」という習慣が生まれるのです。
確かにそもそもの前提が”科学的には”間違っているものではありますが、それが真であるとしたら、これらの考え方は別に間違っているわけではありません。
科学サイドの考え方
一方で科学の方はどうでしょうか?簡単に科学を信じる人を馬鹿にするような発言を2つ作ってみました。
「あの人は地球は引力によって人を引っ張っている、だから地球は丸くても人は落ちないんだと信じている。おかしなものだ。モノは上から下に落ちるものであって、そこには空間など存在しない。そもそも机は椅子を引っ張ったりしている様子など見たことがない」
「水に熱を加えると水分が空気中に透明になって漂うといっている輩がいる。おかしなものだ。熱には火の神が宿っており、その神は常に喉を乾いておられるから、水を吸い上げただけだろうに。そうそう、だから私は焚き火しているときは、火の神がお冷えにならない程度の少量の水をちょっとずつ与えることをしている」
前者は天動説の話ですし、後者は私の自作の神話です。
皆さんは”科学サイド”として科学の説明を信じているわけですが、万有引力だとか、水が水蒸気になるだとかを自ら証明し、納得したわけではありません。ですから自分で証明していなものを「当たり前だとして信じこむ」といった点では、科学だろうが宗教だろうが同じことなのです。
先の例を用いれば、天動説を信じている人は当然その法則にしたがった星座表を用いて星の観測を行いますし、火の神が常に喉が乾いていると信じている人は、火の神に少量の水を毎日振る舞うといった(科学の人からすれば)わけのわからない行動が生まれるのです。
そもそも西洋社会の人が毎週日曜日にミサに行くのだって、日本人が部屋に上がるときに靴を脱ぐのだって、それらには必ず”他の文化の人からみたらどうでもいい根拠”に基づいて生まれたものですよね?
あらゆる習慣・儀式というのは、何か彼らなりの理由があって創りだされたものなのです。
ここでやっと文化相対主義の話に戻ります。
結局どの文化も、前提が異なるだけでそこからの構造の形成能力は極めて高いのです。結論として日曜日のミサだとか、神隠しだとか、生贄だとか様々になりますが、必ず根拠を持っています。
しかし昔の西洋みたいに「あいつは野蛮だから」と言い切ってしまうと他の文化を理解することができなくなってしまいます。それはそうです。相手の文化を、自分の文化の前提から捉えようとしているのですから。
そうじゃないんです。
まずは相手の文化の前提にたって、そこから論理・文脈を理解しようとしなきゃ、他の文化を理解するなんて無理じゃないですか。
そうして生まれたのが、文化相対主義です。
文化相対主義とはつまり「思考の枠組み・前提を相手に合わせる」ための姿勢にすぎないのです。
何が勘違いされているのか?
この文化相対主義はあくまで前提を相手に合わせるだけです。水の神がお怒りになるから女性を生贄に捧げるのも、ある意味論理としては納得できるわけです。
多くの人は、
「文化相対主義を取ると、いずれの文化も大切だということになり、人権だとか人命だとかが軽視されてしまう」
と批判します。
けれどもそうじゃないんです。文化相対主義は文化を理解しようとするための姿勢であって、論理を理解しようとするための姿勢であって、正義だとか非人道的だとかの価値を生み出すものではありません。
論理の帰結としての手段を、正当化することは一切ないのです。
あとがき
私がこれを書こうと思ったのは、自分自身が文化相対主義の考え方を間違えていたからです。けれども私を始め、多くの現代文の文章は文化相対主義を「人権を壊しかねないもの」として紹介していることが多いです。
現代文にある文章は確かに示唆に富むものが多いのですが、そこに書かれていることは必ずしも真ではないということを知っておいていただきたいと思って、これを書きました。
(とはいえ、文化相対主義がもし誤った文脈で用いられているのであれば、もちろんそれに従って記述しなければならないのですが...)
そこに出されている例、本当に正しいのかなと思ったら原典を辿ってみてください。案外おもしろいものですよ。
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