なぜ国語を教えることを嫌う講師が多いのでしょうか?
それは皆が国語は何を教えればいいのかわからないこと、そしてそこに書いてあることを深く語ることの自信がないからではないでしょうか。
本稿をお読みいただくまでに、記事「国語って何を教えるの?」をお読みになることをおすすめします。
シリーズ「現代文のキーワード」は、書店にあるワードの解説書とは一線を画します。ここに書かれていることは専門知識とは違い、私自身が、その言葉を見て「思ったこと」「感じたこと」を徒然と書いてあるだけです。
シリーズ「現代文のキーワード」は、将来、国語を教えるかもしれない講師の皆さんが、現代文に出てくるキーワードを通じて、抽象的な”何か”を深く考えていただくことを目的としています。そして考えて得た結果が、生徒への現代文の深い解説につながると、私は確信しています。
客体としての身体と主体としての精神
今回紹介するのは身体と精神の話。
でも昨今注目を浴びているのは”身体”の方だけ。
身体性だとか、感性だとか、そういった言葉が現代文にはよく出てきますが、それらを理解するためには”精神”についても理解しなければなりません。
今回は人間を構成していると思われている2つの要素、身体と精神について見て行きたいと思います。
人間=身体+精神、という考え方のはじまり
まずみなさんは身体だとか、精神だとか聞いて何を思い浮かべるでしょうか?
多くの人たちはおそらく身体<精神といった構図を思い浮かべることだと思います。
身体というのは欲求の塊で、食欲やら睡眠欲やら性欲やらを有している。一方で、精神はそうした醜い欲求を理性を持って抑え、人間を人間たらしめるとしています。
このように、人間の構成を身体と精神に分割する考え方を心身二元論といいます。
ところでこの心身二元論ですが、最近からあった考え方ではありません。私が記憶しているのは、倫理の授業で習ったプラトンがその最初でしょう。
プラトンはイデア論を展開しました。私たちの意識(?)はいわゆる魂であって、それはイデア界のこの現実を行き来しているものだと。今では魂は身体という”監獄”に囚われているが、いずれそれは解放される…と。
さらに心身二元論という言葉が生まれたのは、デカルトのとき。
デカルトさんは『省察』の中で「人間は精神と身体の合成だよ」と言いました。
まぁだからなんだよって話なんですけどね。
けれども、デカルトさんのおかげで身体と精神についての哲学がスタートしました。
この問題は、臓器移植や自殺、リストカットの倫理問題にも直結します。
人間=身体+精神? 人間=身体or精神?
デカルト「精神+身体=人間、という方程式を発見したぞ!精神が身体を動かすんだ!」
これがデカルトさんの主張です。たぶん私たちの中でも「うむうむ」となるかもしれませんが、よくよく考えてみると、「だから何?」ってなりませんか?これを指摘したのが、2人いました。弟子のエリザベースとスピノザなのです。
エリザベース「精神って観念的じゃん?身体って物質的じゃん?でもなんで観念が物質を動かすことができるんだ?」
この指摘、ごもっとも。モノが動くためには、そのモノが何かによって動かされないと動くはずがないです。人間の身体だって、脳からの電気信号によって動きます。これらはすべて”物質的”なはずです。
けれどもなぜか急に、精神というわけのわからないものが出てきて、そしてそれが身体を動かすと言われてしまう。なんかおかしくない?
まるで神様が身体を動かしていると言わんばかりの説明で、論理的じゃありません。
そしてスピノザさんの批判は…
スピノザ「いやいやその方程式をまず証明してくれよ。精神だとか身体だとかの言葉があるけど、単純に『人間の解釈の問題』だろ」
まず方程式に根拠がないことを指摘。そしていろんな人が使っている精神だとか身体だとかの言葉は、単純に、人間を観念的に解釈すれば、精神になり、人間を物質的に解釈すれば身体になるという、心身平行論を唱えます。
ここで簡単にまとめておきましょう。
デカルトさんが主張したのは、精神が身体をコントロールするという説明です。けれどもスピノザはコントロールもなにも、そもそもそういった分離は存在しないという主張です。
加えて、
デカルトさんは
精神・・・身体をコントロールする”主体”のこと。観念的(思推)を本質とする。
身体・・・コントロールされる”客体”のこと。延長(物質)を本質とする。
と考えていたということを踏まえておくといいでしょう。
なぜこの話が大切なの?
だから何?って話になるかもしれませんが、この問題、案外深いです。
この問題は、「人間をどう捉えるか」という問題とイコールなのですが、もし人間を精神と身体という心身二元論の立場をとってしまうと、「自分の意思で行った結果として身体が傷つくのは、おかしいことではない。なぜなら、身体は精神の支配下にあり、精神のほうが優位であるのだから」という主張がOKになってしまうんですね。
でもなんか違和感がありませんか?
自分の意思ならば、自分の身体を傷つけてもいいのか?自分の命を捨ててもいいのか?
あるいは、臓器を提供してもよいのか?
私たちはこれが普通に行われることに嫌悪感を覚えるはずです。
それは私たちは心の何処かで、「身体は大切なもの」と思っているからではないでしょうか。
ではなぜ「大切」だと思うのか。その根拠がこの話にあるのではないかと、私は考えます。
まとめ:身体の大切さ
さてここあたりで身体と精神の関係がだいたいにまとまったところで、身体について説明していきましょう。
デカルトさんは精神と身体の対極構造を持ちだしましたが、これは他の構造に適用することもできます。
この世とあの世:この世にある身体が滅べば、魂は来世に行くいう宗教的な考え方
感情と理性:身体に伴う感情を精神たる理性が押さえつけるという倫理的な考え方
物質と観念:身体という物質の中に精神という観念が存在するという哲学的な考え方
とまぁ様々に。そしてこれらを見てみると、なんとなーーーくですが、どうも身体が劣位にあるように感じませんか?おそらく現代に生きる人たちはそうだと思うんですね。
でも身体は大切なんです。それは先の説明とは異なった意味で。
今まで身体は客体だとか牢獄だとか、そういった批判ばかりを受けておりますが、実際によく見てみると、身体がなければ私たちは色んなことができなくなります(当たり前ですが)。
a)間身体性
世の中に精神と身体があるとしましょう。
そしてこの世から身体が消滅したとしたら、私たちはどうなるでしょうか?
精神、つまり主体としての自分がここに存在するわけですが、世の中に”接触”する媒体を有さないがために、主体は主体として、ただそこにあることしかできません。イメージとしては、魂がそこにありつつも、じーーーーーっと動かない状態です。けれどもいろいろ考え事はできちゃうってイメージですね。
でもなんかこれって寂しいですよね。
美味しいと感じることも、楽しいと感じることもない。暑いとも寒いとも感じない、ただただ、考えるだけなのですから。つまり、感受性が損なわれてしまいます。
モノと精神の関係を見れば、感受性が中心になりますが、精神と精神の交流、つまり人と人との交流にも身体は必要です。
私があなたに何かを話すとき。
声を使います。文字を使います。ボディ・ランゲージを使います。
身体が存在しなければ、他者との関わりが一切失われてしまうのです。
このように、身体は主体と主体の交流だとか、主体と物質の関係を生み出してくれるという考え方を、間身体性と呼びます。
b)感情・習慣
突然ですが、みなさんは自分の感情をきちんとコントロールできますか?
タバコをやめることはできますか?禁酒できますか?
できる人と、できない人がいることだと思います。
それは感情があまりにも強かったり、タバコが習慣化している場合にはすごく難しいからでしょう。
このように、人間は自分の意思(主体)に関係のないところで、自分の行動が決定されることは多々あります。デカルトさんは「精神が身体をコントロールする」とは言いましたが、けれども精神がすべてをコントロールできるわけではないのです。
身体で実際に行動してきた行動が習慣になれば、そして感情があまりにも大きいものであれば、その精神を持ってしてもコントロールすることはやはりできません。
身体はこのように、精神にコントロールされないような図太さを持っています。
身体を馬鹿にしないでください。身体って、案外大切なんですよ。
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