なぜ国語を教えることを嫌う講師が多いのでしょうか?
それは皆が国語は何を教えればいいのかわからないこと、そしてそこに書いてあることを深く語ることの自信がないからではないでしょうか。
本稿をお読みいただくまでに、記事「国語って何を教えるの?」をお読みになることをおすすめします。
シリーズ「現代文のキーワード」は、書店にあるワードの解説書とは一線を画します。ここに書かれていることは専門知識とは違い、私自身が、その言葉を見て「思ったこと」「感じたこと」を徒然と書いてあるだけです。
シリーズ「現代文のキーワード」は、将来、国語を教えるかもしれない講師の皆さんが、現代文に出てくるキーワードを通じて、抽象的な”何か”を深く考えていただくことを目的としています。そして考えて得た結果が、生徒への現代文の深い解説につながると、私は確信しています。
観念とは哲学の世界。自然界には無いが、私たちの思考の中に在る、そんな存在
観念という言葉は現代文によく出てきます。いえ、現代文というより、あらゆる思想・あらゆる考え方に現れてきます。おそらく塾講師の皆さんの中にも、現代文にこの言葉出ててきただけで混乱してしまうことがあったのではないのでしょうか。
この言葉は現代文の中でも重要ワードTOP10には入ってもおかしくないと個人的には思っています。それほどに重要な言葉を、ここでは物質との対比の中で解説していきたいと思います。
なぜ観念が大切か
そもそもなぜ観念という言葉が大切なのでしょうか?
先ほど申し上げましたとおり、あらゆる思想の基礎になっているわけなのですが、正確には異なります。哲学・思想の世界そのものを表しているから、大切なのです。
どういうことか?
私たちが何かを話すときは、往々にしてフィールドを決定しています。例えばある学者が動物の生活について研究しているとすれば、その学者は動物のことをある程度知っているでしょう。もしあなたが金融取引をしようとすれば、金融業界のことをある程度知っている必要があります。
哲学・思想の世界でいう観念というのはいわば、その「世界そのもの」なのです。
観念を定義する
「世界そのもの」と言われてもわからないかもしれません。
それでしたら「物質として存在せず、思考の中にしか存在しないもの」として表すとどうでしょうか?例えば精神という言葉。これは自然界には存在しませんが、人間の思考の対象となっています。善悪も同じで、それは価値の話であり、自然界に存在するものではなく、思考の中にしか存在しません。
観念というのはこうした、「自然界には存在しないものの、思考の対象となるものが存在する世界」を表すので。
これと対極にあるのが物質だとか、自然界とかです。原子で構成されたものだとか、空間的な移動が可能である”モノ”を指します。
観念と物質を深めてみる
もっと深めてみましょう。観念と物質をさらに特徴づけると以下のようになります。
観念・・・思考の中にしか存在しないもの。哲学の対象。抽象的。主観的。
物質・・・自然界に存在するもの。物理学・化学の対象。具体的。客観的。
①学問の違い
哲学で考察されるものは往々にして現実には存在しないものです。善だとか○○主義だとか、そういった類です。一方で物質は物理学の対象となります。モノの構成について分析しようとすれば化学の分野になりますし、モノの移動の話になれば物理学の対象となります。
②抽象と具体
抽象化の先にあるものは観念であり、具体化の先にあるものは物質(というか現象)です。例えば「席を譲る」という行為。この行為自体は、人が席から離れ、他の人がそこに座るという物理的な現象ではありますが、その行為は”善”として抽象化されます。あるいは”善”という言葉を具体的に説明してくれと言われたら、「『他の人に席を譲る』ような行為」といった説明になるでしょう。
③主観と客観
観念と物質が本当に違うというのは、主観と客観でより明らかになります。まず観念ですが、こちらは一人一人によって、世界が異なってきます。私が持っている善と皆さんが持っている善は当然異なるものですし、そこには共通する要素を形成するのはかなり難しいです。一方で物質の方は誰がなんと言おうともその現象自体は変化することがありません。「他の人に席を譲る」という言葉を「ある人が席を立ち、他の人をそこに座らせる」という言葉に置き換えれば、その物理現象にはなんら反論する余地はありません。誰が見ても、それは正しいのです(※「譲る」という言葉には往々にして善の要素が含まれていますので、あえてこのような表現にしました)。
そもそも観念というのは、いきなり存在するものではなく、物質や物理現象から生まれてくるものです。下の図を見ると、一つの物理現象が人によって解釈が多様になっていることを表しています。解釈する主体が異なれば、観念(捉え方)も異なってくるものなのです。
Aさんが持っている観念とBさんが持っている観念は異なります。しかしその間には何かしらの共通要素を持っているはずだといって、観念をより客観的にしようと、普遍化する試みを哲学といってもいいかもしれませんね。
観念と論理の関係
私たちが”論理”だとか”反論”というものの背景には、観念と物質の相互関係を垣間見ることができます。これはけっこう面白いですよ。
死刑はよくない。なぜなら、死刑は人の命を奪うものであり、尊厳を奪うものと同義であるからだ。
まずこれは物理現象として
死刑→人の命を奪う。
というのがあります。物理現象は客観的ですので反論の余地がありません。むしろ反論しなければならないのは、人の命=人の尊厳、となっているところでしょう。
論理にはいくつかのパターンがあるのですが、その中でも、観念と物質を結びつけたところについては反論の余地が十分にあります。自然界は客観的ではありますが、観念の世界は主観的なのですから。
※論理のパターンは、
・物質世界の中での、A→B(例:死刑によって人は死ぬ)
・観念世界の中での、A→B(例:人に迷惑をかけることは、良くないことだ)
・物質世界と観念世界の間にあるA→B(例:席を譲るのは良いことだ)
以上3つになります。物質世界での議論は完全に理系の世界になり、一方で観念世界での議論は哲学の世界です。
実際の”観念的”の使われ方
現代文で”観念的”と使われる場合には、だいたいそれはネガティブなイメージで捉えられます。現実にそっていないだとか、思考の中にしか存在しないだとか、そういったイメージです(実際にはそれも大切なんですけどね)。
ネガティブに使われるのは、観念的=わかりにくい、というイメージがあるからですね。
例えば哲学者が頭のなかであれこれ考えたことを、私たちの生活に基づかないように説明されたらどうでしょうか。
相互主観性あるいは共同主観性ともいわれる。純粋意識の内在的領域に還元する自我論的な現象学的還元に対して,他の主観,他人の自我の成立を明らかにするものが間主観的還元であるが,それは自我の所属圏における他者の身体の現出を介して自我が転移・移入されることによって行われる。ーコトバンクー
ここにある説明って、全部観念の世界じゃないですか?
私たちが生活の中でこれらを普段から考えているならばいいのですが、こんな感じで、一人で勝手に思考したことを、観念のまま(主観的なまま)説明されてもわけがわかりません。
人に何かを説明する、訴えるときには必ず間に具体例(物質世界のモノ)を通じて行わないと難しいでしょう。主観的なものは、一度客観的なものの何かを通して説明しないといけないのです。
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