第2次世界大戦開戦
前稿「【戦争を振り返る】第2次世界大戦の歴史から学べること①「世界恐慌から開戦まで」」では、
- なぜ、今「第2次世界大戦」を振り返るのか
- 大戦の引き金となった世界恐慌
- 満州事変が起こった
- 第2次世界大戦、開戦
について、お伝えしました。
本稿では、
第2次世界大戦が開戦してから日米開戦に至るまでのプロセス
をわかりやすく解説します!
目次
1.総力戦体制へ
2.国民統制
3.国民(臣民)の本当の気持ち
4.アメリカの準備
1.総力戦体制へ
まずは日本が全勢力を傾けた総力戦体制から見て行きましょう。
1941年12月8日に日本がハワイ真珠湾を攻撃してから本格的に連合国との戦いが始まりました。
総力戦:軍事作戦による戦闘だけでなく、経済力・工業力・労働力などの持ちうる国力の全てを戦争に投入することを重視する考え方
大国アメリカやその他連合国と戦う日本はまさに「総力戦」と呼ぶに等しい状態でした。
太平洋戦争に先駆け、政府は1938年に国家総動員法を定めました。
戦争を続けていくための資金や、道具などの資材、労働力を国が自由に使える法整備をするためです。
この法律を踏み台に、翌年国民徴用令も適用されます。
これにより、強制的な軍人招集の根拠が出来上がってしまいました。
このほかにも戦争に向けた統制令が次々と出されますが、その点については後述します。
さらに、物資の面でも統制を加えました。
激戦時に備え、生産物を軍事関係物資に重点を置くようにしたのです。
そのため、食料や衣類などの生産が減り、お米、味噌、木綿、しょうゆなどは配給制となりました。
必要最低限だけ国が配形になった、ということですね。
- 食料や衣類などは買いたくてもそもそも生産が少ないから手に入らない
- わずかに手に入る配給もわずかな量
こうなると、だんだん民衆の生活が苦しくなってくるのが、容易に想像つくのではないでしょうか。
<ここがポイント>
総力戦体制の諸政策で、暮らしは貧しくなる一方だった
2.国民(臣民)統制
政府は、国民統制の法整備を急ぎます。
為政者が戦争を遂行しやすくし、反戦分子が国民から出てこないように予防するためです。
その最たるものが治安維持法の改正です。
元々1928年の時点で田中義一内閣が緊急勅令によって国体を変革しようとする、
つまり国家にとって危険な人物に対しては死刑に出来るよう改悪をしていました。
1941年、政府はこれに手を加えます。
たとえば、過去に国体を変革しようとした前科がある人をイメージしてください。
こうした人は極刑にならない限り、一定期間の刑期を終えたら社会復帰することができます。
しかし、治安維持法改正(悪?)後は違います。
再犯を起こす可能性があるものに対しては、起こしてなくとも予防拘禁が出来るようにしました。
これによって、当時の国家にとって都合の悪い人物を再び社会に出さない状態を作ります。
また、検閲も行って、新聞や出版物などで反戦・反政府を煽ったり、日本政府にとって不利な情報がある場合には出版できないように徹底しました。
国民は戦況についてラジオから流れてくる大本営発表というものを信じる以外にありませんでした。
もちろん、この大本営発表も政府当局の放送です。
仮に戦局が不利でも、日本がさも快進撃を続けているかのような報道をしたため、
当時の国民は戦争の実態をつかむことができませんでした。
さらに、この時期の日本の総力戦体制を伺える1つの出来事があります。
当時、男性が戦場へ駆り出される際の通知に赤紙と呼ばれた召集令状が使われていました。
この赤紙によって戦場での人員を多く確保していた事により、工場での働き手が不足してしまいます。
そこで、ついに中学生以上の男女も工場へと動員されてしまうことになりました。これが勤労動員です。
<ここがポイント>
政府は、戦争を進める上で都合の悪い(反戦呼びかけなど)情報が回らないよう、徹底的に統制した
3.国民(臣民)の本当の気持ち
こうした社会の中で、国民は戦争に対しどのような気持ちを持っていたのでしょうか。
軍事動員の不足が深刻化すると、国民召集の範囲は文系大学生にも拡大します。(学徒出陣)
戦争が進み空襲が激化すると、学童を戦火から免れさせるために、学童疎開も頻繁になり、
地方の旅館や寺院などに集団で疎開します。
ここまで述べてきたように、
物資もない、戦局もわからない、学問をするはずが戦場へ駆り出される、学童疎開で親子離れ離れ・・・・・
などなど。大変厳しい生活を強いられたことにより、国民の苦しさはすでに極限に達していました。
政府は、国民の戦意の喪失を恐れ、街に
・「ほしがりません、勝つまでは」
・「ぜいたくは敵だ」
・「鬼畜米英」
というスローガンポスターをいたるところに並べました。
戦争物資をより徹底するために国民が節約をすること、そして戦意を煽ることがその目的です。
しかし、国民の間では過酷な生活にすでに厭戦ムードが漂っていました。
<ここがポイント>
苦しい生活の中で、国民の厭戦ムードは次第に高まっていた。
4.アメリカの準備
国内がこうした状況の中、アメリカも戦争終結へ向けて着々と準備を進めていきます。
アメリカは日本の真珠湾攻撃により出鼻こそくじかれていましたが、
やはり経済力・軍事力において日本とアメリカは桁違いでした。
ミッドウェー海戦以降は日本が植民地支配していたサイパン島、テニアン島、グアム島を次々と奪還します。
奪還に成功したアメリカはその3島において計7つの飛行場を利用し、本土攻撃の準備に入ります。
この時日本はアメリカや中国への攻撃拠点としてこれらの島で飛行場を建設していました。
しかし、その最中でアメリカに奪還を許したため、結果だけみると、
日本本土攻撃のためのアメリカ空軍飛行場を日本がアメリカのために作る
という皮肉な事が起こりました。
アメリカは重要ではない島には目もくれずに軍事戦略上重要な地点だけを重点的に制圧していきました。
そのため、軍事戦略上重要視されなかった島には空爆も起きません。
派遣された日本兵、住民は農業をしながら日がな平和な毎日を過ごしていたのです。
戦争の歴史を学習すると、悲惨さや被害面ばかりに目がいきがちですが、
アジア・太平洋戦争にはこうした様々な側面があるということを、ぜひ覚えておいてください。
なお、この際の教材で1つ情報提供をしておくと『南の島に雪が降る』(文藝春秋新社、1961年)という小説を推奨します。
そこでは西部ニューギニア戦線に動員されていた兵士が描かれています。
中身を読み進めると、攻撃をしてこないアメリカ軍の飛行機を見上げながら農業をし、陽気に暮らしている日本兵の様子が描かれています。
<ここがポイント>
アメリカは、軍事上重要な地点のみを標的としていた
戦争中、派遣場所によっては日がな平和に過ごせる兵士もいた
まとめ
本稿では、第2次世界大戦の戦時中、日本がどのように戦争と向き合っていたか。
ということをお伝えしました。
現在でも戦後補償などで我々には「戦争責任」が問われています。
しかし、当時の戦争責任について考える際に
- その責任を追うべき人は、当時の為政者個人なのか
- その戦争を止められなかった民衆にもあるのか?
- 何をすれば責任を果たしたことになるのか
- 戦後の自分たちが負うべき責任は何か
ということを、歴史を知らないまま考えることは出来ないのです。
歴史を学ぶというのは単に、過去にあったことを知るだけでなく、
こうした現代の問いに目を向けることでもあるのです。
本稿、本シリーズではそうした思いから執筆させて頂いています。
次稿では終戦までの道のりの指導法をご紹介したいと思います。
以上です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!
<参考文献>
・岩波講座『日本歴史』17・18(岩波書店、2013年)
・木坂順一『昭和の歴史 7 太平洋戦争』(小学館、1982年)
・赤澤史郎・栗屋憲太郎・豊下楢彦・森武磨・吉田裕『総力戦・ファシズムと現代史』(現代史料出版、1997年)
・岩波講座『アジア・太平洋戦争』1(岩波書店、2005年)