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塾講師の教養のために―家族【現代文のキーワード】

高校生

2021/12/17

最後の砦は家族か、社会か

「家族」について知る意義

家族というワードは現代文によく出てきます。というのも、家族とは私たちが最も身近に感じている集団であり、共同体なのです。ゆえに、社会学・心理学・政治学は、基本的に人々の生き方を調査するとき、必ずといっていいほど家族に焦点をあて、どのように人々の生活が変化したのかを調査します。それだけではありません。個人と集団の対立軸、さらには近代から現代への変遷を垣間見ることができます。

今回の記事では家族がどのように変化したのか、そして今の家族がどうあるのかを見ていきます。

 

最も身近な共同体

※共同体については、共同体についての記事「塾講師の教養のために―共同体【現代文のキーワード】」をご覧ください。

元来のイメージである共同体は、人の移動が円滑になること、たとえ田舎であってもITによって都市と繋がれるようになったことから、だんだんと消失してきています。一方で、利害が一致する集団だとかそういうのは生き残っています。

家族を考えるといっても何を考えるんだと思うかもしれませんが、家族というのは私たち個人を形成するにあたってすごく重要な位置づけにあります。生まれてきたときに、最初に属している集団が”家族”なのです。これは国家が成立する以前から、あるいは社会が形成される以前から存在する話です。動物にだって家族はいるわけですからね。

けれども、そういった生殖的な意味での家族ではなく、別の意味が付与された家族観を、私たちは持ち合わせています。それを見て行きましょう。


テレビから垣間見る家族

おそらく家族を論じるにあたって一番便利なツールがテレビです。テレビの変遷はまさに、家族のあり方を表しています。

まず、テレビが登場した頃。1950年代に白黒テレビが出た時は、当然それは高価なものでしたから、店頭に飾られる、あるいは一部の家にしか置かれませんでした。人々は店頭のテレビを見て試合を観戦することもあれば、テレビを持っている人の家に押しかけて上がらせてもらったと聞きます。このときはまだテレビはある種の”公的”な要素を持ち合わせていました。

徐々に社会が進歩すれば、高価な財が安価な財へと代わり、「三種の神器」と呼ばれるように、一家に一台の必需品となりました。当然先ほどのように、家にみんなが押し寄せるということはなく、家族が居間でテレビを見ながらご飯を食べる、そんな光景が出てきました。だいたいこれが1960年代~1970年代で、「サザエさん」の様相がこれに該当します。そういえばチャンネル権という話がありますね。家族にはテレビが一台しかないわけですから、そこには誰がどのチャンネルを見たいのかという争いが起こります。まぁ争いというほどの争いではないのですが、一番権力を持っている人がその権利を行使するよねっていう話です。

けれどもそれも今や変わりました。まずテレビが一台じゃなく、二台、三台へと変化していくのです。それはテレビ自体が安価になったというのもありますが、PCや携帯がテレビの機能を持ち始め、実質的にテレビ番組を見ること自体安価になってしまったということでしょう。すると、居間という家族が集まる空間が崩れます。それだけではないのです。家族がある一つの番組(朝ドラとか)を好む場合、みんなでそれを一緒に見るのが普通でした。しかし今ではそれが始まる時間に居間に集まる必要はありません。録画して、見たいときに見ることができる。時間の束縛からも解放されるようになったのです。 

このように、モノや技術の変遷に伴って家族の様相が変わるというのは、よく言われることです。では具体的に、最近の家族は昔の家族と比べてどのように違うのかを見て行きましょう。

縦の社会の崩壊

最初に思いつくのは親戚との関係が薄れることではないでしょうか。サザエさんにも表現されているように、家族といえば祖父母までを含めた三世代の家族というのも珍しくはなかったのです。けれども今では核家族化が進み、両親と子供で一つの集団という単位になりました。祖父母とは別の家に住むし、それだから叔父・叔母との関係ももっと薄れてしまう。両親と子供を単位とした核家族が増加していきます。これ自体は悪いことではないのですが、これにより、”家系”という考え方が薄れ、自分がどこどこに所属しているとかいう話もなくなります。

個人化


先のテレビの話にも関連します。家族が個人化するようになったのは、産業革命あたりです。もともとは「家内制手工業」と言われるように、家族が一緒になって手作業を行い、製品を生産することが普通でした。しかし機械が導入されて家族で生産活動を行うことがなくなり、父親が工場に働きにいくというマニュファクチュアが進行します。日本でも同じで、家族単位で農地を耕していることが普通でしたが、戦時を通じて工場で働き手が必要となると、その体制も崩れ去ります。「出勤」が家族を変えました。

次に家族を崩したのは、都市化・交通手段の普及でしょう。人があちらこちらへと移動することが可能となり、都市で働くことが増えてくる。そうなると、「出勤」だったものが「出張」へと変わりそれがさらに進めば「単身赴任」へと変わるのです。 

製品も家族単位から個人単位の生産に移り変わります。安価になっていったり、小型化されたりなど、個人がそれを持つことが容易になります。家に一台あった黒電話は、個人が持つ携帯電話へと変わり、家に一台あったデスクトップは、一人一台のノートパソコンへと変わりました。さらには空間も仕切られます。子供用の部屋というのもあれば、勉強部屋というものの存在まで出てくる。

そしてこの個人化した結果として、それぞれが家族を懐かしむように「家族イベント」を実施します。「みんなで旅行に行く」「みんなで映画を見る」。このこと自体が珍しいことかのように。それは個人での旅行というのが、個人での映画というのが当たり前になった裏返しなのではないでしょうか。

この個人化を考える際に良いワードが近代家族というものです。


家族崩壊!? 

【近代家族】家族の歴史的形態を考察する場合の概念。社会の近代化に伴い,家族はその構成を核家族化するが,それとともに家族の有していた機能と構造もまた変化する。すなわち伝統的諸機能が消滅し,社会的諸機関がそれに取って代る。 ーコトバンクー

生産能力は工場に変わる。話し相手は学校へ、会社へと変わる。家族が提供していた機能を、社会が提供するようになり、個人が家族にとどまる理由がなくなったということです。

皆さんはこの言葉をドラマでもよく聞くのではないでしょうか。

 

「家族は助けあって生きていかなきゃ」

 

これに対して、社会はこう答えるのです。

「家族が助けなくても、社会が助ける」

昔でしたら両親が死んだらどうしようもないことになりましたが、今では、少なくとも生きていくことは十分に可能な制度が整っているのです。というより、「家族を亡くした子どもたちがかわいそう」という善意が、家族の機能を奪った結果、制度が整ったといっていいでしょう。 

家族の機能を社会が奪おうとする構図は、家庭内暴力も原因にあります。 

 

家族という恐怖

家族といえば、家庭内暴力というのが問題になっています。父親が母親に暴力をふるうのか、父親が子供に暴力を振るいながらも、そこに母親が入り込まないのか。あるいは母親から父親への精神攻撃なのか。いずれにせよ、家庭内暴力は解決しにくい要素があります。一つにはあまりにも”内部”の問題ゆえに、介入しにくい、事実確認を取りにくいということ。もう一つは、暴力という恐怖によって社会に向かって声を上げることができないということです。 

しかし、本当に怖いのは暴力そのものではなく、家族が持つ”家庭の事情”という、触れてはいけない神聖な領域を作り出す力です。家族はある意味、最終手段ではあります。もしあなたが借金まみれになったり、あなたが精神的に病んだ時には家族が救いの手を差し伸べてくれることでしょう。しかし逆に、家族であるからこそ、外部からの干渉が届きにくいのです。家族という空間の中で暴力だとか、不和があれば、あなたはそこから逃れることはできないのです。それはたとえ警察であれ、政府であれ同じです。家庭内暴力の難しさは、家族の持つ魔力ゆえではないでしょうか。

しかし、家族のもつ魔力を崩そうとしている社会があるのも事実です。2001年には配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律(DV防止法)が制定され、家庭内暴力を防ごうとする広告が出てきたのもそうです(最近電車で広告ありますね)。

「個人の安全を守るのは国家の役割」と言ってしまえば、これは当たり前ということになるのですが...

けれども、これでもし、教育・経済の問題に国家が介入するようになったら、それこそ家庭の役割が成し得なくなります。人の教育方法について理想の方法が見つかれば、家族が進路相談や教育に携わることはなくなりますし、経済の失敗をしても、国家が担ってくれるとなったらそれこそ...

家族は将来、どんな役割を担うんでしょうね。

 

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