いかにして国を守るか
前記事「朝鮮戦争の指導法②『開戦初期の動き』」(URL:http://www.juku.st/info/entry/1090)では、朝鮮戦争が与えた国際的な影響や、日本国内での自衛隊創設、国連の決議の様子をご紹介しました。
ここで、簡単におさらいをします。
1950年6月25日に北朝鮮が38度線を越えて韓国側へと侵攻したことで、朝鮮戦争が勃発します。
同日の夕方にアメリカ大統領のトルーマンは直ちに韓国への全面支援を表明しました。
すでにアメリカ軍の大半が韓国から撤退していたため、日本に駐留していた約7万5000人の米軍兵士が応援に駆けつけることになりました。
そのため、戦後の改革によって軍隊が解体されていた日本は、軍事的な空白地となってしまいます。そうなると、この機会を狙ってソ連が日本に侵攻してくるかもしれない。
そう考えたアメリカは、日本首相の吉田茂に対して警察予備隊の創設を指令します。これが、自衛隊の前身組織でした。
国連は北朝鮮に対して戦争行為の中止を求めますが、進撃は止まらず、わずか3日で韓国の首都ソウルを占領します。
そこで、7月7日国連は武力制裁をするためにアメリカを筆頭とする国連軍を投入することを決定しました。しかし、装備の差と勢いに押され、韓国及び国連軍は朝鮮半島南部の端まで追い詰められます。
ここまでが前回の記事でお伝えした授業の内容でした。
本稿では
ギリギリまで追い詰められた韓国軍・そして国連軍がいかにして韓国を守りぬいたのか何故戦争が長期的になったのかという2点について、授業後生徒がしっかりと説明できるような指導法をご紹介したいと思います。
崖っぷちに立たされた韓国・国連軍
1950年7月7日、韓国側に国連軍を投入するも、戦局は好転させられず、より悪化してしまいました。
前稿の最後の部分でも説明したとおり、朝鮮半島最南端の釜山で海を背にするところまで北朝鮮軍に追い詰められます。もはや、北朝鮮の朝鮮半島軍事統一は目前でした。
しかし、ここから韓国・国連軍は踏ん張ります。この最終戦線でまさしく国の存亡をかけて必死に戦います。
対する北朝鮮もあと1歩というところまで来て、攻めきることができません。
韓国を最南端まで追い詰めることが出来た反面、本国との距離が遠くなり、燃料や食料や武器などの補給をしなければならないものが届きにくくなっていたからです。
そうなると相手を攻撃しようとしても球切れなどによって武器が使えない、兵士が良い動きをするための食料も中々届かないという要素が重なって大規模な攻撃に出れなくなっていました。
さらに、空の戦いはアメリカが圧倒的に優勢でした。
そこで、北朝鮮が軍に送る補給路に狙いをつけて空爆を実施します。ただでさえ補給が滞っていた北朝鮮軍は
空爆によって間接的な大ダメージを受けます。
兵士は飢えに苦しみ、脱走する者も現れます。わずかにですが、戦況が動き出していました。
北朝鮮の金日成はこうした状況を聞きつけ、北朝鮮軍の脱走する兵は銃殺するよう命じ、進撃せざるを得ない状況にします。
国連軍の大反撃
こうして少しずつ動き出していた戦況ですが、9月15日の仁川上陸作戦によって逆転します。
ここは地理的な要素が重要になるので、授業で指導する際には必ず地図帳を用いて説明してあげてください。
この作戦は、韓国・国連軍の最終戦線である釜山を倒そうと前のめりになっている北朝鮮軍の背後に大部隊を送りこみ、北朝鮮軍を包囲することを狙いとしていました。数にして約4万人の米軍兵と250隻の艦隊という準備の周到さでした。
さらに、作戦が成功するように、アメリカは朝鮮半島の東側に船を集結させて北朝鮮の注意をひきます。
これは、アメリカの常套手段であるおとり作戦と呼ばれるものです。
この作戦が功を奏し、国連軍は狙い通り北朝鮮軍の裏側にまわりこむ事に成功します。
今度は一気に北朝鮮軍が劣勢に立たされます。包囲された北朝鮮軍は、まとまって逃走すれば国連軍に一網打尽にされます。もはやバラバラになって逃走するしかありませんでした。
これを国連軍は追撃します。そしてこの作戦から11日後9月26日にソウルを奪還することに成功します。
こうして勢力を取り戻した国連軍が、今度は、北朝鮮を攻撃するため38度線を北に越えます。
歴史に「もしも」はありませんが、この作戦がなければもう少しこの戦争は早く終わらせることが出来たかもしれません。では、その「もしも」の根拠は何か。ここから次の説明に入ります。
中国人民義勇軍、参戦
ソウルを奪還してから約3週間後の10月19日に、勢いにのる国連軍は北朝鮮の首都ピョンヤンを占領することに成功します。
釜山に追い詰められた時とは打って変わって攻勢に出ていました。
そのまま北上を続け、ついに国連軍は北朝鮮を朝鮮半島最北端まで追い詰めます。今度は北朝鮮が崖っぷちに
追い込まれ、国連軍の勝利が目前に迫りました。
しかし、ここから朝鮮半島の最も重要かつ厄介な局面が訪れます。10月25日、北朝鮮を攻撃しようと朝鮮半島最北端にいた国連軍は、ある武装部隊と衝突することになります。
これが中国人民義勇軍でした。朝鮮戦争に中国が直接的に関わった瞬間でした。
ここから朝鮮戦争の戦いの構図は国連軍と中国軍の衝突へとシフトします。
そして、北朝鮮の軍よりもはるかに強い中国人民義勇軍に、国連軍は手を焼きます。
中国は攻撃において人海戦術を採用し、量をもって国連軍とぶつかったからです。
当初国連軍は、中国は参戦してこないはずと考えていました。また、米軍の司令官には朝鮮人と中国人の区別がつかなかったこともあり、有効な対応策を練るのが遅れ国連軍は総崩れになってしまいます。
再び戦局が転換しました。
再び劣勢へ
中国軍の人海戦術はかなりの効果をもたらしました。国連軍が、応戦するために中国軍兵士を銃で撃っても撃っても、次から次へと突撃してきます。結局、中国軍が押しに押して、12月4日に国連軍の占領したピョンヤンを奪還します。
中国軍の進撃はその後も続き、38度線を越えて韓国側へ南下します。年が明けた1月4日、国連軍が死に物狂いで奪還した韓国の首都ソウルを再び占領します。
今度は、国連軍が北緯37度線で守備戦線を組み立て中国軍進撃の阻止に努めました。
中国軍の進撃もこの辺りから陰りが見え始めます。これも北朝鮮軍の時と同じで、中国軍は本国との距離が遠くなると同時に、補給路への空爆も受け、物資の補給がスムーズに進まなくなってしまったからです。
国連軍は再び反撃に出ます。3月15日には再びソウルを奪還することに成功します。
その後は北緯38度線を境目に、武力衝突をしては引くという繰り返しになり、戦線は膠着状態に入りました。
まとめ
本稿では、
・「ギリギリまで追い詰められた韓国軍・そして国連軍がいかにして韓国を守りぬいたのか」
・「何故戦争が長期的になったのか」
という2点をしっかりと生徒が理解できるようにするための指導法をここまでご紹介してきました。
朝鮮戦争の過程を丁寧に追うことで、1つの国が滅亡する寸前まで追い込まれ、そして逆に追い込みもするという激しい戦いの中身がお分かりいただけたのではないでしょうか。
ここまで詳しい戦況の中身をご紹介したのは
この2点をきちんと学習しないと、
その後日本の「特需景気」が何故あれほど日本の経済に大きな影響を与えたのかの背景がつかめないからです。この部分は次稿以降でご紹介します。
このように、次時の学習のために本時では朝鮮戦争を通して何を学ばせたいのか、という点を意識して
指導をするとよりその狙いが明確になって因果関係もつかみやすくなるので参考にしていただけたらと
思います。本稿は以上です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!