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塾講師の教養のために―イデオロギー【現代文のキーワード】

高校生

2021/12/17

イデオロギーとは観念形態

イデオロギーについて知っておく意義

今回お話するのはイデオロギーです。現代文の中では、中心の話題となることがなくとも、何かしらの主張をするときにこの言葉が出てくることはかなりあります。では、イデオロギーと聞いてみなさんが最初に思いつくことはなんですか?

資本主義?共産主義?

確かにこれらはイデオロギーと呼ばれるものですが、正確には異なります。

これらがイデオロギーと聞いて先行するイメージですと、イデオロギーについて正確な理解ができなくなります。イデオロギーとは「政治主張」と勘違いしていませんか?実は違います。

今回の記事では多くの方が勘違いするであろうイデオロギーを正確に理解することを目的に、記事を書きました。イデオロギーという言葉は現代文によく出てきます。しかし、イデオロギーは「政治主張」の意味ではありません。  

イデオロギーとはなにか?

イデオロギーを理解するためには、前提知識として「観念」を理解している必要があります。なぜなら、イデオロギーとは以下の様に意味されるからです。

(1)社会集団や社会的立場(国家・階級・党派・性別など)において思想・行動や生活の仕方を根底的に制約している観念・信条の体系。歴史的・社会的立場を反映した思想・意識の体系。観念形態。ー大辞林ー
観念とは?

観念を理解するためには、物質と対比したらわかりやすいです。

観念:愛、友情、平和、奇跡、美、精神
物質:土、木の葉、雲、銃、槍、川、身体

なんとなく違いが出てきているのではないでしょうか。観念とは、「物質として存在せず、人間が作り上げた概念のこと」です。物質はそれ自体を頭にイメージすることができます。しかし、愛・友情・平和は、それを象徴する物質をイメージしても、それ自体をイメージすることができません。観念とは、そういった宙に浮いた概念のことを指すのです。

観念について、もう一つ捉えておく必要のある特徴があります。それは、観念はすごく主観的であるということです。ここに、イデオロギーの重要なポイントがあります。典型的なのは「美」かもしれません。昔の日本人が考える「美」と今の日本人の考える「美」は異なりますし、外国の人と日本人の考える「美」は異なります。たとえば、それは庭にあらわれているでしょう。西洋の人はきっちり整えられた庭を好みますが、日本は自然風景を表した庭を好みます。もちろん、何を美しいと感じるのかは個人差があります。

このように、人によって、集団によって何が「美」なのかが異なるのです。一方で、土・木の葉・雲・銃については、客観的ですよね。

早速イデオロギーに関するいい例が登場しました。イデオロギーとは「思想・行動や生活の仕方を根底的に制約している観念・信条の体系」とありました。先述した美の例でいえば、西洋はきっちりした空間を美しいとすること。日本は自然を表したものを美しいとすること。これら2つがイデオロギーなのです。いうなれば、「同じ価値観を持つ集団」が存在するとして、その「同じ価値観」がイデオロギーなのです。

観念とは確かに主観的で、個人によって異なりますが、けれどもそれ以上に、集団間の差異は大きいのです。その差異を特筆するかのように、イデオロギーという言葉が生まれました。イデオロギーの違いとは、集団の価値観の違いとも言えます。 

イデオロギーについてもう一つ特徴を付け足しておきましょう。イデオロギーというのは基本的に、無意識下に置かれます。つまり、自分がどんな価値観を持っているかということについてはよく知らないように、集団もよく知らないのです。究極的なことを言えば、「人を殺してはいけない」というのは多くの人が「当たり前」と思っているかもしれませんが、それは無意識下にある”単なる”価値観なのかしれません。 

しかし、イデオロギーが見えるときがあります。イデオロギーをもっと深く理解するためには、個人の価値観の違いに注目すればいいかもしれません。みなさんが、「あぁ、これって人それぞれなんだな」と思うときってどんなときでしょうか?おそらく、価値観の違う人と出会ったときではないでしょうか。たとえば、「どんな髪型が好みか?」という質問に対して色んな回答がある瞬間に出くわしたときとか。

イデオロギーも同じで、イデオロギーが意識されるときというのは、違うイデオロギーを見つけたときなんですね。よくある例が、日本から出て外国で生活したときに、価値観の違い、つまり自分がどんな価値観を持っているのかを実感したときでしょう。

 イデオロギーを批判のツールとする

少し本筋からはそれますが、イデオロギーという言葉が実際にはどのように使われていたのかを見ていきたいと思います。観念という言葉がそうであるように、イデオロギーもその考え方を空理空論であると批判するために用いられることがあります。典型的な例が、資本主義と共産主義なのですが、共産主義はマルクスからイデオロギーという言葉を教えられたためか、資本主義を「イデオロギーだ」と批判することが多かったのです。

しかしこの批判は大変有用なのです。というのも、イデオロギーとは無意識にある思考であり、それを自分で空理空論でないと証明することが難しいからですね。極端にいえば、「人を殺してはならない」ということを論理立てて説明してくれと要求されているようなものです。無意識に感じている価値観をどう弁明すればいいのでしょうか。

もちろん、資本主義も黙ってはいません。同じ論理を使って、「いやいや共産主義こそイデオロギーじゃないか」と攻撃が可能なのです。

イデオロギーという批判は、それっぽいのですが、実は中身を伴っていません。少なくとも、議論として有用な批判とは言いがたいでしょう。

ちなみに現代文の中ではイデオロギーを批判のために用いることはあまりないとは思いますが、批判のためにイデオロギーという言葉を使っているのでしたら、「あぁ、あまりわかってないんだな」とスルーしてあげてください。


 イデオロギーから抜ける

イデオロギーは無意識であるがゆえに、攻撃されると反論することが難しくなります。しかし、そうしたイデオロギーを一つ一つ認識し、そうした思い込みから抜けたいと思う人もいるのではないでしょうか。思い込みがある限り、真実を見いだせないと考える思想家もいれば、自分だけの考えをもちたいという挑戦意欲のある人もいるかと思います。 

さて、これについて鋭い考察をしたのが、ルイ・アルセチュールというフランスの思想家です。彼は社会において主体的に生きるためには、イデオロギーから抜け出すことはできないと主張します。

私たちは社会に生きています。社会とは何かしらの価値観を持っており、そして何かしらのイデオロギーを持っています。さて、もし私たちが、「自分の価値観に従って行動する」と言い出したらどうでしょうか。おそらく何もできません。あなたが何かを行動しようとしたときに、「それは何のためにやっているのですか?」と聞かれたら、人のため、家族のため、お国のため、と、ある種社会の価値観を参照した生き方をせざるをえないでしょう。「○○することはいいことだ」という思い込み自体がイデオロギーなのですから。

アルセチュールは「主体的に」と注をつけました。これの理由は、主体的でなければ価値観を持たずに生きることができるというのです。それは、機械のように動く場合。誰かの命令を受けてそれを忠実に行動するだけでしたら、そこに価値観はありません。単に行動があるのみです。そういうときに限り、イデオロギーがないといえるのです。

でも無理ですよね。誰だって行動を考えます。でも行動を生み出す原因は、イデオロギーなのです。

 

まとめ

イデオロギーから抜け出すこと、それは不可能です。

けれども、自分が何のイデオロギーに属しているのかを意識することは大変有用であると考えます。この世の中には色んな価値観を持った、あるいは色んなイデオロギーがあります。自分が持っているイデオロギーを認識していなければ、他者のイデオロギーを認めてあげることができません。

自分が信じこんでいるものが「絶対に正しい」と思わないことは、このグローバル化の中で生きるためには、必要なことでしょう。


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