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【日本史講師対象】卑弥呼の時代を教える3つのポイント!

高校生

2021/12/17

謎の多い邪馬台国

前稿「徹底理解!②弥生時代の教え方」(URL:http://www.juku.st/info/entry/678)では、弥生時代の重要なポイントのどこをおさえればよいか。そして論述対策としては講師はどのような指導をすればよいかについてご紹介しました。本稿にも繋がる部分なので、簡単におさらいをします。

中国の長江中流域、もしくは朝鮮半島の南部から縄文時代末期に伝来していた稲作は、西日本を中心に広がりを見せ、弥生時代には数百年の時間をかけながらも東北地方にまで浸透しました。
青森の稲
縄文時代までは狩猟・採集によって食料を得ていたのに対し、稲作が普及した弥生時代以降では生活の中心が農業へとシフトしました。
生活の中心が農業へ変わったことで、社会にも様々な変化が現れます。たとえば、広大な土地を大人数の集団で管理する場合には、効率のよい作業ができるよう指導をするリーダーが誕生します。後に地域の統率者となるような人物の前身は、このリーダーであると考えられています。
そして、安定な食料を入手できるようになったことで、人口も増加しました。縄文時代には見られなかったような巨大な集落が弥生時代には見つかっています。

ここまでが前稿でご紹介した指導の内容でした。
本稿ではその後、巨大な集落が誕生したことによって当時の日本ではどのような事が起こっていたのか
卑弥呼が女王として君臨した時期を国際情勢といかに関連付けて教えるかの指導法をご紹介したいと思います。

当時の社会背景と史料を用いた『卑弥呼』登場の読み解き方

授業では初めに卑弥呼が登場する時代の背景を生徒に説明しましょう。

社会情勢

卑弥呼が女王についた(とされている)頃、東アジアでは大きな動きがありました。
184年、後漢では「黄巾の乱」という農民による大反乱が起こります。
この乱のあと、国内は、動乱が激化して群雄割拠の状態になり、後漢は滅亡への道をたどります。
その後、中国は「」・「」・「」による有名な「三国時代」へ突入しました。
卑弥呼の時代はもちろん、この後の時代において、中国や朝鮮半島都との関係が、百済の救済や国内の政治へどのような影響を及ぼしたかなどが、とても大事になります。
なので、ここでも国際背景をしっかりおさえてから中身に入るようにしましょう。

また、先述したとおり、稲作の普及によって食料が安定して人口の増加につながっていました。
その人口の増加は、やがて集落となり地域的な小集団の「クニ」と呼ばれるまとまりにつながるのです。
集落
しかし、お米は備蓄が出来る食料であるためその量の多少によって、地域間で貧富の差も生みました。
この貧富の差は土地を作るための土地や収穫物をめぐる争いを引き起こします。

史料との対話

この時期はこうした争いが絶えなかった「倭国大乱」の時期であると史料に残っています。
「倭国」というのは「小さい国」という意味です。蔑称で当時日本はこう呼ばれていました。
「倭国」について、当時の中国の史書『魏志』倭人伝はどう記述していたのでしょうか。
この当時の日本の状況を知る貴重な資料であるかつ、卑弥呼の見る上で最も大切な部分の史料をご紹介します。

「建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す。倭人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふ
 に印綬を以てす。
 安帝永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願ふ。
 桓霊の間、(1)倭国大いに乱れ、更々相攻伐し、歴年主無し。
                              引用元:『後漢書』東夷伝

「建武中元二年」とは57年で「安帝永初元年」は107年、「桓霊の間」とはだいたい147~188年のことです。この間、倭国王と呼ばれる帥升という人物が存在していますが、(1)を見るとやはり倭国はお互いに争ってそれを統合するような主がいないという事が読み取れます。
さて、これだけでは「卑弥呼」はまだ登場していませんね。
そこで、次の史料を見てみましょう。

「倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧百余国、漢の時朝見する者有り。今使訳通ずる所三十国なり。
郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、(中略)南、邪馬台国に至る。女王の都する所なり。

「其の国、本亦男子を以て王と為し、住まること七、八十年。(2)倭国乱れ、相攻伐して年を歴たり。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼と曰ふ。(3)鬼道を事とし、能く衆を惑はす。年已に長大なるも夫婿なく男弟有り、佐けて国を治む。(以下略)」
                              引用元:『魏志』倭人伝

(2)の内容は上の『後漢書』東夷伝にもある「倭国大乱」と対応します。
太字で示した部分を中心に読み解いていくと、
邪馬台国という所に女王が所在しており、その国(邪馬台国)では元々男王を立てていたが、倭国は乱れており、後に30カ国の頂点に女王卑弥呼を立て、鬼道によって政治を行っていたということが述べられています。卑弥呼が歴史書に登場した瞬間でした。

女王就任後

卑弥呼が女王になってからそれまでのような大きな戦乱はおさまり、平和への道を歩み始めていました。
また、卑弥呼は外交にも乗り出します。前述の通り、当時中国は三国時代でしたが、その中の1つに使いを出します。
船
これが功を奏し、239年に魏の皇帝から「親魏倭王」という倭国の証の金印、そして銅鏡約100枚が贈られたとされています。
当時、東アジアにおいて最大の強国であった「魏」という後ろ盾が出来たことで、卑弥呼は内外ともに「倭王」としての地位を確立することに成功したのです。

また、上記の史料をご確認頂きたいのですが、下線部(3)「鬼道を事とし・・・」という文言があります。
この「鬼道」というのは要するに国を治めるために用いた術とされています。
教科書や参考書などで「鬼道とは~のこと」という記述がされていることもありますが、
この術というのが具体的にどういうものか、正確な歴史の研究としてはまだ正確に言い表せる成果が上がっていないので授業で教える際には注意してください。

卑弥呼が女王になってから1度は倭国に安定が訪れましたが、それも時が立つにつれて薄まり、再び争いは起こりました。特に激しく争ったのが邪馬台国の南に位置していた「狗奴国」です。

この狗奴国との争いの途中、卑弥呼は248年に死亡したとされています。
死因などは定かではありませんが、まさにこの争いのさなかでした。

死後はいったん男王がたてられますが、争いが絶えなかったためその後は宗女(一族の女性)の壱与
女王につきました。

まとめ

本稿では、卑弥呼の治世をいかにして教えるかという事をお伝えしてきました。最後に指導のポイントを纏めます。
①国際関係の中での位置づけを必ず取り入れること近年の大学入試やセンター試験でも「東アジア史の中の日本史」という位置づけで出題をする問題がとても多くなっています。本稿でも「親魏倭王」のところで紹介したように、国際関係は国内にも大きな影響を及ぼします。必ず国際関係(本稿であれば東アジア)との距離をはかりつつ指導してあげましょう。

②史料と向き合う「場」を設定すること本稿でも紹介しましたが、教科書などの記述も全て「史料」を根拠に組み立てられています。
その執筆者や講師の説明を聞くことももちろん悪いことではないのですが、原典を読む事の方がより歴史の
本質に迫れる学習になります。本稿を読んでいただいても分かる通り書き下しは決して難しい内容ではないので是非トライしてみてください。

③時事問題に常に気を配っておくことこれは指導というよりも日常的な意識のことですが、常に歴史に関するニュースには耳を傾けておきましょう。本稿では紹介出来ませんでしたが邪馬台国の「畿内説」か「九州説」かということや、「箸墓古墳は卑弥呼の墓か」というのは今なおホットな話題です。(また別稿でご紹介します)この後の研究成果によっては授業をする日までに、教科書記述とは違う結果が出てくるかもしれません。是非アンテナをはっていてください。

以上です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!

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