大化の改新を学ぶ意義
前稿「【日本史講師対象】7世紀の日本と国際情勢」(URL: http://www.juku.st/info/entry/1124 )では、6世紀から7世紀前半にかけての日本の政治史をいかに教えるかについてご紹介しました。
簡単におさらいをします。
中国大陸の群雄割拠の状態を終わらせて誕生した強国隋の登場は、東アジアに大きな影響を及ぼしました。
日本は友好関係を築くため、隋と国交を開こうと600年に第1回遣隋使を派遣しますが、文帝は倭国の国内的秩序や政治などが「国家」として認めるレベルに達していないと機会を改めさせます。
この状況を聞いた「聖徳太子」は国内の改革に乗り出し、門閥制を打破する冠位十二階の制定や、役人の心構えを示す憲法十七条の発布によって、国内秩序を作ります。
来る607年、今度は小野妹子を遣隋使に任命し、再び隋との国交樹立を目指します。
この時持って行った国書が現代でも有名な「日出づる処の天子・・・」というものでしたね。
隋の煬帝は一度は内容に激怒しますが、高句麗と緊張状態にあったことからも国書を受理し、正式に国交を開くことにしました。
ここまでが前稿でお伝えした内容面でした。
本稿では7世紀のその後、いよいよ古代史上最大のクーデターであり、時代の転換点となったと言われる「大化の改新」に突入します。
あまりにも有名な部分で生徒たちも学習経験をほとんど持っていますが、大学入試レベルでは意外と細かいところまで知識・理解が届いていないと答えられない範囲です。本稿ではこのような問題意識から、
日本はどのような社会的情勢の中で「大化の改新」を行うことになったのか
という部分をわかりやすく生徒に指導する方法をお伝えします。
大化の改新が起こった2つの背景
大化の改新が起こることになったのには、大きく二つの背景がありました。授業では必ずこの2点に触れてから本題に入るようにしましょう。
①蘇我氏と物部氏の権力闘争
まずは時代の順番的に蘇我氏と物部氏による権力闘争に視点を当てましょう。
538年に日本に仏教が公伝し、日本国内では仏教を取り入れるべきか否かについて意見が割れました。
その2つの筆頭が崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏でした。
両者の意見の違いは、後に、戦いへと発展します。
最終的にこれは蘇我氏が勝利をおさめ、国家として仏教を取り入れることを決定します。
蘇我氏に唯一対抗できうる物部氏を崇仏論争の際に倒していたため、7世紀では、すでに大きな敵対勢力はなく、スムーズに政治の主導権を握ることができました。
当時蘇我氏に対抗できる唯一の勢力であった物部氏を倒したことで蘇我氏の権力は確固たるものとなりました。7世紀に入ると蘇我蝦夷・入鹿親子が政治の主導権を握るまでになりました。
しかし、天皇を誰にするかという部分にまで裏から操ることができるようになるなど、
権力を濫用する横暴なやり方に段々人々の不満は高まっていきました。
②東アジア情勢
前稿でも「東アジア情勢」についてお伝えしましたが、
生徒には、日本史の中で重大な出来事が起こる際には基本的に国際情勢で、並行して何が起こっているのかを確認する癖をつけるようにさせましょう。
日本史という科目なので、どうしても内側へ内側へと目線が向きがちですが、現代においても古代においてもその影響を受けているという点において、国際情勢が重要であるのは全く変わらないのです。
話を戻します。具体的にどのような国際情勢だったのかを確認しましょう。
まず、中国の王朝がまた交代します。589年に建国した強国隋に代わって唐が誕生します。
その勢力は隋の時よりもさらに大きくなり、その圧倒的な勢力を背景に朝鮮半島のあたりに位置する高句麗・百済・新羅の3国を脅かす存在になりました。
このような圧力に対して、高句麗・新羅・百済は、「国家」として一体化するために中央集権的な国家づくりを行いました。強大な唐に制圧されないために国力を充実させる必要があったからです。
第1回遣唐使は630年から始まっており、犬上御田鍬という人物が遣わされます。
その他にも南淵請安・僧旻・高向玄理らは留学生として唐に渡っていました。
僧旻・高向玄理は大化の改新後の新政府でも学者として活躍しますが、実はこの留学生の中で最も重要なのは南淵請安です。
それはなぜか。この南淵請安は帰国してから私塾を開くのですが、
その塾生に対して、上記の「唐がとても強大な国であること」や「近くに位置する3国は中央集権的国家を作っている」という留学中に見てきた内容等を教えていました。
なんとここに通っていた塾生の2人に後に大化の改新を起こす中大兄皇子と中臣鎌足がいたのです。
このような勉強を経て、2人は日本も蘇我氏が実質的な最大権力を持つ政治体制ではなく、3国(新羅・高句麗・百済)と同じように中央集権的な国家を作り、国力を充実させなければならないと考えるようになったと言われています。
以上のように、蘇我氏の権力の大きさと国際情勢をしっかり追うことで生徒はしっかり大化の改新の背景を抑えることができるのです。
乙巳の変~中大兄皇子の政治改革
このような背景があって、ついに蘇我氏を倒すクーデターを実行します。
645年に飛鳥板葺宮で大臣・蘇我入鹿が中大兄皇子よって襲撃されます。これが乙巳の変です。
父親の蘇我蝦夷も自宅を取り囲まれ、自殺に追い込まれます。巨大な権力を持った蘇我氏はこれをもって終焉を迎えます。
その後、中大兄皇子の周りでは有力な天皇候補であった古人大兄皇子や、孝徳天皇の息子の有間皇女などの死が相次ぎます。誰によるものであるかは定かでありませんが、いずれも中大兄皇子の反対勢力だったと言われています。
翌646年に「改新の詔」を発布します。これは唐にならって、法律に基づく天皇を中心とする中央集権的国家
(律令国家)づくりを目指す具体的な内容を示したものです。改新政府の方針を見るための重要な史料である上に、入試でも必ず問われる部分なので、授業でも必ず史料を確認しましょう。
内容は全体を通して重要ですが、大学受験を意識して指導する際に特におさえておきたい下線部の3つのポイントをご紹介します。
「①其の一に曰く、昔在の天皇等の立てたまへる子代の民、処々の屯倉及び別には臣・連・伴造・国造・村首の所有る部曲の民、処々の田荘を罷めよ。・・・・
②其の二に曰く、初めて京師を修め、畿内・国司・郡司・関塞・防人・駅馬・伝馬を置き、及び鈴契を造り、山河を定めよ。・・・・
③其の三に曰く、初めて戸籍・計帳・班田収授の法を造れ。・・・・
其の四に曰く、旧の賦役を罷めて、田の調を行へ。
①公地公民制天皇の私有民である子代の民、私有地である屯倉、そして豪族の持つ私有民の部曲、同じく私有地の田荘を廃止し、土地も人民も一括して天皇のものにするという内容が述べられています。
公地公民制はこの後の荘園などの土地制度と深く関わってきます。
②中央と地方
中央集権政治実行のための手段です。
地方の行政区分を国・郡(本当は評)・里という行政区画に分けて都を中心に政治を行うことが述べられています。後の大宝律令完成後、より機能化する仕組みが作られます。
③班田収授法
これは戸籍を作ってそれに基づいて田(農地)を貸し、人民に耕作を請け負わせます。
公地公民によって豪族の私有民も天皇のものになったため、改新政府は税を負担する人民をより多く確保することが出来るようになりました。
また、防人や駅馬という言葉からもわかるように軍事・交通についても言及しています。本稿は講師の方が対象なので1つ1つは扱いませんが、授業ではこうした重要語も指導するようにしてください。
まとめ
以上ここまで大化の改新について1つ1つ細かくその動きを追っていくことで、全体像をより鮮明に生徒に浮かび上がらせることがお分かりいただけたと思います。
最後に、授業を作るポイントをまとめると
(1)蘇我氏と物部氏による勢力争いで蘇我氏が勝利
→蘇我氏が圧倒的な権力を握るようになり、専横へつながる
(2)東アジア国際情勢
→隋が滅び、代わってより強大な唐が誕生。東アジアに大きな影響力
(3)乙巳の変
→中大兄皇子と中臣鎌足によるクーデター。蘇我氏の権力は終焉
(4)改新の詔
→中央集権国家づくりの具体的な内容
の4点です。この4点を授業で教えきることで1つ1つの因果関係をしっかり認識できるようになると思います。是非参考にしてみてください。本稿は以上です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!