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トマス・アクィナスが考えたこと【倫理の偉人たち】

高校生

2021/12/17

倫理を学ぶ意義 

倫理という科目は実にマイナーで、積極的に学ばれる科目ではありません。出題するところはセンター試験と一部の私立だけですし、比重もそんなに高くない。正直な話、倫理の単語集を見て、その字面をなんとなく覚えるだけでセンターの得点は80点を超えたりすることもあります。

そんな倫理ではありますが、塾講師という立場にたてば、倫理を教えなければならない場面があります。それは、生徒が倫理を教えて欲しいと言ってきたとき、あるいは倫理に関する質問をしたときです。

しかし、倫理を学ぶ意義は、入試に合格するためだけではありません。倫理に登場してくる哲学者や思想家は、思考のベースを提供してくれる偉人たちであり、その考えを理解するだけで数学や国語に応用できることも少なくはないのです。

何より、日常生活を豊かにしてくれます。今、あなたの目の前にあるパソコンあるいは携帯電話が今後社会にどんな影響をもたらすのか、それを考えさせるものでもあるのです。

倫理(あるいは哲学)を知ってほしいという思いでこの記事を書きました。この記事は、倫理によく登場してくる偉人たちを取り上げ、彼らがどのような思想を持っていたのかをより深く理解するために書かれています。

・アウグスティヌスが考えたこと【倫理の偉人たち】 http://www.juku.st/info/entry/1146 
を読んでいただくと、トマス・アクィナスへの理解が深まると思います。

 

前提の確認

アウグスティヌスから時代は飛んで、1200年代に入ります。この時代はキリスト教がすごく幅を利かせており、キリスト教を信じないものは人に非ず、みたいな風潮がありました。皇帝はもちろんキリスト教の信者ですし、教皇も強い権力を持っている。皇帝の下にはたくさんの領主がいて、教皇の下にはたくさんの教会があって、いわば二重支配の構造が出来上がっていました。

さて、1200年代のキリスト教の大事件といえば、皆さんお分かりでしょうか?

かの十字軍が活躍したのは、まさにこの時代でした。「よくわからんが中東あたりにとんでもない異教徒(イスラム教徒)がいるらしい。やつらを駆逐せねば」ということで、キリスト教が軍を組織して、イスラム教に戦いを挑みます。しかし、いずれの十字軍も失敗し、結局諦めることになりました。 

結局、十字軍はキリスト教が崩壊する遠因となっていきます。まず、イスラム教と接触してしまったことで、イスラム教の科学のすごさに驚かされます。加えて、イスラム教が研究していたアリストテレス哲学が入り込んでしまい、いわゆる理性を中心とした真理体系までもがキリスト教圏に入りこんだのです。 

もちろん興味本位でイスラム教だとかアリストテレス哲学を勉強する人が出てくるわけです。すると、「あれ?キリスト教の言っていることはおかしくないか?矛盾していないか?」と、余計な知識を得てしまったがゆえに、キリスト教が批判されるようになります。

アウグスティヌスはキリスト教の内部を統一することに熱心でしたが、今度はキリスト教外部と戦う必要が出てきた。そして立ち上がったのが、トマス・アクィナスなのです。


哲学ってそもそもなんだっけ?

そもそも哲学とはなんでしょうか?

これについては記事1つ分書けそうなテーマではあるのですが、端的に言うなれば、理性を用いてあらゆるものの根源について考えることです。つまり、あらゆるものに対して「なぜ?」をぶつけて、それについて徹底的に考えていく。そうするといつか答えが出てきて、それは十分に物事の説明となりうる、というものです。

では、トマス・アクィナスが生きていた当時の神学とは一体なんでしょうか?

こちらについてはどちらかというと「どういうことがいえるか?」を考える学問でした。まず聖書に書いてあることを「正しいこと」と信仰して、そこからスタートして何が正しいのかを日々考えるのです。

言うなれば、哲学はWhy?を考え、神学はso what?を考えるのです。そして哲学の根本とは理性であり、神学の根本とは信仰なのです。

世の中にあるものを説明するものは、どちらのほうがふさわしいのか。現代人であれば大半が前者を採用するでしょうが、1200年代は理性で説明できないものがあまりにも多かったものですから、信仰を重視する勢力(つまりキリスト教)が強かったんですね。

そしてトマス・アクィナスが目指したのは、信仰が理性を上回ることの証明です。

 

まずは論敵を紹介

まずトマス・アクィナスの論敵を紹介しましょう。アヴェロエスです。アヴェロエスとは、もともとキリスト教信者なのですが、アリストテレス哲学に触れるとそれをキリスト教に導入してしまうというとんでもないことをしでかした人です。

あれ?でも前提の確認のところでは、哲学は神学と矛盾しかねないという話じゃなかったっけ?

そう思った読者もいらっしゃるでしょう。それが、アヴェロエスはとんでもないことを言い出したのです。

「世の中には真理が2つあるのだ。世界の解釈を理性で行えば1つの真理が生まれるし、信仰で行えばまた別の真理が生まれる」

正直言って元も子もない説明です。これは二重真理説といいます。哲学と神学は矛盾するが、それは関係ないと一点張り。少し説得力に欠けますね。でもこうでもしないとキリスト教はアリストテレス哲学から守ることができなかったのですから、仕方がなかったのかもしれません。

けれどもキリスト教としてはこれはあまり受け入れたくない。なぜなら、キリスト教と哲学が同レベルということになりますからね。あれ?神って唯一の存在じゃないの?と誰かさんからツッコミを受けそうです。

 

神学>哲学の証明

さて立ち上がったトマス・アクィナス。一応アヴェロエスのおかげでキリスト教はなんとか守られましたが、できることなら哲学を倒してやりたい。ではどうすれば、それを証明することができるのでしょうか?

ポイントは、神学の根本は信仰であり、哲学の根本は理性であるということです。そしてどちらの学問も、それらを使って世の中を説明することを使命としていることです。

ということは!

信仰と理性、どちらの方がたくさんのことを説明できるのか?それについて競ってもらい、最終的に信仰のほうがたくさんのことを説明できると証明してしまえば良いというわけです。彼はそうした証明を『神学大全』にまとめあげたのです。

理性の限界の証明

個人的にはトマス・アクィナスはずるいなぁと思うのですが、まず最初に彼が言ったことはこれです。 

「理性で説明していることは、すでに信仰でも説明できているよ!」

なんとまぁずるいです。アリストテレス哲学の中心的な思想といえば、形相と質料でした。世の中の全ては質料という材料と、それを使って構造を組み立てる形相によって成り立つと言われています。そして霊魂は形相であり、質料を動かすものとして説明していました。

トマス・アクィナスはこう言い出します。

「そうそう!キリスト教もそういうこと言おうとしてたんだよきっと!ほら、聖書のここに書いてあることからそういうこと言えそうじゃない?」

ずるい。でも信仰ってそういう性質を持つのです。あくまで聖書からso whatを考えるのが神学なのですから、理性が生み出した思想について、「聖書からそのような思想が生まれる」と後付けで解釈してしまえば矛盾しないということになるのです。

詳細は省きますが、トマス・アクィナスは神だとか天使だとかも、そうした全てを形相と質料で説明してしまうのです。つまり、「アリストテレス哲学は聖書から導ける」という論理体系を作り上げてしまったのです。

彼はさらに理性に追い打ちをかけます。

「理性で説明できるないことも信仰で説明できる」

アリストテレス哲学の中に、全ての始まりは第一の動因である、という話がありました。トマス・アクィナスがいうには、その始まりこそが”神”であるというのです。そしてさらに、その神を認識するためにはそれが「ある」と信じる必要があるというのです。

どういうことか?

ここで誕生するのが、時間論なのです。これもまた巧妙な論理で、トマス・アクィナス本当すごいなと思います。

「この世は時間が流れているわけですよね?ということは、誰かが時間を動かさないと始まらない。じゃあ誰が始めるのか?それが神である」

「神には時間が関係ない。なぜなら、時間を始めるのが神なのだから、神より前の原因はありえない。ということは、神とは無限の存在なはずだ

神は無限であり、世界は有限の存在だといいます。そして締めくくりは、

「神そのものについて、私たちが認識することはできない。なぜなら、神とは無限の存在だから。私たちが神をイメージしたとき、そこに”動作”などの時間が流れているのであれば、それは神が有限の存在となり、矛盾となる。ゆえに、私たちは神そのものについては認識できない。認識するためには、『ある』と信じなければならない

理性は世界のはじまりを論証することができないというのです。そりゃそうですよね、理性そのものが時間に拘束されているのですから。理性ができることは、はじまりがあるということ。けれども、そのはじまりそのものについては、信仰がなければわからない、というのがトマス・アクィナスの主張だったのです。

彼はついには「哲学は神学の侍女」と表現しました。


トマス・アクィナスのすごいところ

彼の話は与太話と思われがちですが、案外馬鹿にできたものではありません。ポストモダン主義では理性の限界が謳われてはいますが、トマス・アクィナスがすでにその基礎を築き上げていたということになるのです。

さらにいえば科学の限界も、トマス・アクィナスが指摘していたということができるでしょう。不可能性原理や不確定性原理といった、人間には予測のできない領域があることを明らかにする原理が編み出されたこともあったり、宇宙の外側については時間も空間も存在しないことから、観測不可能と言われていることも。

理性は絶対ではない。この話は、今にもつながることなのです。

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