倫理を学ぶ意義とは
倫理という科目は実にマイナーで、積極的に学ばれる科目ではありません。出題するところはセンター試験と一部の私立だけですし、比重もそんなに高くない。正直な話、倫理の単語集を見て、その字面をなんとなく覚えるだけでセンターの得点は80点を超えたりすることもあります。
そんな倫理ではありますが、塾講師という立場にたてば、倫理を教えなければならない場面があります。それは、生徒が倫理を教えて欲しいと言ってきたとき、あるいは倫理に関する質問をしたときです。
しかし、倫理を学ぶ意義は、入試に合格するためだけではありません。倫理に登場してくる哲学者や思想家は、思考のベースを提供してくれる偉人たちであり、その考えを理解するだけで数学や国語に応用できることも少なくはないのです。
何より、日常生活を豊かにしてくれます。今、あなたの目の前にあるパソコンあるいは携帯電話が今後社会にどんな影響をもたらすのか、それを考えさせるものでもあるのです。
倫理(あるいは哲学)を知ってほしいという思いでこの記事を書きました。この記事は、倫理によく登場してくる偉人たちを取り上げ、彼らがどのような思想を持っていたのかをより深く理解するために書かれています。
モラリストたち
すごくマイナーなテーマではあるのですが、センター倫理にきちんと出てくる範囲です。西洋哲学史においても、モンテーニュ、パスカルの人物は特に後世に影響を与えたわけではないのですが、哲学に向かう姿勢についてはなにか学ぶべきものがあるだろうと思い、記事にしました。
ポスト人文主義?
まず、モラリストとは何なのか。それにはまず人文主義の理解が不可欠です。人文主義は12世紀から15世紀頃まで続いた考え方です。中世のキリスト教では「神の前に人間無力」という考え方だったのですが、それに対して、人文主義は「人間マジ最高!」という考え方をします。
しかし、ブームというのはやはりいつかは去ってしまうもので、人文主義も例外ではありませんでした。そもそも「人間マジ最高!」といった考え方というのは、偉大な哲学者がその思想的根拠を作り上げた考え方ではないのですから。
そこで、15世紀からこの問題に取り組む人たちが出てきました。流派は主に2種類なのですが、1つ目はいわばデカルトを中心とした近代合理主義、2つ目はモラリストです。
モラリストとはmoralistと書き、その直訳は道徳家という意味です。しかし残念ながら現代でいう道徳とは少し異なり、人間の日常を観察し、そこから人間とはなにかについて深く考える人々を指します。
ではなぜ、モラリストのような人々が誕生したのでしょうか?
上述しましたとおり、人文主義とは「人間マジ最高!」という考え方でした。しかしそのブームが過ぎ去ると、色んな人達は「本当に人間ってすごいのか?」と思い始めるのです。当然、そこに根拠が欲しくなります。モラリストはそこで人間を深く考察したわけです。人間とは一体何なのか、人間とは本当にすごい存在なのか。そしてその考察の手法として、日々の人間をきちんと観察しようとしたのです。
それゆえ、モラリストに関する説明として以下の様なことが書かれていることが多いです。
一六~一八世紀のフランスで,人間性と道徳に関する思索を随想風に書き記した一群の人々。モンテーニュ・パスカル・ラ=ロシュフーコー・ラ=ブリュイエール・ボーブナルグら。ー三省堂
モラリストはよく随想を書きます。これについてはモンテーニュのところで説明いたしましょう。
モンテーニュが考えたこと
やはりモラリストの代表格といったらモンテーニュでしょうか。というのも、彼の著作がまさにモラリストの特徴そのものなのです。彼の著作は『エセー』というもので、まさに「エッセイ」なのです。随想そのまんまです。
普通、人は自分の考えをまとめるときは論文のように書きます。主張を1つドーンと置き、それを支持するような理由をつけたり、あるいは理由を理解してもらうための前提知識を説明したり、つまり徹底して論理的に書こうとするのが普通なのです。
しかし、エセーはそれと異なります。エセーはいわゆる随想録なので、思考日記のようなものなのです。エセーの最初のほうでは「人間とはこうである」という考えだったのに、後半の方になると「やっぱり違った」といったように、あれこれ意見を変えたりしています。
本当に日記のようなものなので、日々感じたこと、思ったことをそのまま記述しているのです。モンテーニュはこのスタイルをあえて好んだわけですね。
しかしなぜそのようなスタイルが取られたのでしょうか?
それは、エセーはまさに「人間の観察日記」とも呼べるものだからです。観察なのですから、日々のその姿をきちんと正確に捉える必要があるのです。人間の心のわずかな動きも取りこぼさず、日々思ったこと・感じたことを読み取ることで、人間とはどのような存在なのかがわかるとされていました。
エセーから読み取れる、彼の思想について少し言及しておきましょう。
懐疑主義
モンテーニュといえば有名な言葉「ク=セ=ジュ」がありますが、それは「私は何を知るか」の意味です。モンテーニュは懐疑主義でした。人文主義のように人間=善いもの、と決めつけてしまうのではなく、きちんと人間とはなにかを理解しようとしたのです。
無常観
エセーの構造がまさに無常観を表しています。人生は常に一定のものではないのだから、その一瞬その一瞬が大切だというのです。論文のように体系だった文章にしなかったのは、モンテーニュが日々感じる心理を大切なものだとしたからなのです。
パスカルが考えたこと
パスカルはモラリストのように、人間について深く考察し、一つの結論を得ました。もちろんモンテーニュも結論を得たとは思うのですが、パスカルのそれの方が有名かつセンターに出題されるので、こちらを深く解説していきます。
パスカルといえば、パスカルの原理だとかパスカルの定理だとか、物理・数学に有名な定理を残している自然学者としても知られています。そして、モラリストという哲学者としても。
彼は一体何を考えたのでしょうか?
実は彼の出した結論というのは、かなりあっけないもので、いうなれば、
「人間ってすごいのかすごくないのかよくわからない」
というものです。これについてはかの有名な「人間は考える葦である」という言葉に秘められています。
これはどういうことなのでしょうか?
人間は様々な自然現象に左右されています。未だに天候を左右することはできませんし、全ての病気を治癒することだってできない。そして神という普遍的な存在について明らかにすることもできないし、宇宙という神秘についても、解明することができない。グーグルマップを見てみればわかると思うのですが、今の自分の現在地から、徐々にスクロールして地球レベルまでに視野を広げたら...なんか人間ってちっぽけな存在だな、と感じますよね。
人間は自然の前、神の前、空間の前にしてしまえば、ちっぽけな存在なのです。
けれどもちょっと待って下さい。
確かにちっぽけではありますが、私たちは考えることで自然のあらゆるものを解明することができます。そして頭の中であれば、宇宙という存在は、私たちの視野に収まります。確かに人間という存在だけであればちっぽけではありますが、理性があることによって自然を乗り越え、さらに宇宙を見下ろすことだってできるのです。
”葦”とは風の前には無力ですが、”考える”という性質によって、人間としての価値を維持している、それがパスカルの考え方です。
また、パスカルは別の表現で、人間を中間者とも呼んでいます。人間は偉大さと悲惨さ、その間にあるという意味です。
モラリストの意義(私見)
モラリストは西洋哲学史では軽視されるように、後世に何か大きな影響を残しているわけではありません。というのも、彼らの考えだした結論そのものがすごいものではないからです。
けれども、モラリストに優れた点といえば、その手法ではないでしょうか。
私たちがなにかについて考えるとき、なんとなく日記を書き出してみたり、なんとなくブログを書き出してみたりするのは、モラリストたちの手法そのものです。
哲学者のように難しい論理を使うわけでもなく、いつでも簡単にできる哲学の手法を残したのは、十分に大きな成果であると、私は思います。
そのほかの【倫理の偉人たち】シリーズはこちら↓
("倫理の偉人たち"で検索してみてください!)
・ソクラテス http://www.juku.st/info/entry/1137
・アリストテレス http://www.juku.st/info/entry/1145
・トマス・アクィナス http://www.juku.st/info/entry/1152