倫理を学ぶ意義
倫理という科目は実にマイナーで、積極的に学ばれる科目ではありません。
出題するところはセンター試験と一部の私立だけですし、比重もそんなに高くない。
正直な話、倫理の単語集を見て、その字面をなんとなく覚えるだけでセンターの得点は80点を超えたりすることもあります。
そんな倫理ではありますが、塾講師という立場にたてば、倫理を教えなければならない場面があります。
それは、生徒が倫理を教えて欲しいと言ってきたとき、あるいは倫理に関する質問をしたときです。
しかし、倫理を学ぶ意義は、入試に合格するためだけではありません。
倫理に登場してくる哲学者や思想家は、思考のベースを提供してくれる偉人たちであり、その考えを理解するだけで数学や国語に応用できることも少なくはないのです。
何より、日常生活を豊かにしてくれます。
今、あなたの目の前にあるパソコンあるいは携帯電話が今後社会にどんな影響をもたらすのか、それを考えさせるものでもあるのです。
倫理(あるいは哲学)を知ってほしいという思いでこの記事を書きました。この記事は、倫理によく登場してくる偉人たちを取り上げ、彼らがどのような思想を持っていたのかをより深く理解するために書かれています。
ベーコンという人
突然ですが…
ベーコンと聞いたらこんなイメージでしょうか。
…はい。
実際に私が検索「ベーコンは何ですか」してみても、
やはりこの画像が出てきましたね(笑)
ちなみに食べ物のベーコンは今回の話題とはあまり関係はありません。
今回話題となるベーコンはこんな顔をしています。
まさに近世の人って感じがしますね。
ベーコンは、とても偉い人でした。
イギリス生まれの哲学者でもありますが、それ以上に法学者といて活躍していたのです。
ベーコンの一生を振り返ると、
12歳でケンブリッジ大学に入学し、23歳で国会議員になっています。52歳で司法長官、そして、最高地位である大法官になりました。
一言でいえば、超エリート。
ちなみにそんな彼は結局のところ、賄賂の疑惑で失脚して隠居することになったのですが、
「冷凍の実験してたら風邪ひいて死亡」という、亡くなり方をしてしまいました。
(実験していたら死亡って...よっぽど変わった人だったんですね。)
とはいえ、この”実験”というキーワードは、ベーコンから切っても切り離せない関係にあるのです。
それについては次から見て行きましょう。
前提の確認
16世紀ごろ、西洋社会は人文主義と自然科学が流行していました。
まず、人文主義は哲学を目覚めさせましたし、キリスト教にも浸透して教会制度の崩壊につながりました。
キリスト教を内からも外からも崩したのです。
また、ベーコンの登場はガリレイと同時期なのですが、自然科学が本当に発達していました。
コペルニクスやハーヴェイ、ボイルなど、名だたる科学者たちが登場したのはまさに16世紀後半でした。
ここで少し、自然科学の特徴について言及しておきましょう。
みなさんは自然法則を見つけるために、何をするでしょうか?
よく言われる科学の方法では、仮説を立てて、実験し、検証し、また仮説を立ててそれを繰り返す、といった手法を思いつくかと思います。
そしてこの中には必ず”検証”というものがあり、誰しもが反論できない余地を創りだそうとする試みがあったのです。
これは今までの哲学とは大きく異なります。
哲学ではイデアだとか形相だとか言われて、それでひとつの世界観を構成することができればOKでした。
しかし自然科学の世界ではそうはいかない。
”それが正しい”ということを証明しなければならないのです。哲学はこの点においてすごく苦戦します。
ただし、
この考え方が演繹法や帰納法などを発達させ、哲学を次の段階へと導くのでした。
ベーコンが考えたこと
ここでベーコンの思想を覗いてみましょう。
ベーコンは実験が大好きです。
それは実験によって現れる現実というのは事実であり、イデアや形相と違って本当にあるのかないのかわからないものではないからです。
そして人は、その事実を解釈することによって知識を得られると言うのです。
これは一体どういうことでしょうか?
1つ、ベーコンの言葉を確認してみましょう。
「知識は力なり」
この言葉は因果関係のことを意味しています。
実験によって現れる事実というのは、まさに何かの結果なのです。
実験で恣意的に作られた状況から発生した結果です。ベーコンはそのような結果をたくさん繰り返し、そして根底にある原因とは何なのかを考えました。
これを帰納法を呼びます。
もし人間が、その原因を特定できたら、
人間は恣意的に結果を生み出すことができるのです。
人のやる気という結果は、ほめるという原因によって発生するとわかっていれば、ほめるという行為を繰り返すことで恣意的にやる気を発生させることが可能なのです。
知識とは原因のこと、そして力とは、結果のことを意味します。
ベーコンの思想はここで止まりません。
ベーコンは、人間は実験によって知識を得ることができるが、誤って原因を認識する場合があると指摘しました。
つまり、人間には先入観があるというのです。
ベーコンはこの先入観を4種類にわけました。
市場のイドラ・・・言葉の不正確さから生じる先入観。伝言ゲームが難しいのはこのため。
洞窟のイドラ・・・自分の経験や教育による先入観。日本にずっといたら水道水が安全だと思っていたが海外にいくとそうじゃないと気づくのはこのため。
劇場のイドラ・・・権威によって生じる先入観。専門家の言っていることをすぐに信じてしまうのはこのため。
種族のイドラ・・・人間だからこそ持ってしまう先入観。あらゆる錯覚はこのため。
これらのイドラに惑わされることなく、純粋な事実を並べ、そこから原因を解明しようというのでした。
そもそもベーコンはなぜこのようなことを考えたの?
前提の確認で見たように、自然科学の発達による実験がヒントになりました。科学の発達が哲学を生み出したわけです。このように、他領域の考え方を哲学に応用するという方法はよくあることでした。例えば中世ではキリスト教の神という考え方を哲学に持ち込みましたし、現代においてはレヴィ=ストロースの文化人類学における構造主義は哲学に影響を与えています。
ベーコンの後継者たち 何が存在するのか
ベーコンの言ってることって、案外簡単だなって思いませんでしたか?
要するに、「実験は大切、きちんと事実から考えよう」と言っているだけです。
しかし、本当に難しいのは、その考え方を実在論に持ち込んだ場合です。
振り返ってみると、ベーコンの思想は現実・事実から観念を創造するという手法でした。
ただ、この理論はまだ論点を残しており、そのうちの1つが、"現実とは何か"です。
なるほど、現実を観察していれば観念を生み出せることはわかりました。
しかし、そもそも現実というのが間違っているのであれば、観念も間違っているということになります。
「ん?どういうことだ?」と思うかもしれませんが、これについての主な論客であるバークリーとヒュームの思想を見ていくとなんとなくわかると思いますよ。
ちなみにこの思想で最も重要なのはロックなのですが、彼については、ロックが考えたこと【倫理の偉人たち】で紹介しています。
ロックが考えたこと【倫理の偉人たち】
http://www.juku.st/info/entry/1262
バークリー
バークリーの有名な言葉に
「存在するとは、知覚されることである」
というのがあります。
この考え方は、ある意味とんでもない考え方といえるかもしれません。
例えば、
この記事の文字は何色ですか?
たぶん多くの人は「黒」と答えると思います。
しかし、あなたが黒と思っている色は、私にとっての緑なのかもしれないのです。
つまり、「あなたにとっての黒」と「私にとっての緑」が同じ色かもしれないのです。
また、「あなたにとっての四角形」は「私にとっての三角形」なのかもしれません。
そんな馬鹿な話があるか、と思うかもしれませんが、究極的にいえば、この人生は一種のバーチャルゲームだと言われても否定できないのです。
そうなると、この世界にあらゆる物質が「存在している」と言うことができなくなります。
では何を「存在する」といえるのか。
それは、あなたが頭に思い浮かべる観念(知覚したもの)だけが、存在するというのです。
ですから、現実・事実から帰納的に何か観念を生み出そうとしても、その観念は客観的なものとは限らないというのです。
ゆえに私たちが「太陽は赤い」という知識を持っていたとしても、その知識は客観的なものとはいえないというのです。
ヒューム
ヒュームはバークリーの考え方をさらに過激にしたものです。
彼が言うには知識や自我というのは、知覚の束にすぎないというのです。
まず知識について説明しましょう。
例えば、1+1=2である理由を説明せよ、と言われたら、みなさんはどうやって説明しますか?
小学生に説明する方法の一つとして、りんご1個とりんご1個、合わせて何個あるかな?と実際に数えさせる方法があります。すると小学生はもちろんりんごを合わせて数えて「2個」と答えてくれるでしょう。
しかし、りんご1個とりんご1個を合わせてりんご2個になる理由はここでは説明されていないのです。
中学生にこう聞いてみましょう。
「りんご1個とりんご1個、合わせて2個だが、それはどうしてだ?」と。
多くは、おそらくこう答えます。
「1+1=2でしょ?」と。
この答えでは、数式の説明のために事実を用いたのに、事実の説明のために数式が用いられるといったトートロジー(同義語反復)が発生している。じゃあそもそも1+1=2ってなんだ?という話になるわけです。
このように、私たちが当たり前だと思っている知識だってそもそも確かなものとは限らないというのです。
これはまさに帰納法的な考え方です。
というのも、帰納法とはたくさんの事実から真実を見つけ出す方法なので、そこにはどうしても”絶対そうだ”という確信は持てないのです。
100個事例を調べても、101個目で反例が出るかもしれませんからね。
ヒュームはこの帰納法の特徴に注目し、知識の実在を否定してしまったのです。
この考え方は心の存在までも消してしまいます。
私たちが「心は存在する」と思うのはなぜでしょうか?
怒りを覚えた時?恋に落ちた時?
死を考えた時?愛を考えたとき?
ヒュームはこれらの全ては知覚の集合体にすぎないというのです。
叩かれた→怒り
優しくされた→恋
友人の死を見る→死を考える
このように、何かしらの状況に対して反応しているだけにすぎない。
心というのはこれらのように、状況に対する反応の集合に過ぎないというのです。
そしてこれらの集合を私たちは、「自分という存在」がここにあると勘違いしていると主張するのでした。
まとめ
結局バークリーもヒュームも「現実なんて嘘っぱち」と結論づけているのです。
うーむ、これでは元も子もない気がしますね。
しかもこの思想のたちの悪い点は、反論できないということなんですね。
私たちが当然だとみなしてきた現実が「嘘っぱち」と言われてしまったら、どうやって反論できるというのでしょうか。
もちろん、昔の人はこのことを指摘しました。
彼らの思想はあまりにも主観的であると批判があったのです。
そのため、経験論の発展はヒュームで途絶えたのでした。
経験論の意義
みなさんはこういうことを考えたことはないですか?
「この世界は5分前に出来上がったものである。今いる私、そしてみんなが持っている記憶は神に創造されたものにすぎない」
いわゆる「世界5分前仮説」というものです。
ちなみに論理的にこの仮説を否定することはできません。まぁだからこそ科学とはいえないのですが...
さらにこういった考え方はどうでしょうか?
「今いるこの世界は、本当は実在しないものである。”本当の世界”にいる私が、ゲームをプレイしている状態なのだ」
SFでこういった世界観を見ないでしょうか?
つまり今いるこの世界が夢であり、この世界とは別に”本当の世界”があるという考え方。
このように、現実世界の存在までもを疑おうとする姿勢を懐疑主義と呼びますが、その思想は現代にも受け継がれているのです。