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【重要テーマ】中国近現代史「文化大革命」とは?

高校生

2021/12/17

毛沢東の逆襲

前記事(「【重要テーマ】中国で起こった「大躍進政策」とは?~社会主義をどう捉えるか~」URL:http://www.juku.st/info/entry/1184 をご参照ください)という記事で、イギリスやアメリカに追いつこうとした中国の毛沢東の政策が中国大陸内でどのような影響を及ぼしたのかについてご紹介しました。簡単におさらいをします。

1949年10月1日、毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言します。
共産党という名前にも示されていますが、ソ連と同じように経済体制は社会主義路線を採用しました。毛沢東は中国が、経済的な飛躍をしていくには、鉄が必要不可欠であると考えていました。
しかし、中国には日本のような製鉄所がありませんでした。そのため、人海戦術で鉄を生産する方針を取ります。
生産
その具体的な方法が「100万基の溶鉱炉を6000万人の人民が生産する」というものでしたね。
しかし、自家製の溶鉱炉で作ることの出来る鉄には限界があるということや、農村においてもこれを徹底させたことが原因で環境面、経済面、生活面で、大きなマイナスの影響が出てしまいます。
中でも農業のダメージは深刻でした。畑を耕す道具は鉄を作るために溶かしてしまい、鉄の生産に時間を取られる余り農作業がおぼつかなくなり、生産量が激減します。
これによってついに飢餓という現象が中国各地で起こり、餓死をする人はおよそ2000万人を超えたと言われています。

という部分まで前回の記事でお伝えしました。
この「大躍進政策」が大失敗に終わり、1959年4月に毛沢東は国家主席の座を失うことになります。(共産党の主席の座は確保していました)
しかし、毛沢東はこの後、もう1つ大きな歴史的事件を残します。それが「文化大革命」というものです。
この「文化大革命」も前回の「大躍進政策」に引き続き、入試に頻出であるかつ、中国の近現代史を理解する上で重要な部分です。
本稿では、上記のような問題意識から、

1960年代半ば~70年半ばにかけて起こった「文化大革命」とは何だったのか

ということを生徒がしっかり納得できるような指導法をご紹介します。

毛沢東の危機感

こうして、新たに国家主席の座についた劉少奇が、底をついた経済の立て直しに動き出します。
まずは、鉄ではなくて農作物の増産に力を注ぎます。

そのために、人民が生産した農作物を政府が高い値段で買い上げ、さらに国家に対して売れ残った分については販売したり出来るようにして、労働者の生産意欲をかきたてます。

こうした懸命なリカバリーの甲斐があって、1962年頃から中国経済は復興する兆しが見えてきます。
兆し
しかし、国家主席の座から失脚していた毛沢東は当然このような動きが面白くありませんでした。
(国家主席の座を失っていても自らを批判する人物を失脚させるくらいの権力を毛沢東はまだ持っています。)
良かれと思って行った「大躍進政策」は大失敗に終わり、自らが理想としていて共産主義思想に基づく、
農業の集団化にも歯止めがかかり始めていたからです。

さらに、経済を立てなおしていた劉少奇や鄧小平という人物に指示が集まって、中華人民共和国を建国の父である自分の地位が弱まってしまう可能性にも不満を抱きます。

「文化大革命」の前提に、このような背景があったことをまずは生徒にしっかり意識させるようにしましょう。

「文化大革命」はなぜ始まったか

「文化大革命」という約10年に及ぶ壮大な闘争は、歴史劇への干渉から始まりました。

1965年の11月、その年に行われていたある歴史劇について、上海の新聞が評論を載せます。
その歴史劇とは『海瑞罷官』で、中国の明の時代に、皇帝に対して勇気を持って批判的な意見を述べた”海瑞”という人物の物語です。
最終的にこの”海瑞”は皇帝に歯向かったとして失脚してしまうという結末になっています。

これを見た毛沢東はこの劇を見て、なぜか「劇を通して自分への間接的な批判をしている」と受け止めてしまいます。この背景にあったのがここまでも述べてきたとおり、「大躍進政策」の失敗による毛沢東の立ち位置の変化です。

政策の失敗によって政治的な手腕の評価が分かれており、自らを包囲して打倒しようとする「毛沢東包囲網」が自分を追い詰めるのではないかと疑心暗鬼になっていました。
この「毛沢東範囲網」は実際にあったかどうかがわかっていないため、毛沢東による被害妄想なのか、影でそのような動きがあったのかはわかりませんが、彼はこうした状況に対してある決断をします。

 

毛沢東の決断

それは、「自分への支持が残っているうちに、この自分を包囲する動きを打ち破ろう」というものです。
「大躍進政策」ほどの大失敗があっても、コインがひっくり返るように毛沢東の評価が落ちるということはありませんでした。
なぜなら、戦前から続いていた国共内戦の動乱をおさめ、中華人民共和国の建国宣言をした毛沢東を英雄視する人が依然として多く残っていたからです。

シルエット

しかし、劉少奇や鄧小平の政策によって経済が復興へと動き出して、毛沢東が国家主席の時よりも生活が豊かになっていけば、自分の立ち位置がいよいよ危なくなるということを予想しました。

そうした予測から下線部のように、支持が残っているうちに行動に出ようとしたのではないかと言われています。事実、これとほぼ同じ時期に、上記の『海瑞罷官』への干渉をするという、批判勢力を打ち破る本格的な動きに入っています。

ここまでが文化大革命がはじまるまでのきっかけです。この内容を踏まえて、いったい
文化大革命とは何を革命しようとした動きであったのか、いよいよ授業の山場へ入って行きましょう。

 

「継続革命理論」

『海瑞罷官』への批判をしたのと同じ1965年から約10年に渡って続いた壮大な文化大革命ですが、実はこれをどう定義するのかは今でも様々な意見があります。
単純に言えば(言おうとすれば)毛沢東の政権奪還へ向けた権力闘争なのですが、これにはイデオロギーの部分も複雑に絡み合っているからです。

思想

このイデオロギーを読み解くために重要な理論が「継続革命理論」というものです。

基本的に「社会主義革命の成功」した状態というのは、資本家が打倒されていなくなり、階級闘争がなくなるという事を意味しています。(拙稿「資本主義・社会主義・共産主義の違いをわかりやすく教える方法」URL:http://www.juku.st/info/entry/685をご参照ください)

しかし、毛沢東はこれにもう少し考えを加えます。
それは、「社会主義革命が成功したとしても、(それをより高次に発展させた)共産主義が実現するまでの間には労働者階級と資本家の階級闘争は残っている」というものです。
つまり、階級闘争が無くなるまでの間は、残っている資本家とは「継続」して闘い続けなければならないかつ、社会主義社会の中でも常に気を張って資本主義が復活しないようにしようという理論を立てていました。

毛沢東に代わって経済を立てなおしていた劉少奇や鄧小平の政策が、わずかでも私有財産を認めていることへの牽制でもあったのです。
「文化大革命」というのはこのように、社会主義のイデオロギーで資本主義のイデオロギーを追放する、
「(資本主義)文化きく革命する(=追放する)」ということを軸とした闘争だったのです。

まとめ

本稿では、ここまで「文化大革命」とは何をきっかけにして起こった闘争だったのか、そして毛沢東は劉少奇や鄧小平の政策に対して何を不満に思い、革命へと乗り出したのかを追ってきました。授業のポイントを整理すると、

テーマ:10年続いた「文化大革命」毛沢東は何を変えたかった!?
◯復習
(1)「大躍進政策」
(2)国家主席劉少奇の立て直し策
◯毛沢東の危機感
(1)共産党の主席は確保していたものの・・・
(2)根強い毛沢東支持率
◯毛沢東の決断
(1)支持率が残っているうちに!
(2)「毛沢東包囲網」を打ち破れ!
◯継続革命理論とは
(1)何を持って「社会主義革命の成功」といえるのか
(2)「文化大革命」とは

という順番で説明するとスムーズに「文化大革命」とは何かという部分までたどり着けると思います。
本稿は「文化大革命」までの動きを確認しました。次稿でいよいよその中身をどう指導するべきかお伝えしたいと思います。本稿は以上です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!

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