古代の土地制度
大学入試を控える受験生の日本史を指導していると、生徒たちがつまずきやすいポイントが見えてきます。
皆さんが高校生を指導している時のこと、または実際に受験生であった高校時代を思い出していただきたいのですが、古代史の中で特にどの部分が他の受験生と差がつく部分だと思いますか?
文化史などの細かい知識ももちろんそうですが、古代史においては土地制度の変遷が、得点の大きな分かれ目になっています。過去10年分のセンター試験や有名私立大学、国公立大学の論述問題を見てみても、古代史の土地制度の問題はいずれかで必ず問われています。
なぜこれほど入試に頻出なのか、筆者がこれまで実際に学会などで会った古代史の教授から聞いたり、研究史的な意義から考えたことをまとめると、その理由は2点あります。
- 内容面として、古代の土地制度の変遷は天皇を中心とした支配体制の重要な1側面になっているかつ、国家財政を左右するものであり、その後の中世の封建制度にも深く結びついているということ。
- 出題者側の心理として、1つ1つの制度が社会的背景と密接にリンクしているため、政治史だけでなく、経済史や法整備など色々な要素をからめて出題が出来るということ。
があげられます。
古代において、税というのは(調・庸など他にもありますが)稲を中心とする農作物でした。
今現在でもそうですが、税がしっかりと入ってくるか否かというのは、国家財政にとって大きな問題だったのです。そのため、効率的な税徴収を行うために、土地制度にも様々な取り組みがなされます。
まずは、塾講師の皆さんに土地制度の変遷がなぜ重要なのかを改めて認識してもらうためにこの重要性を取り上げました。本稿では上記のような問題意識から、
古代の土地制度の変遷を生徒がしっかり理解できる
ような指導法をご紹介します。
公地公民制の始まり
まず、古代において「公地公民制」の制度が原則とされたのは646年の改新の詔が発布されてからとなっています。「公地公民制」が制度化されるまでは、「私地私民」といって、有力豪族なども自らの土地と民を所有していました。
しかし、630年に隣国に隋よりさらに強大な唐が誕生し、東アジア情勢に大きな変化が起こります。
中大兄皇子、中臣鎌足らは、天皇を中心とした強い中央集権国家を作っていかなければならない状況になったと判断し、乙巳の変をはじめとする政治改革、大化の改新を実行しました。
ここまでが、「公地公民制」を採用するまでの過程となります。
授業でも、歴史の現場である史料を活用して、その内容を確認しましょう。
「①其の一に曰く、昔在の天皇等の立てたまへる子代の民、処々の屯倉及び別には臣・連・伴
造・国造・村首の所有る部曲の民、処々の田荘を罷めよ。(中略)
其の二に曰く、初めて京師を修め、畿内・国司・郡司・関塞・防人・駅馬・伝馬を置き、及
び鈴契を造り、山河を定めよ。(中略)
②其の三に曰く、初めて戸籍・計帳・班田収授の法を造れ。(中略)
其の四に曰く、旧の賦役を罷めて、田の調を行へ。(以下略)」
引用元:『日本書紀』
下線部①において、天皇の並びに豪族の私有地・私有民を辞めるようにしましょうという事が述べられています。また、②において戸籍や計帳を作り新しい形での班田収受の法を造る、と述べています。
これによって統一税制(租庸調)を確立するとともに、口分田を班給するという「公地公民制」が確立されたということを生徒にしっかり意識させるようにしましょう。
さて、この時の税の中身についてもう少しだけ確認しましょう
(1)土地税
・租:田一段につき稲2束2把(収穫の3%)→国衙(国司の勤務する地方官庁)の財源に
(2)人頭税
<物納>
・庸:京で年間10日間の労役(歳役)の代わりに麻布2丈6尺
・調:貢物にあたり各地の特産物など
<労働提供>
・雑徭:国衙において年間60日の労役
・兵役:各国の軍団で訓練→宮城警備の衛士と太宰府警備の防人
という大きく分けて2種類の税がありました。
(2)の人頭税は、とても負担が大きかったため、性別をごまかして租税を免れる偽籍や、本籍地からは離れるものの、調庸のみの税を納める浮浪やそれも放棄した逃亡などが相次ぎました。
三世一身の法
このような事態が相次ぎ班田収授によって与えていた口分田は荒廃し、税を収めてもらうための口分田そのものが不足するという状況に陥りました。
そのような状況を目につけた長屋王は722年、口分田の不足を打開するために100万町歩という単位で良田(作物を収穫できる下地のある田)を開墾する百万町歩開墾計画を練るも、あまり効果を得られません。
そこで翌723年三世一身の法を発布します。まずは内容からまた確認しましょう。
(養老七年四月)辛亥。太政官奏すらく、「頃者、百姓漸く多くして、田池窄狭なり。(中略)其の新たに溝池を造り、開墾を営む者有らば、多少を限らず給ひて三世に伝へしめん。若し旧き溝池を逐はば、其の一身に給はむ」と。(以下略)
引用元:『続日本紀』
という内容になっています。
これも指導のポイントをまとめると、要するに
<内容>
開墾した土地の私有を期限付きで認める。
→新しく灌漑施設を伴う土地開発をした場合:3世代保有できる
旧来の灌漑施設を伴う土地を利用した場合:1世代のみ保有
というように、新たに開墾して税を納めるのであれば、孫の代まで土地の所有を認め、すでに灌漑施設の機能を有して上記のような逃亡などにより荒れていた土地を開墾して利用した場合には1世代のみ期限付きで保有を認めることにしました。
これは民間による耕地開発を目指したものですが、一時的に効果が上がるも期限が近づくと再び口分田が荒廃するなど大きな成果は得られませんでした。
墾田永年私財法
さて、期限を設けて私有を認める三世一身の法があまり大きな効果を得られる事が出来なかったため、さらに徹底した改革を行います。それが743年に出された「墾田永年私財法」というものです。
こちらも例にならって、史料から確認しましょう。
(天平十五年五月)詔して曰く、「聞くならく、墾田は養老七年の格に依りて、限満つるの後、例に依りて収授す。是に由りて農夫怠倦し、開きたる地復た荒ると。今より以後、任に私財と為し、三世一身を論ずることなく咸悉くに永年取る莫れ(以下略)」
引用元:『続日本紀』
さて、下線部のところと、傾向で示した部分から具体的に何を述べようとしているかが伝わってくると思うのですが、こちらも指導のポイントをまとめると、
<内容>
開墾した田の永久私有を保証。位階に応じて開墾面積が制限(一位:500町~初位:10町まで)され、土地開発者として貴族や大寺院、地方豪族を想定。
ここで、貴族や大寺院や地方豪族を想定したのは、そもそも開墾の制限を最も受けない一位は大土地を開墾しやすい状況にあったということと、もともとの経済力が大きいという2つの側面があったからです。
そして、実際にそうなります。
765年に一度は禁止されるという事態は起こるものの、772年以降は再び永久私有が認められることになりました。これによって公地公民の原則が崩れることになります。しっかりとした税徴収を行うために、大化の改新以降貫いてきた原則を改革する必要があったのです。
これをもって、墾田永年私財法を契機に8~9世紀に成立する、貴族や大寺院が土地の開発・墾田の買収を行って獲得した輸租を原則とする荘園のことを初期荘園と言います。
形式としては農民へ賃租、つまり所有している莫大な土地の一部を貸し出して利用料を徴収します。
繰り返しになりますが、このような荘園を貴族や大寺院、地方豪族らが開墾して経営しました。
まとめ
本稿では古代史における土地制度の変遷をどう教えるかについてご紹介してきましたが、いかがだったでしょうか。ポイントをまとめると、
テーマ:初期荘園はどのように形成されたか?
◯大化の改新によって土地制度はどうかわった?
(1)復習~私地私民~
(2)強国唐の誕生
(3)中央集権国家の必要性
◯公地公民は上手くいったか
(1)公地公民は機能した?
(2)原則を変えてでも徴収したかった税
◯2つの対策
(1)三世一身の法
(2)墾田永年私財法
(3)初期荘園とは
という順番で説明をしていけば、初期荘園がなぜ生まれることになったのか、という背景が見えてくると思います。ここまで丁寧に初期荘園をしっかり確認したいのは、この後の土地税制にも大きな影響を与えていたからです。その点については次稿でご紹介します。
本稿は以上です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!