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【入試頻出】古代の土地制度をどう教えるか~延喜の荘園整理令が目指したもの~

高校生

2021/12/17

土地制度の転換

前稿「【入試頻出】古代の土地制度をどう教えるか~初期荘園の成立まで~」(URL: http://www.juku.st/info/entry/1191  をご参照ください)において、646年の公地公民制の原則がいかにして崩れ、初期荘園が成立するに至ったのかの指導法をご紹介しました。
もう一度、なぜ土地制度をしっかり指導しなければならないのかを確認します。

説明

大学入試において、古代の政治史というのは日本史の出発点である上、近現代史ほど複雑な経済的・外交的要素が入り組んでいないので、その後の中世以降の時代に比べて得意・不得意が分かれにくい部分です。

それでは、講師は、生徒がきちんと細かい部分まで勉強していたかを、どのように見分けられるのでしょうか。

それは、前稿でもお伝えした「土地制度」の理解度です。センター試験や私立大学の入試はもちろん、国公立大学の2次試験の論述でも多く問われています。

土地制度は、当時の時代背景や、為政者の意向と1つ1つの策の史料とともに理解できていれば決して難しくはないのですが、その後の国家財政への影響や地方支配体制の変化など多くの事象と絡めて理解しなければなりません。


上記のような理由から、筆者は、

難関私大対策や国公立2次の対策としても有効な古代における土地制度の転換点「延喜の荘園整理令」をいかに生徒の目線でわかりやすく指導するかという問題意識をみなさんに持っていただきたいため、本稿を執筆しています。

よって、前稿に引き続き、本稿でも

古代の土地制度の変遷を生徒がしっかり理解できる

ような指導法をご紹介します。

 

なぜ必要に迫られたか

前掲(「【入試頻出】古代の土地制度をどう教えるか~初期荘園の成立まで~」URL: http://www.juku.st/info/entry/1191 をご参照ください)でもご確認頂きたいのですが、
723年の三世一身の法によって、期限付きで私有を認めることによって開墾を拡大して税収入をあげようとするも、効果があまりなく、743年に聖武天皇によって発令された墾田永年私財法によって初期荘園が確立したという事をご紹介しました。

本

しかし、これによって税の徴収難が解決するということはありませんでした。
「公地公民」という原則を崩してももう1つの「人身賦課」という原則があったために、徴収が困難になっていたからです。

では具体的にそれはどういうことか、以下で述べていきます。

延喜の荘園整理令

墾田永年私財法による税収入の向上を目指すも、朝廷は国家的財政難に苦しみ続けていました。
そのような流れを見てついに、醍醐天皇は701年から施行している律令制度の原則に基づく班田収授による財政運営は不可能であると判断し、現実に則した政策へ転換する事を決意します。

これについて、まずは902年に醍醐天皇が発令した延喜の荘園整理令を確認してみましょう。

「応に(1)勅旨開田、并びに(2)院諸宮及び五位以上、百姓の田地舎宅を買ひ取り閑地荒田を占請するを停止すべき事。
  右、案内を検するに、頃年勅旨開田は遍く諸国に在り。空間荒廃のちを占むるといえども、
(3)是れ黎元の産業の便を奪ふなり。(以下略)」
                                引用元:『類聚三代格』

743年の墾田永年私財法によって開墾された初期荘園は、中央貴族や大寺院、有力豪族には莫大な利益をもたらすものの、国司の権力が及ばないために税の徴収ができる土地(公領)が減り財政収入に大幅なマイナスを与えていました。

国家財政の収入源とするために、公営田官田勅使田といった中央に入ってくる財源を確保するための田も設置しましたが、これを運営するために費用が多くかかるため結局効果を得られていませんでした。

こうした背景を確認した上で実際に内容を見てみましょう。以下が解説のポイントです。

まずは下線部(1)にあるように、醍醐天皇が即位した後に作られた勅使田を廃止するということが指摘されています。
さらに下線部(2)の部分で「諸院諸宮及び五位以上」の有力貴族が百姓からの寄進を受けることによって税徴収を阻害することや、荒れた土地を新たに不法に占拠することを停止することが明記されています。
そして下線部(3)「黎元」とは農民のことです。つまり、こうした土地の占有が進んで農民たちを困らせていると指摘しています。

つまり、新しい荘園の設置を取り締まるとともに、不法な荘園(有力貴族の権威を借りて租税を免れていた荘園)を取り締まり、「公領」を取り戻そうとしていた動きが読み取れます。

そしてこれは「公領」を取り戻していくために、「公領」を管轄下に置く国司の権限を強化することにつながっていきます。

人身賦課の限界

さて、この整理令によって税制は改善されたのでしょうか?

結論から述べると、完全な租庸調制には戻ることが出来ませんでした。その点を指摘しているのが次の史料です。なぜ戻れなかったのかを確認する視点で生徒に史料を読ませてみましょう。

「臣某言す。…臣去る寛平五年、備中介に任ず。彼の国下道郡の迩磨郷有り。爰に彼の国の風土記を見るに、皇極天皇六年、…天皇詔を下して試みに此郷の軍士を徴す。 即ち勝兵、二万人を得たり。天皇大いに悦び、此の邑を名づけて二万郷といふ。…後に改めて迩磨郷といふ。(中略)
天平神護年中、右大臣吉備朝臣、…試みに此郷の戸口を計るに、纔に課丁千九百余人有り。
貞観の初、故民部卿藤原保則朝臣、彼国の介たりし時、…大帳を計るの次で、其の課丁を閲するに、七十余人有り。
某、任に至り又此の郷の戸口を閲するに、老丁二人・正丁四人・中男三人有り。去る延喜十一年、彼国の介藤原公利、任満ちて都に帰る。清行、迩磨の郷の戸口、当今幾何を問ふに、公利答へて日く、「一人も有ること無し」」(以下略)
             引用元:『本朝文粋』

大体多くの史料集や史料問題などでは上記のような長さで載せられていますが、この史料を通して解説する必要がある部分は太字で下線部を引いた所を中心とした、以下の2点です。

①皇極天皇が九州に行く途上で、このあたりの兵士を集めてみたら2万人もの兵隊が集まった
→しかし、戸籍の数が合わず、三善清行自身で調べてみたら課税対象と成る男子が70人しかいない。
 しまいには備中介の任を終えた藤原公利が「1人もいない」とまで述べる状況に。
②戸籍が形骸化していること
→(①との関連で)人はたくさんいるのに帳簿上には全く違う数が載せられている、つまり税を課すための戸籍が実態に合っていないものになってしまっている。

これまで人身賦課という人間単位で税を課すというのが律令制の大原則でした。
しかし、それももはや形骸化してしまい、その形式のままでは税の徴収は改善できないということを実例とともに伝えているわけです。

人身賦課から土地課税へ

そこで、徴税方式を変えます。
律令制の下では成年男子を対象に人頭税を徴収するという方式を採用していましたが、名の耕作と町税を請け負う有力農民層の田堵が徴税を請け負う土地課税方式へと移行します。
税の賦課単位が人であれば逃げられてしまう、では動くことの出来ない土地に税をかければ有効である、という事から土地単位へ変更したのです。

税
この田堵の中には土地の大規模耕作を受けおって、経済力をつけていく大名田堵と呼ばれる者も現れます。

先述した通り、延喜の荘園整理令に即して、国司の権限を強化する必要があったということを確認しました。
その具体的な強化内容とは、一国内の徴税と行政を全面的に任せることでした。
元々国司は中央の決定事項を地方にしっかり浸透させるための諸々の政務を行うのがその役目でしたが、
この強化によって、一国内の国司による支配力が強まったことになります。

こうして、土地課税方式への転換によって権限が強くなった国司の支配の下で農民に耕作させます。
課税対象となる田地は名(名田)という単位に編成し、そこから官物(租米や年貢のこと)・臨時雑役(その他の付加税)を徴収しました。

さらに、国司の職を得ようと私財を提供することによって国司という官職を得ようとする成功や、同じ行動によって任期を務め上げてからも同じ国司に再任してもらう重任という行為が見られるようになります。
また、国司に任じられるものの、現地には自らの代わりに目代を派遣して国司の収入を得る遥任という形をとる者も現れました。

まとめ

以上のように、延喜の荘園整理令が後に及ぼした影響は以下の3点にまとめることができます。

①国司による徴税強化と招いた反発

国司は現地で中央政府が定めた分の土地税を取ることが最大の職務とされました。
そのため、中には自らの懐を暖めるために、必要以上に税率を課し、反発を招くということがしばしば起こります。とても有名なのが以下のものです。こちらも頻出史料なので、授業では内容を確認しましょう。

尾張国郡司百姓等解し申す、官裁を請ふの事。裁断せられんことを請ふ。当国の守藤原朝臣元命、三箇年の内に攻め取る非法の官物并びに濫行横法卅一箇条の愁状。(中略)
 永延二年(988年)十一月八日 郡司百姓等」
                        引用元:『尾張国郡司百姓等解(文)』   

 解説のポイントは、上記の徴税強化によって「尾張国」の郡司や百姓が国司の最上級者である受領の藤原元命の非法な行為を太政官に申し出ているという事です。

②国司という職業の利権化先述したとおり、国司という職業が一国の支配と徴税を一任されて(徴税請負人化)権力が増すことで、それに対する成功や重任のような私財を投じる賄賂行為が起こるようになりました。

③国衙機構の変質また、国司が変質するということは国司が務める国衙という機構の変質にもつながります。
これも繰り返しになりますが、現地に目代を派遣する遥任や開発領主などの地方豪族を在庁官人に起用して国衙の実務を担わせるようにもなったのです。

 

延喜の荘園整理令の一連の動きによって、これまでの土地制度に大きな転換であるということが本稿でお分かりいただけたと思います。国司という職の変質のみならず、中世の封建制度を理解するためにも最後の3点をおさえておくことはとても重要になります。
本稿ではこうした思いから、難解な土地制度の転換の指導でおさえていただきたい部分をご紹介しました。

長くなりましたが本稿は以上です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!

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